皇居のある_千代田区千代田_を学ぶ_東京23区コンプリート_のコピーのコピー

小学館、集英社、毎日新聞社と有名企業が本社を構え、大学発祥の地でもある『千代田区 一ツ橋』~東京グラフティレコード~

タクシーをエンタメにしています、
ヨナシロです。

東京の地名と歴史を学んだら、都内がテーマパークになるんじゃないか?とスタートしたこのシリーズ。
区ではなくその下の町で括り(例,港区六本木)、町の名前の由来や歴史などを勉強しています。

気になるところだけでも読んで行ってください。
面積の小さい地区ですが魅力が詰まっています。

『東京グラフティレコード』とは、、、
東京でタクシー運転手をしているヨナシロが、改めて地理を勉強するためにアウトプットの場として設けた地理、歴史の勉強シリーズ。
 地理だけでなく、その場所の歴史や由来まで全てを修めることを目指す。 
江戸時代、明治、昭和、現代と、各時代ごとの地理を知り、地図を時代ごとの階層で見るができると面白そうだと思って始めました。
通と言われるほどの知識はまだ持ち合わせていませんので、歴史好きな方はご容赦下さい。 
ご教示いただけますと幸いです。
名前は『東京地理記録』だと味気ないのでカッコよくした。

第三回目の今回は有名企業の本社が集中する『千代田区 一ツ橋』についてまとめます。


千代田区 一ツ橋 の由来と場所

由来
千代田区一ツ橋という地名の由来はこの地域の南側、江戸城の外郭に位置する日本橋川にかかる橋「一ツ橋」が由来になる。
では、その「一ツ橋」自体の由来は何かと言うと、徳川家康が江戸城に入った頃ここに丸太一本の橋があったことや、日本橋川と小石川の合流地点の意味として二つの川が「一つ」になる地点にある橋という由来がある。
また、このそばに松平伊豆邸という屋敷があったことから、貞享三年(1686年)の江戸図には「伊豆橋」という表示もされているとか。

場所
皇居の北側、駅で言うと東京メトロ東西線の竹橋駅、都営地下鉄新宿線、三田線の神保町駅が近くにある。
この場所には小学館、集英社や毎日新聞、株式会社マイナビ、夏目漱石の「こころ」を刊行した岩波書店が本社を構えている。
また、東京商科大学 (旧制)、現在の一橋大学発祥の地であり、隣の神田錦町には東京大学、学習院の前身校があったことから文教地区としての雰囲気も残っている。


千代田区 一橋の江戸時代

江戸時代初期は主に武家地
江戸時代以前の情報はあまり見つからなかったが、徳川家康関東入国時は沼地だった所で、木村源太郎なる者が3・4町を拝領して埋め立てたといわれているそうです。
江戸時代前期、慶長11年(1606年)後には外郭門が築造され「一橋御門」と名付けられた。
明暦の大火頃までは主に武家地があった場所ですが、その後門外は火除地(ひよけち)となったそうです。
※火除地=防災用の跡地

御持院ケ原
火除地となったこの周辺に筑波山護持院が隣接していたことから、御持院ケ原(ごじいんがはら)と命名されることになる。/ 森鴎外の小説で有名

(画像引用元)


徳川一橋家屋敷
元文五年(1740年)、徳川八代将軍吉宗は第四子の宗尹(むねただ)に一橋門内に屋敷を与え、一橋家を創設し御三卿のひとつに数えられた。
この地はもともと江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主(現,埼玉県行田)、同川越藩藩主(現,埼玉県川越)だった松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)の屋敷だった。
その頃の一橋は「伊豆橋」とも呼ばれていた。
※御三卿=江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家で位的には御三家の下に位置する

一橋家を有名にした将軍の輩出
一橋家は徳川御三卿のなかで唯一将軍を輩出している。
第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜。特に徳川最後の将軍となった慶喜は一橋慶喜の名でもよく知られているが水戸徳川家から一橋家に養子に来ていた。
他の御三卿、田安家、清水家と一橋家はそれぞれの門内に屋敷を置いたことからその名を性とした。
一橋門の他に田安門、清水門という門が存在する。


