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誰の手にも持たされている自由

 「価値ってなんだろうね」。そんなことをふと思ったのです。

 真価/価値 を問う
 真価/価値 を発揮する 

 真価と価値って同じものかしら?それとも違うものかしら?

価値を判断する基準

 「価値に見合った報酬ってなんだろうね」。
 「等価交換ってどうやってはかればいいんだろうね」。
 商品にはみな値段がつけられているけれど、その値段って絶対性がどこまであるのでしょうね。

 【差し出されたコップ1杯の水】
運動後に喉がカラカラになっている人にとっての価値
とてつもなく美味な水を手に入れて持っている人にとっての価値

 それを考えた時、喉がカラカラな人にとってそのコップ1杯の水はとてもありがたいものかもしれなくて、だとするとそのコップ1杯の水の価値は高いと言えます。水よりミネラルという詳細は横に置いといて。
 でも充分に水を持っていて、「選べる」状況にある人にとって、それはさほど「欲しい」と思えるものではないとしたら、その人にとってはさほど価値を置くものとは判断しないことでしょう。

 それってつまりどういうことかというと、価値判断基準というものが前提にあるわけですよね。その判断基準は状況によりけりであって、時代を超えた普遍性を持たないでしょう。でも、その時代で「成功するためには価値のあることとはこういうものである」という基準値は存在するということなのでしょうね。

時代性と時代を超える普遍性

 時代に求められていることを価値の判断基準として見抜くちからは、とても繊細なセンスです。広い視野と多くの人の声を聴く力のようなものなのかもしれませんね。

 一方で普遍的な価値に魅力を感じる人も存在しています。多くは時代を超えた本質的ななにかを感じるセンスということになるでしょうか。

 どちらもいて、どちらもすばらしいなと思います。

 なんども言っているようだけど、多様性とはすでにあるもので、どれが正しいかどうかで区別されることでもなく、ジャッジされる意味を有さないものだと考えています。
 真価/価値を発揮する。その時と言うのはマッチングといえるでしょうか。「ちょうどよい」とか。「合っていた」とかいうたぐいの次元になるのかなとなんとなく思うのでした。

 自分が思う価値は、やはり個人の思想、良心にもとづいているものといえそうです。ならば、それは個々人に内在するものとして尊重されるものですね。固定した価値観念である理由はなさそうです。
 普遍性というものまた比較的長じて広く適すると言うだけに過ぎませんから、これが真理であるかどうかは定めることもできないような気がします。いずれにせよ個人が生きる上でそのように考えると腑に落ちることであって、生きるためのエッセンスということになるでしょう。
 誰でも、それぞれエネルギーとするものは違っているのでしょうから、互いの価値判断の基準を眺めてみるのも刺激になっていいかもしれませんね。でも、特定の誰かに依存する必要も無いということかな。

基準・判断・決定権は誰に

「あなたには価値がある」

 その言葉はとても優しいけれど、やっぱり、その人が思う基準に依るものであるというだけなのですね。価値があると思ってくれることはとてもうれしいけれど、そのことと「私には価値がある」と私自身が自分でそう思うこととはきっと別物なのですね。それほどまでに人は、個であるということを実感します。
 価値があるとは確かにそうなのだけれど、それが「どのような価値なのか」は、個々人に内在するひとつの指標であって、私的(プライベート)であるということだと思うのです。それが尊重されるべき個人の思想・良心ということなのではないでしょうか。

 「良き人間であれ」と求めるあまり、「良き人とはどのようなものか」に目を向けることに偏っているのではないか。そんなことを感じるのです。「良き人とは」の指標を定め、どれだけ「良き人であるのか」を証明するためのリストに乗っかり、個人の存在を承認するというプロセスが、なぜか当然のように世間にはびこっているような、そんな気配がするような。
 「良き人」は「正しい人」なのでしょうか。
 「正しいことをしている人」なのでしょうか。
 「良き人」は「価値のある人」のことをいうのでしょうか。
 「価値あるおこないをする人」のことをいうのでしょうか。


 ねぇ。
 あなたはあなたのままでいい。
 わたしはわたしでしかないから。何者にもなりたいとは思わないから。

 わたしは知りたい
 あなたが どんな人 なのか

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