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神田をめぐる冒険 (中村政人さんインタビュー前半)

ネット配信の動画番組は、帯に短し襷に長しの感がありますが、これは文句なしに面白いです。映像配信クリエイターの川井拓也さんが、ノウハウの限りを尽くして作り上げたスタジオから発信する神田に関わる人々へのインタビュー番組です。

今回の対談相手は、アーティストでありアーティストの活動する場を創るプロデューサーでもある中村政人さん。編集されていない緊張感の中、まるでそこにいるかのような臨場感が楽しめます。ジャンルを問わずものを創る人、広義のクリエイティブに関わる人は必見のコンテンツです。

川井:「今日はようこそおいでくださいました。」

中村:「こんにちは」

川井:「千代田区のまちサポというプロジェクトで、千代田区を面白くしている人をお呼びして、ざっくばらんにいろいろとお話をお伺いするというプロジェクトを始めまして、今回は僕の大家さんでもありますし、もう10年くらいお世話になっているコマンドNの代表、中村政人さんに来ていただきました。」

中村:「はい、よろしくお願いします。」

川井:「ありがとうございます。今回のプロジェクトはですね、僕にとってまだ神田ってのは1年ぐらいなんですけど、事務所を構えて、まあずっといる訳でもないので、例えば神田祭とかカレーグランプリの時にたまさか出張だったりとか、いろいろ街を知るきっかけのタイミングにずっといれてる訳ではないんですけれども、神田はすごい面白いいと思いまして、で今回、千代田区を面白くするキーパーソン8人をお呼びして、インタビューをするというプロジェクトを始めました。」

川井:「はい、今までにこんな形で、ちよだいちば、すぐそばにありますプラットフォームの横の大塚さんをお呼びしたりとか、地域と千代田区を結ぶ、ハブとしてやってらっしゃる、大塚さんのお話を聞いたり、あと神七という日本酒バーがあるんですけど、そこの個人飲食店のミューズという形で七恵ちゃんというおかみさんを読んでお話を聞いたり、割と僕と同じここ1年ぐらいの間に神田に入ってきた人が神田をどう捉えているか、聞いたりしました。」

川井:「で今回は中村さんということで、神田歴が非常に長い」

中村:「そうかなぁ」

川井:「神田歴、千代田区歴というか、ということで、ご紹介したいと思います。今はコマンドN代表というところが、肩書きとしては最初でよろしいですか?」

中村:「まあ何でもいいですよ。」

川井:「皆さんがよく知ってるのは3331を作った人ということですよね。そしてアーティストでもあるというわけです。」

中村:「はい」

川井:「プロフィールも用意しました。こういう感じですね。まあだから中村さんは90年代からアーティストとして活躍されて、僕自身が認識したのはワークショップか何かでお会いして、KANDADAは行ったことあるんですよ。KANDADAでマクドナルドのマークがあるみたいなのが最初の僕の、akihabaraTV以降の中村さんがちょっと印象にありまして、それから3331を立ち上げるという話を聞いて、ああ、中村さんがまた新しいことを始めたのかというのが認識だったんですけど。」

川井:「今回大規模な展覧会を3331でやられまして、その歴史がそこにも書いてあるので僕も見たんですけど、もともとは台東区から発祥というか台東区にコマンドNの事務所をつくって、その後に千代田区に移ってきたということですよね。このあたり、神田というか外神田、千代田区の中に入ってきた最初のきっかけみたいなものを教えていただきたいんです。」

中村:「ああ97年ごろ、その前は僕香港にいたんですよ。香港に1年ぐらいいて、香港の返還の時だったじゃないですか、イギリスから中国へ」

川井:「はい、ちょうど」

中村:「その時ポーラさんが助成金をはじめていて、その時僕が第1号だったんですけど、帰ってきてどう東京にアクセスするか、そういうことを悩んでる時期だったんですが。まあ、もうちょっと前にいくと、作家活動の始まりが韓国から帰ってきて、村上くんとか小沢とか会田とか同世代の作家とゲリラの活動をしていたんですね。ゲリラといっても別にテロではなくて、」

