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集団自決の場から男女の密会の場所、デートスポットへ「千代田区皇居外苑」~東京グラフティレコード~

こんにちは、タクシーをエンタメにしています。
ヨナシロです。

前回、皇居の記事でスタートしたこのシリーズ。
区ではなくその下の町で括り(例,港区六本木)、町の名前の由来や歴史などを勉強していきます。

気になるところだけでも読んで行ってください。
タイトルにある出来事はほぼ昭和期のころの話です。

『東京グラフティレコード』とは、、、
東京でタクシー運転手をしているヨナシロが、改めて地理を勉強するためにアウトプットの場として設けた地理、歴史の勉強シリーズ。
 地理だけでなく、その場所の歴史や由来まで全てを修めることを目指す。 
江戸時代、明治、昭和、現代と、各時代ごとの地理を知り、地図を時代ごとの階層で見るができると面白そうだと思って始めました。
通と言われるほどの知識はまだ持ち合わせていませんので、歴史好きな方はご容赦下さい。 
ご教示いただけますと幸いです。
名前は『東京地理記録』だと味気ないのでカッコよくした。


第二回目の今回は、皇居の前の大きな敷地、皇居前広場を含む『皇居外苑』についての勉強まとめです。


『千代田区 皇居外苑』の由来と場所

由来
由来があるというよりかは、江戸時代は西の丸下と呼ばれ、馬場や厩舎、
武家屋敷等が並んでいた。
明治に入る屋敷が撤去され官庁の庁舎や兵舎、軍馬練兵場へと変わり、
元老院、家族会館、東京衛戍主衛、内務省図書館が並ぶ。
その後、維新の十傑の1人“岩倉具視”が亡くなり、次第にそれらの施設も撤去されるようになった。
そのまま、広場へと遷り変わっていく。
明治の宮城(皇居)が完成すると「宮城前広場」、太平洋戦争後の昭和24年に「皇居前広場」を含む「皇居外苑」となり、国民公園として一般に公開された。

場所
国民公園としては、北の丸公園(日本武道館)や内堀に沿った緑地も含まれる。郵便番号を含む住居表示としては皇居前広場を指す。
皇居の前に広がる砂利の広場、芝生、黒松の生えた庭園。
和田倉噴水公園がある。
旧町名は1番街区が祝田町、2番街区が宝田町、3番街区が元千代田町。
郵便番号は100-0002


千代田区皇居外苑の江戸以前

江戸時代に埋め立てられるまで、このあたりまでは砂浜で、日比谷入り江と呼ばれる海が入り込んでいた。

千代田区 皇居外苑の江戸時代

日比谷濠や馬場先濠は入り江の名残
徳川家康の関東入国後、江戸時代初頭は軍港として利用され
天下普請で改築が行われるなかで入り江を埋め立て、大名屋敷へと変わっていった。
現在の日比谷濠や馬場先濠は、埋め立て、改修によって残った日比谷入り江の名残でもある。
現在の丸の内一丁目から皇居外苑に入る辺りに和田倉門があったが、
「和田」は「ワダ(海)」を意味し、海に面した倉庫があったことに由来して名付けられた。

武家屋敷

皇居前広場は、江戸初期に日比谷入江の浅瀬を埋め立て、老中や若年寄など幕府重臣となった譜代大名の上屋敷が立ち並び「西丸下の大名小路」と呼ばれていた。もとより町人の出入りは禁じられ、特定の鑑札を持つ御用商人のみが出入りしていた。(引用記事より)

(引用元)

現在で言えばこんな感じ。

現在の皇居前の殆どが、大名屋敷の跡地ということになります。

馬場先門(マップ下)から皇居方面

引用元  



千代田区 皇居外苑の明治から大正

明治初期には、旧西丸下は官有地となり、これらの屋敷が撤去される代わりに、近衛騎兵営や元老院、家族会館、岩倉具視邸、東京衛戍主衛、内務省図書館など、公家関係と軍・警察関係の施設に使われた。

維新の十傑 岩倉具視の死後、次第に撤去され、なし崩してきに広場へと遷り変わる。
明治の皇居である「宮殿」が完成すると、1888年、呼び名が「宮城」となり、それに伴って「宮城前広場」と呼ばれるようになった。

1892年(明治25年)には広場内の建物がほぼ完全になくなった。

天皇制の意味をもたらす都市空間
江戸時代の大名屋敷から、広場へと変わりこの場所は時代を映すものに変わっていく。
明治維新国家体制が新たに構築され、都を東京に移し、天皇もお引越しする。江戸城の場所をそのまま利用するようになったが
大日本帝国憲法の中にある第1章「天皇」ではこう定められ

