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タクシー小話 12 「看護婦との関係」

 世田谷の東急田園都市線沿線の飲み屋街から外れた大通りで、一人の女性が手を挙げた。
 深夜1時を回っている。この時間帯にしては想定外の場所に立っていたその女性は、数台走っている車のヘッドライトとその他の街灯の薄明りの中、上品な出で立ちで佇んでいた。

 5キロ先の目的地までは盛り上がりのかけらもない、静かで落ち着いた言葉を交わした。
 小さな病院で看護婦をしているという。
 その看護婦がくたびれた様子で発する言葉の端々からは吐息が洩れ、そこからは生気が混じり出ているような気がした。

 到着して降りる頃、その女性からまた運転手さんのタクシーに乗りたいからと、連絡先を交換した。

 そしてある日、
「今日って勤務してますか?」
 その看護婦から連絡があった。

――

「売上ないと生活出来ないんでしょ?横浜までドライブしよう」
 前回お乗せした時から2週間。その頃よりほんの少し顔色が良い気がした。とはいえ前回は顔を俯かせていたためほとんど見えていなかったが、この時初めてみた彼女は30代中盤のように思えた。それでありながら、若さと年相応の高雅な雰囲気を併せ持つ。
 看護婦は僕を気遣ってか、横浜を回って帰るルートを提案してきた。
 確かに前回、長距離のお客様を乗せたら嬉しいという話をした。だが、距離に関係なく利用するお客様を気持ちよくお送りすることが仕事であり、呼び出されたのに2千円程度の料金であろうと、別に看護婦の距離にとやかく思うことは無かった。

 高速を使って横浜へ行き、ドライブっぽいルートを回ったが、その間女性は一言も喋らず、窓の外を見ているだけだった。
 その時の、バックミラーに写った彼女の表情は美しかった。
 彼女の白い肌に、横浜の街中の光が吸い込まれるように照らされ、彼女自身のきらめきを取り戻していくような瞬間にも思えた。

 約一時間かけて世田谷へ戻り、迂回した分の料金を払い降りて行った。

 そしてまたある日、
「病院に来れない?」
 連絡があった。

――

 病院へ向かうと、そこは個人で経営している、入院患者もいない小さな病院だった。
「いま誰もいないんだよね」
 足音と、話声の響く深夜の病院を歩きながら心臓の鼓動が微かに音を立てる。深夜の病院の恐怖と、彼女への慕情。その区別がつかなかったが、彼女が腕を絡め、身体を寄せて歩き出してからは片方が大きくなっていった。
 躊躇したが、抑えることは出来なかった。

 その後も、
「会いたい」
「ドライブ行きたい」
 彼女の仕事終わりに時間を合わせては関係を持つ日々が続いた。

 そしてある日、いつものように連絡があり向かうと少々厚い封筒を渡された。中には40万。
「お仕事大変でしょ?」
 その他に何も言われなかった。ただ本当にお礼がしたいから、と渡された。

 夫に相手にされない、もう夫婦関係は終わってる、と言っていた彼女との関係はその後もしばらく続いたが、突然連絡が来なくなった。
 それから一か月ほどたち、たまたま近くにお客様をお送りしたことから病院の前を通ってみると、空き地になっていた。

 未だに彼女のその後は分かっていない。

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