川井:「アートとしてのゲリラ活動ですね。」

中村:「銀座をターゲットにして、作家たちが自由な表現をするステージとして銀座でやったりとか、新宿の歌舞伎町でやったりとか、そういういわゆる美術館とかギャラリーとかではない場所で、いろんな活動をしてたんですね。まあ今でいうアートプロジェクトの始まりのような話ですよ。その後香港行って帰ってきた時に、さらにどう視点を持って既存のフレームをどういう風に僕らは考えるべきか、新しいフレームをどういう風に作るべきか、それを体感しながら作りたいタイプだよね。」

中村:「akihabaraTVという発想は、もうずいぶん前にあって90年代前半、韓国に留学している頃にもう、秋葉原にakihabaraTVを作りたいというイメージはあったんですね。」

川井:「その頃秋葉原というと電気街ですね、今でいうオタク文化が来る前」

中村:「いやまあ水面下ではもちろんありましたよ。水面下であって、オタクの人たちはお互いオタクでしか呼び名がないんで、名前を言わないでオタクって言ってるという、表に出ない立ち位置でいたんです。それはずーっといるわけです。なのでその流れの中で、秋葉原っていう文脈を僕らとしてはやはりテレビの映像文化そのものを発信していくという場所として、秋葉原を別の切り口で見てたわけですね。」

中村:「いずれにしても秋葉原でakihabaraTVやりたいっていうイメージはずーっとあって、いろんな経験しながら97年に、akihabaraTVを作るためにはどこで何をしたらいいのかを自分に問いかけをしたんですね。その際に東京に向かう時、この本にも書いているんですけど、コマンドNのアイデアがふっと出たんですよ。そうだ東京で拠点を作ればいいんだと。つまり自分の家は家であって、スタジオはスタジオであったとしても、もう少しみんなの集まる拠点を秋葉原のそばに作れば、その近い距離感の中で自然におのずと因果関係が始まり、akihabaraTVが求めるものの方向に向かいやすくなるはずだという風に想定したわけですよ。」

中村:「香港から帰ってきて、ある展覧会のあと、展覧会やりながらもう物件リサーチを始めました。まあ本にも書いたんですけど、不動産運が抜群にいいんで、見てるもに全、部視覚の中に物件のキラキラした感じが見えてくるんですね。あ、ここはいい、ここはどうだっていろんな条件が、そこでちょうど区界で上野1丁目なん何ですけど今の3331の真裏、歩いて秋葉原なんかすぐ近くですよ。そういうところに、地下に30坪なかったかな、だいたい25〜6坪ぐらいかな、教室1個分ぐらいの場所に、1階にちょうどこの司3331と同じぐらいの大きさの場所がついてきていて、それで家賃が17万円なんだ。それで高いのか安いのかですけど、僕ら的にはギリギリ払える金額で、改修していいと」

川井:「その時は個人のアーティストから、団体を立ち上げるという段階だったんですか?階段的には。仲間はいたんですか」

中村」「そうです、そうです。仲間はいるんだけど、akihabaraTVやりたいんだけど一緒にやれる?とか一緒にやろうよぐらいの言い方なんですよ。もし一緒にやれるんだったら、ここにこういうシェアオフィスを作るけれども、シェアオフィス一緒にやらないって。コマンドNという団体をはっきり押し出すんではなくて、akihabaraTVのことを僕は将来やりたいんだけども、興味あるかといいつつシェアオフィスを作ったんです。」

川井:「組織体が主の目的ではなくて、プロジェクトがその目的。そのために集まる場所を作る」

中村:「そうです。家賃をシェアするためにシェアオフィスを作って、当時多分まだあまりなかったと思う。」

川井:「シェアオフィスって今でこそあれですけど、90年代まだまだですよね。」

中村:「97年、まだまだ」

川井:「だってインターネットもまだやっとこさってとこで」

中村:「インターネットもまだダイアルアップでしたもん」

川井:「そうですよね。97年...」

中村:「ダイアルアップですよ」

川井:「マックとか何の頃でしたっけ?」

中村:「まだね、僕はQuadra700使ってから、そこからその次のPerformaとか何かありましたよね。」

川井:「ジョブズがいない時代のね」

中村:「そうそうそう、ジョブズがいない時代の乗っ取られているところで、いろんな他のメーカーもマック作り始めるあたりで」

川井:「互換機!パイオニアとかの。ごたごたしてた時期ですね。」

中村:「パイオニア作ってましたね。であの頃で、最初の始まりは、自分がこういうことやりたいからって話をかけたんだけど、それはどういうことかというと、結局ハードの問題ではなくて僕らアーティストはものを作っていくプロセスが共有できないと、なかなか意思疎通もそうだし、同じ場所は使えないでしょ。でもakihabaraTVというはっきりとしたビジョンを打ち出すことで、それだったら一緒にやれるとかそれはちょっと無理とか、はっきり答えが帰ってきたんですよ。いろんな人に声をかけてたんです。」

