絶対音感のある人に聞きたい3つのこと

無印良品のBGMが辛い、という話を書いたとき、同じ悩みに苦しむ人はいないのかと思って、絶対音感タグを見てみた。

そうしたら、絶対音感を自ら名乗る人はそもそも音楽関係の人で、音感をいい方向に活用できている人が多いようだった。

しかし、わたしは、音楽をやる人にとって、絶対音感というのはそんなに受け入れやすいものなのかどうか、不思議に思っている。
ちょっと自分のことを振り返りながら、その疑問を述べてみる。
最初2つは特に音楽関係の人に聞きたいことだが、基本的に絶対音感のある人の誰もに聞いてみたいことだ。
もし、あてはまる方がいたらコメントいただけるとうれしいです……(とつぜんのよわき)

なお、わたしの絶対音感というのは、楽器の音や機械音が階名でいうとどの音かわかる、という程度のものである。
何ヘルツとかはよくわからないし、自分が一番ど真ん中のドだと思っているのが何ヘルツのドなのかも把握していない。
歌を含む人の声は階名では聞こえず、言語として認識する(ハミング以外)。

弦楽器は苦手、♭♯のつく音も苦手。子どもの頃は苦手と言っても聞こえていたが、今では間違いやすくなっている。
ガラスの割れた音とかはパリーンとしか聞こえない。
この程度の、精度の低いものであることを、最初にお断りしておく。

疑問①心と耳の折り合いをどうつけるか

わたしは物心ついたときには、すでにだいたいの音が階名で聞こえていたと思う。
わたしの絶対音感には、母がまず気づいた。二歳下の妹が幼稚園に通い出し、ピアノを習い始めたとき、妹が弾いている練習曲をわたしがドレミで歌ったので気づいたのだという。
その頃わたしは一切お習い事をしていなかったので、その曲は初めて聞くはずの曲であり、もちろん楽譜も読めなかった。

音色の美しさとか、メロディの美しさとか、そういうものを感じる心が育つ前に、全部階名で音を聞きなすようになってしまっていた。誰に強いられたことでもなく自然にそうなったから、抵抗はしようがなかった。

その後わたしは吹奏楽部に入る。小学校が、高学年になると絶対バスケ部か吹奏楽部のどちらかに入らねばならない軍隊のようなところだったためで、ただの消去法である。

高校まで吹奏楽は続けたが、それも人間関係や自分の能力との兼ね合いをみて選んでいたことだ。
強制されて始めたものだから、音楽に対して全然思い入れがない。
むしろ、絶対音感を内心コンプレックスに思いつつ、絶対音感が欲しい人の気持ちを思うとコンプレックスだと口に出せない、という状態が続いた。

吹奏楽部時代、絶対音感が役に立ったことは否定しない。特に意識しなくても暗譜できたし、譜面が大して読めなくても音源を聞けばすぐ吹けるようになった。フルートだったので移調しなくてすんで助かった。
インプットとアウトプットは別の能力だけど、インプットを楽にこなせればアウトプットに必要な努力も少なくなる。

大して練習しなくてもパートリーダーやソリストにはずっとなれたし、でもそれ以上上に行くほど頑張って練習もしない。要するに、無理なく中の上を維持できた。一番楽なポジションである。

でもそれは、全然「音楽」ではない。ただの猿真似であり、曲芸である。その自覚が強くあった。なにかを表現したいという気持ちなどどこにもなかった。
そして、その心の貧しさが、そのまま絶対音感に現れているようにしか、自分には思えなかった。

だってわたしは、その音がどんな響きを持っていようもいまいと、機械音も楽器の音も全部階名で聞き取って、ひとしなみに「ド」と、記号のように、文字のようにみなしてしまう。
ドの音である、という以外の全てのディティールを、意識するよりも早く耳が切り捨ててしまうのだ。

また表現としてあえて「正しい」音程から外してある場合だとか、あるいは古典的な西洋音楽以外の音の捉え方に基づいている音楽なんかも、全部「低いド」「音程の外れたド」などと否定的に聴きなしてしまう。それは本当に反射的で、聞こえると同時にそう捉えてしまうのだから、抗いようがない。

そんな感じ方は芸術に全く不向きで、貧しいとしか思えなくて、長年恥ずかしく、悲しかった。 ピカソを下手だという類だと思った。

意識的に絶対音感を身につけた人なら、方法的にその音の捉え方を利用できたのかもしれない。でもわたしはそうではなかったから、自分は生まれついて心が冷えている、と思った。

