ゑりこむこころみ

眠りがおかしいので、病院に泊まり込んで検査を受けている。

22時消灯。スマホは電源を落とす。
普段は文章を書いていると寝られるので、何か書きながら寝ているけれど、今日は頼るものがない。

眠れない。腰が痛み出す。
心の底が暗い。

この寝付けない情けなさ、つらさを久しく忘れていた。高校生のころ、眠れなくて、眠れなくて、起き上がって布団を殴ったり泣いたりして疲れ果てたころ、ようやく眠れた。
横になると眠れないから、座ったままの姿勢で。

今はさすがにもう怒ったり泣いたりしないで、意識してこの暗さを見つめてみる。

眠りたいけれども文章を書けない。紙には書けないので、空でものを考えた。
そうだ、和歌のあいうえお作文をしよう。
明日よりは志賀の花園まれにだに誰かはとはん春のふるさと。
い、い……すでに詰まる。
じゃあ新古今。何首覚えてるか数えてみよう。あすよりは、あけばまた、あれ、あの、朝日の、にほふ、有家が思い出せない。あれ。
じゃあ古今集。年の内に。袖ひちて。春霞。雪のうちに………第二句が出てこない。と思ったらいつの間に、あいうえお作文に思考は戻っている。

紙がないと、持続的な思考ができない。時間が流れない。
細切れの、浮かんでは消える想念に振り回されて、焦点が定まらない考え事がずっと続く。
新古今もう少しわかるでしょう。我が恋は。心こそ。鵜飼舟。思ふこと。我が心まだ極楽にゆきつかず。憂き身には。

憂き身には。眺むる甲斐もなかりけり。
心に曇る秋の夜の月。

心に曇る秋の夜の月……

10年以上前に覚えたであろう歌が、不意に響いた。
わたしの心も今真っ暗だ。本も紙もなしに、本当の一人で考えようとすると、集中することさえまずできない。
わたしは真っ暗な空。

「空」というのは、古典ではふつうポジティブなニュアンスではない。むなしく、茫漠としてさびしいところだ。
散る花も世をうき雲となしはててむなしき空をうつす池水。
わたしは真っ暗なむなしい空。

和歌をいくつ思い浮かべても、みんなわたしの中で死んでいる。
日本語の文学史に残る綺羅星たちが、みな死んでいる。

無明の空は、わたしの心の中にあった。
(憂き身には眺むる甲斐もなかりけり
心に曇る秋の夜の月)
わたしは空だったのだと、はじめて知った。「心の空」「心の月」は新古今時代以降の和歌では鉄板の比喩なのだが、自分の体ではじめて知った。
(「心の空」「心の月」は仏教思想を踏まえていて、わたしはそこまでの深みには触れえないが)。

空に、言葉を、彫りこむこころみ。

持続できないくらやみの思考は、たった一語の共通から何でも運んでくる。

この飯島耕一の美しいことばを、わたしが断章取義的にもらっていたことを、否定できない。
飯島耕一の空といったらまず、「他人の空」の空であろうに。

今、わたしがしているのはまた別の曲解だが、それでもただ魅力的だ、と思ってもらってくるのよりはましだろう。

わたしの中に無明の空がある。そこには思考がなく、持続することもなく、宇宙ごみがえんえん引き回されている。
宇宙ごみは、持続しているように見えるかもしれないが、それは違う。むしろ重力の円環にとらわれて、二度と変わることができなくなっているという点で、完全な停滞である。停止しているものは動き続ける。

飯島耕一の空は焼け跡の平和の空だった。わたしはその空を見たことがない。しかし飯島耕一の読者であり、その詩を大切に思っている。わたしにはわたしの空がある。
この無明の空に、わたしはどうやって言葉を彫りこむか。

以前、活版印刷の体験をした。一筆箋に数文字印刷できるプログラムで、係の人は署名を印刷するよう勧めた。
なにかを作るやり方をレクチャーしてもらうのはわかるが、なにを作るかまでレクチャーしてもらわないといけないだなんて奇妙なことだ。
わたしは「ゑりこむこころみ」という八文字を入れて刷った。
しっかり力を入れたので、紙にはよくゑりこめた。
今度はこの空にゑりこまなくてはいけない。

不思議なことに、高校生の時覚えた新古今のうたたちは、染み付いてもう離れない。
あのくらいの強度でことばをこの空にこめなくてはならないが、染み込むのではいけない。ゑりつけなくては、詩は息をしない。
慈円の心に曇る秋の夜の月は、鮮烈だった。もっと湿っぽい甘い歌だと思っていたのだが、くらやみの中でみた曇る明月は、恐ろしかった。あの鋭さをそのままに、空にゑりつける。

どうやったらいいだろう。読むしかないのだろうか。

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