川井:「その時のakihabaraTVの構想っていうのは、毎年のようにやろうっていうものでしたか?」

中村:「毎年じゃないね」

川井:「一回やろうと、そういうのを」

中村:「まずやろうと、そこまで国際展にしようって言ってるビジョンは途中から見えてきたんで、まずテレビジャックしたいっていう話ですよ。そんなんで僕と一緒にやってるアーティストの面白い連中は、まあほぼ声かけないんです。何でかっていうとみんな知ってるし、一緒にやると喧嘩する可能性が高いし、まあわがままなわけですよ。だから僕よりも声が小さくて、一緒にやれる信用性の高い人と」

川井:「組織論的にね」

中村:「そうそう、そこ重要なポイントですよ」

川井:「赤レンジャーがいっぱいいてもダメなんですね。」

中村:「地域でいろんなプロジェクトやる時のポイントとしては、リーダーの人は自分とぶつかるリーダーの人と一緒に組むと絶対決裂するんで、そうしないバランスを最初に設計しないといけないんです。それはもう自覚してたんで。いろんな人に声をかけて5人メンバーを作って、その5人で始めたんです。」

川井:「桃太郎が鬼ヶ島に行くみたいな...」

中村:「いやいや、そこまで立派ではないんだけど、スキルをいろいろ持ってるそのスキルをシェアしたいっていう想いが逆にあって、」

川井:「それは長い時間一緒にいること?」

中村:「長い時間一緒にいることと、じゃないとできないでしょ。つまり個人プレーは十分わかっているわけですよ。自分のスキルがどれだけあるか。それはもう散々やってきてるわけですよ。アートシーンの中でのあるバランスも見えてるわけです。でもプロジェクトっていう概念を言った途端に、目標は見えているけどたどり着き方がわからなくなるわけ。ビジョンはあってもアクションは見えなくなる。でアクションをどうやって作るのって言った時に、一番最初にやったのは、秋葉原のそばに事務所を作ることってことなんです。僕の中では。そばに行くことなんでです。そばに行けば何とかなるんじゃないのかっていうぐらい大枠な考え何です。でもそれが正解だったんです。結果。」

川井:「それぐらい大きいビジョンとしてakihabaraTVやりたいって、猛烈にあったわけですね。それはやっぱり東京も世界も廻っておられて秋葉原という街が持つユニークさが際立ってたんですか?」

中村:「うん、際立ってた。当時広尾に住んでいて、そのあと埼玉のでかいスタジオ借りて、その後都心に移ってきたんですよ。その中で東京の、ゲリラの新宿とか銀座とかやって、ターゲットを一つの街にして、街の個性には敏感じゃないですか。もちろん芸大からずっと東京に長く住んでるんで、漠然と広い東京って感じにくいですよね。でも部分だと感じるじゃないですか。秋葉原とか上野とか銀座とか。そういう魅力は街単位であるってのは十分感じてたんで、ようし次は銀座やった後は新宿攻めるぞみたいな、新宿終わった後は次どこへ行く?次は俺のところだ、秋葉原だって。でももうみんな疲れてしまっていて、面白いと思うけどどうなのかな?みたいな人もいっぱいいるわけですよ。でも僕の中では秋葉原が次のターゲットだってはっきりわかっていたので、この指とまれっていうのをコマンドNを立ち上げる時に、そばにまず行かなければいけない、そばに行くと因果関係が深まる。実際に秋葉原電気街振興会に電話をして、企画書を持っていく。そこもう数分の距離感なんですね。そこの事務局長の佐藤さんっていう当時の事務局長の方がいらして、彼がキーマンだったんですけど、彼が振興会の会長さん、当時のサトー無線の佐藤さん、そういう人をサクッと紹介してくれてすぐ行けるわけですよ。そしたらすぐOKが出ていきなり振興会OK、次に販社の人たち、ソニーだナショナルだパナソニックだの販売会社が秋葉原に密集してるんですね。一緒に自転車で佐藤さんママチャリで、一社一社二人で回ったんです。」