音楽に造詣の深い人ほど、音を聞いて正確な音程に照らし合わす能力と、音楽を聴き、鑑賞したり分析する能力が全く無関係であることを我が身をもって知っているのではないかと想像する。
さらに演奏となるとまた別の話だということも。

今ならわたしも、絶対音感の有無は芸術のために本質的なことではなく、表現のための技術の習得を少し助けてくれるくらいのものだ、と割り切っている。

しかし子どもの頃は、本当に悩んでいた。音楽をやっている人の中には、子どもの頃から始める人が少なくないだろう。そういう人は、幼いとき、わたしと同じような悩みを抱えたことはないのだろうか。抱えたとして、どう乗り越えたのだろう。耳と心の折り合いをどうつけたのだろう。
まずこのことを聞いてみたい。これが1つ目。

②耳からどう自由になるか

今はもう子どもの頃のナイーブさがなくなり、かつ楽器からすっかり離れた。
かなり耳が悪くなった。

おかげで数年前、ギターの音が階名ではなく「かっこいい音」として聞こえて、いたく感動した。昔なら「レ、レ♭、ド」としか聞こえなかったものが、「ギュイーン」的に聞こえたのである。
これが音楽であり、心ある人のきいていた世界だったんだと思った。すごく嬉しかった。
音楽っていいものだったな、またやりたいなと思えるようになった。
階名で聞こえてしまっても、それでも音色、音触、響き方が全く聞こえなくなってしまうわけではないとようやくわかった。

しかしそれは、耳が悪くなり、音楽から離れて初めて可能になったことだった。むかしの耳を維持し続けていたら、どうしても階名にばかりとらわれる感じ方と、それを恥じる思いから自由になれなかったのではないかと思う。

絶対音感は非常に低いレベルでは音楽の役にたつが、音楽を大切に続けていくにはむしろ足枷になる。絶対音感と音楽は相容れない、これがわたしの実感である。
絶対音感を維持し続けつつも、音楽を楽しみ、階名から自由になれている人は、どうやってその境地に至ったのだろう。これが2つ目。

③実生活上の不便

耳が悪くなってきて、意識しないとギターの音は聞きにくくなった。逆に、人の声も意識すれば、階名で聞くことができることにも気づいた。
それはつまり、絶対音感を今は多少意識的な行為として行えるようになってきているということである。音を階名で捉えてしまうことは、以前は完全に自動的で無意識的なことだった。でも意識下のことなら、多少コントロールできる。

ただ、そんな今でも、やっぱり実生活上不便だと思うときはある。

絶対音感とは、少なくともわたしの場合は、音を言語として捉えてしまうことであり、音を聞くと同時に階名(ドレミ)という特定の言語、文字を想起してしまうことだった。メロディをカタカナ化して受け取ってしまう。

それは、無印の話でも書いたのだけど、
頭の中で考えている言語と、カタカナ化され文字になった音楽が衝突し混乱する事態を招く。
それはとても不快なことであり、往々にして、音楽をノイズとしか捉えられなくした。

本を読んでいるときなんかが特に最悪で、
自分の頭の中の自分の言葉と、本の言葉と、カタカナ化されたメロディが激突するのはもうわけがわからなくなる。

わたしは、人の声で歌われた歌は、言語として受け取れる。知らない言葉でもドレミで聞き取ってしまうことはない。
だから、何かよくあった歌を聞きながら本を読むときは、詩に詩がオーバーラップする感じで楽しい(かなり聞き慣れた曲じゃないとできないけど)。
狭義本歌取りの和歌が、ほかの和歌を響かせながら新しい作品世界を提示するような、そういう言葉の重層性を楽しめる。

でも楽器の音はそうはいかなくて、ドレミ化してしまうから、喫茶店での文字の読み書きがしにくい。

完全に覚えている曲ならもうその文字列にも慣れていて、特に差し障りないのだけども、お店の曲は慣れるほどききこめないから困る。
そういう不便さは、ほかの絶対音感の人はどうしているのだろうか。
これは音楽をやっている絶対音感の人に限らないことだけれども、なにかうまい対策があるなら聞いてみたい。これが3つ目だ。

以上、聞いてみることができたらうれしいな、と思う。

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