千代田区 一橋 の明治・大正時代

江戸幕府の終焉後、一橋御門は撤去された。

有名大学の発祥の地
一ツ橋と一橋に隣接する神田錦町はかつて護持院原と呼ばれたこの一帯だった。
そこに東京大学・一橋大学・東京外国語大学・学習院の前身校が置かれたことで明治時代初期はに文教の地区となり、各校の発祥の地として今も雰囲気を残す。

如水会館
かつての一橋御門の外、護持院原で今も一ツ橋地区となる場所に現在の一橋大学の前身である東京商科大学があった。その場所は現在、一橋大学の同窓会館である如水会館がある。
命名者は2024年度より一万円札の顔になる渋沢栄一。
如水会館から白山通りを挟んだ反対側には東京大学発祥のちであり、旧帝大(現,東京大学)の同窓会館である学士会館がある。

関東大震災で残ったいちょうの木
大正十二年、九月一日、関東地方をマグニチュード7,8の地震が襲った。
地震後の火災では如水会館やフランス大使館、文部省も焼失した。
当時の文部省は現在の毎日新聞社の場所にあった。
文部省の敷地内にあったいちょうが樹齢180年で今も残っている。
内堀沿いの通りの一角、和気清麻呂像と並び「震災のいちょう」の異名を持つ。
大震災後の焼け野原となった都心で奇跡的に生き残ったこのいちょうは、
復興のシンボルとされている。



千代田区 一ツ橋 の昭和時代から現在

一ツ橋グループと小学館ビル
日本の大手出版社である小学館と集英社を中核とする企業グループ。
設立は大正11年(1922年)ではあるが、本社が現在の一ツ橋に置かれたのが昭和8年(1933年)になる。
3代目本社屋の「小学館ビル」は『オバケのQ太郎』の大ヒットにより「オバQビル」とも呼ばれた。
現在は、東日本大震災を機に耐震強度の見直しで建て替えがされ4代目となっている。
3代目が取り壊される際、取り壊しを惜しんで漫画家の落書きがされ、
それが一般公開もされた。




毎日新聞社とマイナビ
内堀通り沿い、大きな煙突のような形が一緒になっているビルがある。
そこが毎日新聞社の本社ビル。
一ツ橋地区にある企業として毎日新聞社について調べた後に気付いたが、
アルバイト情報や、転職情報等人材広告の企業であるマイナビは
元々毎日新聞社の関連会社「株式会社毎日コミュニケーションズ」として設立されていた。
現在は資本的なつながりも薄く、友好会社という関係性。
この地はかつて、竹橋御門と平川御門の間を取った竹平町という地名だった。



現在も残る文教地区の面影
かつて東京商科大学(現,一橋大学)や旧帝大(現,東京大学)、隣接する神田錦町には学習院の前身校など文教の地区としての雰囲気を持っていた。
現在もその面影が残っており、共立女子大のキャンパスや一橋大学の一部施設(一橋講堂・如水会館など)が残されている。



千代田区 一ツ橋 のちょっとした情報

今も残る江戸時代の石垣
一橋御門が撤去されたあとも石垣は残され、それは現在も一部姿を見せている。


一橋徳川家屋敷跡
一橋徳川家屋敷跡である現在の丸紅本社(改修中)そばには一橋徳川家屋敷跡の碑が残っている。
江戸時代

(画像引用元)


以上、『千代田区 一ツ橋』でした。



《参考にしたサイト》

一ツ橋ほか各Wikipediaも参考にしています。


《参考にした本》


出版社ホームページなし
江戸いまむかし謎解き散歩(廣済堂出版)
江戸城と大名屋敷を歩く(大月書店)
江戸東京物語 都心篇(新潮社)
江戸東京地名辞典

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