川井:「いきなりOKが出たってお話がありましたけど、akihabaraTVって秋葉原の電気街のテレビ、当時はブラウン管だと思うんですが、普通は地上波が流れている、あれをアート作品にしようというプロジェクトですよね。それは結構簡単なことではなさそうですよね。交渉しても、えっ何なみ見たいな。どんな感じだったんですか?」

中村:「うーん、まあ最初の企画書の段階からいくと、まず初めの段階では僕のビジョンでしかないし、ビジョンの段階でビジョンを絵にする必要があったんで、企画書の中でこういうイメージっていう絵は作っているんです。ただまだやっていないので、一回やればイメージ伝えられるんですが、やってないじゃないですか。やってないんでそれが何の意味があるんですかとか、どれだけ経済効果があるんだとか、もういろんなことを質問されるわけじゃないですか。まあある程度想定してるとはいうものの、やはり最終的にキーというかきっかけになったのは、秋葉原が家電から個電に向かっていて、お客さんの質が変わってきてたんです」。

川井:「個電、パーソナルコンピュータやウォークマンのような個人のものですか」

中村:「言わない?当時は家電から個電ってよく言ってたんですが。最近言わないんだ。」

川井:「家電から携帯電話みたいなもんですね。こんなことをやろうとしていたんですね。」

中村:「こんなことって見えてないよ。」

川井:「30秒ごとにループしていきます。アートが画面にビューって流れてます。」

中村:「秋葉原の街に人が減ってきた、家電が売れなくなってきた、量販店が苦しい、でその時に大手量販店、ヨドバシさんなんですけど出店が決まったと、今度駅の向こう側にできると、その時本当に泣き崩れるように佐藤さんが日頃うちの事務所には来ないのに来たんですよ。「もうダメだ秋葉原は」と」

川井:「それが来ちゃったから」

中村:「でも逆に言うと、お客さんをひとりでも多く何らかの策を持って同時に呼びたいという気持ちはパラレルにあるわけじゃないですか」

川井:「いいタイミングだったと」

中村:「いいタイミングだったんです。まあよく分からないけどやってみようと。よく分からないけどひとりでも多くのお客さんが秋葉原に来てくれるなら、中村さんたちがいってる映像のプロジェクトもやってみようと言ってくれたんです。佐藤さんが。」

川井:「電気街の人にとっては祭りっぽく見えたんですか?アートに協力をしようとか、心意気?」

中村:「いやー、どうなのかな。祭りじゃないですね。企画書からは。多分本当よくわかってなかったと思う。でもいわゆるお祭りでもなく、本来はコンセプチュアルなものなんですが、とにかく使っていないじゃないですかテレビは、売ってるだけで。中身はソフトはただ地上波流してるだけなんで。全くリスクはない。デッキもすでに繋がっていると。流す気になればただビデオカセット入れれば、テレビに映るだけだと。」

川井:「分配器なんかは家電量販店の中ですでに分配とかされているので、テープだけでいいと」

中村:「そう、テープだけでいい。リスクは少ない。」

川井:「地上波との利害関係も別にないということですか。あれば地上波が映らなくなってもいいと。」

中村:「うん、いい。逆に言うと、あるクオリティを試せるわけじゃないですか。一回目は画質が悪いって言われたんですよ。」

川井:「地上波のアンテナ線で見てるよりも、VHSのアート作品は画質が悪いぞと」

中村:「悪いって言われて、それじゃあちょっとクルーも嫌じゃないですか。それで次の段階になるとDVDレベルの画質になってくるんで、デジタル化が進むわけですよ。」

川井:「次のレベルというのは、年次を重ねてってことですか?」

中村:「次の年度で。」

川井:「なるほど、最初の年はVHSでやったと。320x240、あ、640x480ですね。ちょっとぼんやりしてると。」

中村:「そう、640x480。ぼんやりしてる。」

川井:「次の年はDVDになった。すごい。」

中村:「だってそれ僕ひとりでやりましたからね。編集を」

川井:「そのとき一緒にいた仲間、その5人の仲間は?」

中村「5人はそれぞれ役割があるんです。デザインやったり、制作は全部僕、交渉・制作が俺で、」

川井:「他の4人は何やってるんですか?」

中村:「マネジメントと作家調整、あと広報、あとデザイン、チラシとか外向きのことをやってる。実際作家の作品、映像作家だっていってもアナログで作れても、デジタルで作れないわけですよ。デジタルの機器を揃えたんですよ僕が、するとノンリニアで編集するわけじゃないですか。最終的な納品の形態にするのは僕しかいないんです。」