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
神聖である天皇にふさわしい場所となるように整えられていく。

1923年(大正12年)の関東大震災では罹災市民の避難場所として
最大30万人が避難する場所となった。

千代田区 皇居外苑の昭和時代(戦前)

明治期の大日本帝国憲法による天皇を神聖とした名残は昭和のはじめにも流れてくる。

昭和15年(1940)11月10日皇居前広場において、神武天皇の即位から2600年目にあたり、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。この式典で整備された皇居前広場が公園化され現在の姿になる。

幻の計画 内堀通り地下化
この頃に計画された「宮城外苑整備事業概要」のなかには、幻の計画とされる「内堀通りの地下化」がある。
「自動車交通が外苑の尊厳と風致を害(そこな)ふのみならず宮城参拝者に脅威を与へる」
として計画されたが、戦況悪化や資金不足で中止となった。

死のう団事件 1937年(昭和12年)
法華教系統の新宗教「日蓮会」の青年部「日蓮会殉教衆青年党」
通称『死のう団』の団員の一人が「死のう」と書いたビラを撒いて割腹自殺。
現状への不満を募らせ結成した死のう団は、
「不惜身命(ふしゃくしんみょう。理想実現のために身命を惜しまず。本来は仏教から)」
という理念が、次第に死ぬことが目的に変わっていったとか。

宣言
我が祖国の為めに、死なう!!!
我が主義の為めに、死なう!!!
我が宗教の為めに、死なう!!!
我が盟主の為めに、死なう!!!
我が同志の為めに、死なう!!! 日蓮会青年部 (原文ママ)


戦時中~戦後戦時中は皇居防衛の陣地となっていた。
NHKの特集記事のなかではその遷り変わりが記されている

戦争中は、戦勝記念に天皇が白馬に乗って二重橋正門鉄橋に現れ、国民が万歳を叫ぶなど、きわめて「神聖な空間」であった皇居前広場。
しかし、広場に面した第一生命ビルに連合国軍総司令部(GHQ)が置かれると、その位置づけは大きく様変わりした。
米軍兵士が日本人女性とデートを楽しんだり、進駐軍のパレードに日本人が喝采を送ったり、またある時は、庶民が野球を楽しんだりする「開かれた空間」になった。
さらに、終戦の翌年にメーデーが開催されると、民衆運動の最大の舞台となっていった。


千代田区 皇居外苑の昭和時代(戦後)

戦後は「宮城前広場」「人民広場」「皇居前広場」という、憲法や革命路線によって呼び方を変えていった。
それが、さまざまな事件を象徴するが、風俗史的な意味でも変化を見せる。

皇居前での集団自決 1945年(昭和20年)
第二次世界大戦の敗戦を機に、明朗会の12人など皇居前広場で多くの自決者が出た。 
明朗会・・・日本郵船の関係者が組織した親睦団体、思想団体のひとつ

血のメーデー事件 1952年(昭和27年)
警官隊とデモ隊の衝突で、死者2名、逮捕者1200人超となった事件。
終戦の翌年(昭和21年)から昭和25年まで続いたメーデーでは「人民広場」という呼び方もされるほど盛り上がった。
米占領軍の要求により、警視庁が「当分の間」東京都内の一切の集会・デモを禁止。皇居前広場も使えなくなった。
その後、皇居前ではなく日比谷公園で行われた27年のメーデーからこの事件に繋がった。
《掲載サイトによって変わる》
❝皇居前広場を取り戻そうと結集した❞という表記や
❝デモ参加者が自発的にすぐ隣にある「人民広場」に平穏に集まったところ、治安立法の口実に「騒擾(そうじょう)事件」を企図していた警視庁警官隊が一斉に警棒で殴りかかり❞
等がある。

二重橋事件 1954年(昭和29年)
宮中一般参賀による警備の不手際により発生した群集事故。死者16名、負傷者65名。

男女の密会の場所
かつては「宮城前広場」とよんでいた人も「人民広場」とよんで革命を求めた人も、私的の享楽より国家のあり方を模索する硬派の理想主義だった。
でも「日の丸」を振った人も「赤旗」を振った人もお互いに硬派の理想主義という共通項で繋がっていった。
そこで密会をした男女は戦前のエログロナンセンスの延長線上に私的欲望を享受する同行を象徴し
それが後の、近代化の途上で性を基盤とするサブカルチャー形成へと繋がる。(江戸東京学事典)

