あいつの日本語をぶっつぶしてやるんだわたしは

日本語一般にもいろいろいろいろいろいろ思うところがあるが、中でもいけすかない文章を書く人がいる。

学校の先生にいかにもチヤホヤされそうな、読書感想文みたいな文体である。なんでもないことにむやみな起伏をつけて、劇的な体をよそおう。
とはいえ実際のところ、そこではどんな美徳も醜悪もよろめいていないので、全く劇的ではない。
その人は自分では芸術が好きなつもりでいるようだけど、劇的なるものというのを理解する日は、あの人にはこないのではないだろうか。
価値観が揺らぐことを嫌がり、本人の思う、既成の「美しさ」の枠からけして出ようとしない人だ。その陳腐な枠を少しでも揺るがすものを攻撃してやまない人だ。

そんな人の文章だから、きっちり起承転結つけて、何か告白してみせて、でも前向き。お涙も誘って、清廉潔白、健気健気、お上手お上手。

でもその上っ面がいかにおぞましく、その人の本性からかけ離れているか、わたしは知っている。
昔からその人には、わたしの大事なものを貶され、盗まれてきたから。またわたし自身もその人にさんざんネタにされてきて、何度も勝手に画像をあげられた。
言った覚えのないことをわたしの発言ということにされてきた。

それは、ちょっと記憶違いなどというレベルではなく、「●●で困ってるの?◯◯が言ってたんだけど、こうするといいって」「じゃあ◇◇でも効果あるの?」「◯◯に聞いてみたら、それでもいいよって」みたいに、会話自体を捏造される。この場合でいえばようするに、自分がおせっかいをして善人ごっこをしたいがために、わたし(◯◯)を勝手に利用しただけである。このやり取りを見てしまったときは、寒気がした。

結局、他人を全く道具扱いしてでも、どんな嘘をついてでも、イイコイイコしてもらいたいというのが、その文章の本質だろう。

その人が、自分が他人に言われた批判や何やを、全部わたしにふり向けることで、自分の何かを癒してきたことも、わたしは知っている。幼稚にもほどがある。

その人の自分への甘さと他人への厳しさは、常軌を逸している。きっとその人は、無知の知というものに、生涯いたりえないだろう。勝手に思っているだけだが、そう思う。

自己陶酔と自己顕示欲を無防備にたれ流すさまは、知性の対極にある猥褻さで、とうてい正視できない。
それでいて本人はポルノを毛嫌いし、セックスワーカーを差別するお綺麗さなのだから、実に滑稽だ。
不思議なことに、自分がどんなセックスをしているか、それをどんな風に人に喋り散らかしているかは全部棚に上げることができるらしい。

こんなのが万事にわたるのだから、とうてい付き合いきれない。
「これは差別じゃないんだけど、」と頭につけて、人種差別、女性差別、男性差別、年齢差別、やりたい放題である。
それでいて本人は、そんな自分を、とても正しい人間だと思っているらしい。心優しくて、清廉潔白な人間のつもりらしい。自分は世の中に貢献できる人間で、自分を認めない人間が間違っていると思っているようだ。真剣にそう思っているらしいから怖い。

その人はわたしのことが好きだそうだが、わたしはいつも、近寄られるだけで鳥肌がたっている。 なるべく距離を置いて、なるべく心や頭を用いる会話をしないように気をつけている。
もしその人が、わたしにしてきた数々のこととを真正面から謝るならば、もしかしたら、一応多少許す日はくるかもしれないけれど、好きになれる日は来なさそうだ。

少なくともわたしの場合、寛容は、不寛容に対して寛容でいられない。
未来の寛容に、不寛容に対しても寛容でいられるだけの環境を手渡すには、現代の寛容は、不寛容に対して一生懸命抗わなくてはならないと思っているから。
個人的な怨恨も無論おおいにあるけれど、それをおいてもなお、あれは許せない。

わたしはいつか、堂々とその人から離れられるときを待っている。一緒にほかの人とも離れざるを得なくなるかもしれないけれど、きっとどんな孤独よりも幸せだ。

しかしその前に、わたしのやり方で、あいつの日本語だけはぶっ潰さねば気が済まない。
あんなものを「美しい」「誠実な」日本語だということにされてたまるか。

たぶんわたしの文章の中にも、あの卑劣な文章に通じるところはきっとある。無意味な文飾や強すぎる表現、むだなリズムの浮き沈みは、書いていて我ながらつくづく嫌になるところだ。形から入りすぎている。

そういうところを潰したい。
もっと充実して、凪いだ文体になりたい。
草野心平の土のにおいや、会津八一の一歩一歩の足取りがほしい。石原吉郎の重さ、内田百閒(の小説)のつたなさがほしい。飯島耕一の訥々、須賀敦子の平明、黒田三郎の諦観がほしい。この人たちの文体に感染したい。もっとの温度のない、象のように孤独な文章になりたい。

本を読みたいはずなのに、どうしてこんなに読めないでいるのか不思議だけれども、おそらくわたしがまた本を開く日は、そう遠くない。
言語一般に抗いたいならば、結局どこかで言語芸術に向き合わなくてはならないと思っているけれども、中でも特に、決まった抵抗したい文体がある場合は、とることのできる道はただ一つ。読むことだ。

わたしは悪くすると数十年、その憎い人と関わらなくてはならない。我慢するだけではいつかわたしが限界を迎える。抗っていなければ、この先すこやかに生きていかれないはずだ。
だからおそらく、いずれ生きるために読み、書くようになるだろう。もう何度目になるかわからないが、きっとまた、本に生かされてしまうのだろう。

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