川井:「しかもあれすごい時間かかりますよね。」

中村:「すごい時間かかる。1分レンダリングに下手すると半日ずーっと待ち、aftereffect待ち、ずーっと。」

川井:「バージョンいくつぐらいですか?」

中村:「いくつだったかなあ、最初の頃20数万したけど、premiereも20万ぐらいしていて、完全バグがあってよく落ちる。音ズレが起こるし、凄まじい。」

中村:「けれど、まあそれは作る上での産みの苦しみでね、誰しもあるじゃないですか。最終的に街に出たときに、街の中に映像が流れていて、気づく瞬間に街の風景が変わって見えるんです。僕の中で、それと同時に違うレイヤーが見えるんです。ここがポイントなんです。」

川井:「違うレイヤー?」

中村:「つまり地上波が映っているものから、ひとつでも映像作品のものに気づくと。もちろん最初から知っている人は知ってる人なりに、でも情報量が多いんです街ってのは。多い中でここでやってるって気づいてじっくり見て、くすっと笑ったり、なんだろこれって何か不可解な感じをしながら、その映像に気づく。その同じレベルのメッセージ感の質を全体の中で感じ取ることができるわけです。つまり作り手側のもうひとつの側面を見ようとする。複雑なレイヤーで、一元的で一般的な消費構造だけではなく、もう1個裏のメッセージを感じ取るような世界に行けること、そこが楽しいわけですよ。そこから街を生み出すと、このものとこのものを生産している人がどういう考えなのか。その考えの横にまた違う考えのものがあって、競争してたりするわけじゃないですか。アキバの場合はそれがもっとカオティックにあるので、なんの文脈もない関係ないものが隣り合ったりしてるわけです。その組み合わせ感が新しい刺激を生むでしょう。それが面白いんです。」

川井:「うーん」

中村:「その極地がブレードランナー、川井さんブレードランナー大好きでしょ。ブレードランナー1作目のあの街の風景の中に様々な情報が登場し、しかも西洋と東洋の文脈が混ざっていて、雨が濡れてこうしとしとと降って、そこに映像がザザーッと」

川井:「ドット欠けがあったりしてね。」

中村:「そうそう、あのイメージが最初なんですよ。」

川井:「なるほどー!82年ですよねあれは。」

中村:「あのイメージと僕が韓国へ留学しているとき、実はakihabaraTVの一番最初のイメージは、87年ぐらいかな、オリンピックの前ぐらいに」

川井:「ロサンゼルスオリンピッックの前ですか?」

中村:「いや、韓国。パルパル(ソウル)オリンピック韓国なんで、僕、韓国行ったときに、当時泥棒市場って呼ばれているところがあって、本当にいろんなものがあって盗品売ってるんですよ。でそういう盗品売ってるようなところに、もうなんでも売ってるんですよ、食用の犬まで売ってたりとか、もうめちゃくちゃなわけですよ。」

川井:「カオティックの極地ですね」

中村:「そう、カオティックの極地。昔の九龍城があったじゃないですか、香港に。九龍城の入り口見るだけでもざわざわっとするじゃないですか。入っちゃいけないかなって。で恐る恐る入っていくと。おお、なんだこの世界はと、知らない世界に体感していく。お化け屋敷じゃないんだけども、もっともっとリアルなものです。そのときにモニターがガガッと積んであって、ほぼ粗大ゴミから持ってきた中古モニター、だいたいそれが直して売ってるんですね。修理そのものが生業。でそこに突然大相撲中継が始まったんです。