デートスポット
戦後の大きな特色のひとつで、男女交際が自由になったことがある。
この写真が撮影されたのが昭和39年(1964)ということに、いまとなっては意味がある。
昭和30年代の高度成長の総仕上げとして東京オリンピックが開かれた年なのだから。
新幹線が開通したのも、高速道路が出来たのも、ビートルズが日本で人気が出るようになったのもこの年。
橋の上で抱き合う恋人たちは新しく登場した若い世代である。
前の世代以上に恋愛を楽しみ、そのことに悪びれない。
場所は皇居の和田倉門。
皇居周辺は恋人たちの夜のデートの場所として有名になっていた。
(本誌より)



皇居外苑のちょっとした情報

桜田門
歴史の授業で聞いたことがあるかもしれない「桜田門外の変」
大老・井伊直弼が水戸藩士に殺害された場所として有名です。
江戸城には内桜田門と外桜田門のふたつあり、よく言われるのは外桜田門の方で内桜田門は、桔梗門(きっこうもん)と呼ばれる。
桜田の由来は、その周辺が江戸以前に荏原郡桜田郷に属し、昭和初期までは桜田本郷町(今の内幸町)と言われた地域に近いからという説もある。
でも、定かではない。


馬場先門
不明門(あかずのもん)と呼ばれたが、寛文時代の江戸の大火でこの門を開き、和田倉門にかけて馬場が設けられていたことから名づけられたとか。

二重橋
皇居前広場から正門を経て宮殿へ至る濠に二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」、奥の橋が「正門鉄橋」です。「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋を指します。 奥の橋はかつて、「下乗橋」と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造となっていたことからこの名がつきました。
手前の二つのアーチ構造は二重の意味とは関係ありません。
通常は利用できず、一般参賀や外国賓客の訪問の際に利用します。


楠木正成像
日本を代表する住友財閥の礎となった愛媛県新居浜市の別子銅山を開いて、二百年の祝賀記念事業として楠公銅像は建てられた。
戦時中は金属回収、戦後は軍国主義排除のあおりで多くの軍人銅像が撤去されたが、楠公像と和気清麻呂像、皇族の銅像はともに残った。
楠公像は日本を代表する銅像の一つであり、東京の名物でもある、古来、皇室に忠誠を尽くした第一の人。

楠木正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。
1294年に河内国(現在の大阪)に生まれ、裕福な地方豪族の武士の家に誕生します。
後醍醐天皇に最期まで仕えた「正義の武将」とも呼ばれ、個性的な戦法も用いて「赤坂城の戦い」では鎌倉幕府に果敢に挑み、幕府滅亡に貢献しました。


広場の玉砂利
皇居前広場の玉砂利は直径12ミリ以下、国府玉砂利(大磯砂利)
「国府の浦」「小淘綾ノ浦(こゆるぎのうら)」等、相模灘の名所の産品


クロマツ
皇居前の大芝生広場に点在しているクロマツは約2000本。江戸城築城前から、入り江だったこの辺には自生していた。
御三卿・田安徳川家第十一代当主徳川宗英さんが東京の街を歩いて書いた本「徳川家の江戸東京歴史散歩」ではこう推測されている。
“ほかの樹木だと、成長するにつれて根がもちあがり、せっかくの美しい芝生がダメになってしまう。
しかし黒松は地中深くに真っ直ぐ根を伸ばすので芝生が持ち上がらない。
それを考えて黒松だけを植えたのだろう。”


和田倉噴水公園
和田倉地区にある噴水公園は継続性と新たな発展をテーマとしており、民間協力も得て、今上天皇陛下のご成婚を機に平成7年に完成した。
上皇陛下(現天皇)のご成婚を記念して昭和36年に完成した高さ6mに吹き上げる大噴水を再整備し、新しく造られた。
高ささ5.5m、長さ30mの落水施設やモ二ュメン卜とを流水施設で結んでいます。


その他、富士見櫓、伏見櫓、桔梗門、坂下門等多くの建造物が残っています。お話はこのページが面白いです。


以上、『千代田区 皇居外苑』でした。



《参考にしたサイト》

Wikipedia「皇居外苑」ページとその他のWikipediaページも参考にしています。



《参考にした本》


出版社ホームページなし
皇居外苑(東京公園文庫)
江戸東京物語 都心篇(新潮社)
江戸いまむかし謎解き散歩(廣済堂出版)
江戸城と大名屋敷を歩く(大月書店)
江戸東京早まわり史散歩 (学生社)
時代を旅する江戸城(メイツ出版)


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