川井:「ほほう、それ日本の?」

中村:「日本の。話題ぴったりなんだ、若貴なんですよ。もう若乃花貴乃花全盛期で、横綱になってたかな、なってなかったかな、で、大相撲中継が始まって大相撲中継が始まってんだなって、あのブレードランナーの世界の中に突然大相撲中継が始まったと思ってくださいよ。最初なんか面白いなあと思いつつも、いやまてよここ韓国だぞと、なんでリアルタイムでやってんだと。そして横をふと見ると巨大なBS用のパラボラアンテナが、もうすごいでかいこのぐらいの、日本だとこれぐらいじゃないですか、これぐらいでかいのをバーンと日本に向けて、独自にBSチューナーも作って、」

川井:「独自に、ビーキャスカードとかいらないやつ...」

中村:「そう、いらないいらない。もう全然普通にBSが映ってるわけですよ。」

川井:「それってもうサイバーパンクの極みじゃないですか。」

中村:「普通に僕の韓国の友達なんかは今日は日本の番組見るかって言って、BS見てるわけです。当時日本の文化は輸入禁止令が出てるんです。日本の本とか映画は韓国に輸入しちゃいけなかった。雑誌も。でもみんなこっそり裏で見てるわけ。」

川井:「禁酒法時代みたいな。禁日本コンテンツ!」

中村:「当然日本のコンテンツはみんな面白いと思うから、BSとか見て今日のあの映画はって、で若貴やってたわけだ。」

川井:「面白いですね。そういうほうがコンテンツって吸収されますよね。禁止されたほうがね。」

中村:「じゃあ何で若貴できるのって言ったらば、映像自体は放送してるからでしょ。受け止めるってのは日本と言うルールにしてるけど、電波は届いちゃってるんだから。しょうがないでしょ。」

川井:「コンテンツ的には見えちゃってるんだからしょうがないですね。」

中村:「しょうがないでしょ。見えちゃってるんだから。届いてるからしょうがないって言ってる中に自由があるじゃない。」

川井:「ユートピア的ですね。」

中村:「受け止めていいでしょって僕は、そうするとハードとソフトの関係は、やっぱり結構自由だぞとこれは。ハード側はいくらルールを決めても、国を超えて電波は届いてしまっていると、そこの電波の自由度、受け止める側の方法によっては、どうにでも解釈できちゃう。」

川井:「受けようという意志と技術があれば」

中村:「うーん、でもそこに可能性を感じたんですよね。」

川井:「おつまみを忘れてました。どうぞどうぞ」

中村:「いいのかな、こんな話していて。」

川井:「いいです。」

中村:「いやー、うわー、なんか自分の顔は見たくないねえ。まあでも最初のakihabaraTVの発想はそこなんで、そういうイメージが自分の身体の中から出てくると、そのイメージを実現したいという欲求が当然湧きますよね。絵をイメージを持つとそれを形にしたいじゃないですか。絵だったら絵描きたいじゃないですか。そしたらその韓国のソンゲチョンという市場なんですけど、ブレードランナーもどきのものが体感してしまったんで、そっから発想が湧いて、じゃあ秋葉原でソフトの自由さを求める、そういうプロジェクトができるんじゃないかと。テレビジャックをするような、でもテレビジャックつってもすでにハードは全部揃ってるんだから、最初はVHSのテープを作りガチャンって、次はDVD、今だったらもうYoutubeでネットだから、こうなるとは当時思ってもいなかったんだけれども。だからソフトの自由さ、自由を勝ち取るためのクリエイターの表現というのは、どっちかというとクリエイターのほうが先だったんですよ。僕から見ると。技術は後からついてくる。後からっていうか、絶えず遅いっていう感覚でしたね。ここまで行きたいのにダイアルアップか、次にISDNが出てきて、少し課金されない仕組みが出てきたけど、でも速度が遅くて」

川井:「それでもスキマプロジェクトとかやられましたよね。」

中村:「そう、やったよ。信じられないよね。よくやってるよね。」

川井:「またそれを再現して展示会やってるのがすごいっすよね。よくこれがどこのハードディスクに残ってたんだろってぐらい。」

中村:「本当ですよ。もう大変。でもミニDVで全部やってたんですよ。ミニDV自体は残ってる。でも時期がね。ミニDVはもう再生しくにいでしょ。あれメーカーさん作って欲しいよねー」

川井:「やっぱり絡まったりとか、いろいろ大変でした?」

中村:「もうだって全然ダメでしょ。中古でしか売ってないから。画質もあれだし。」

川井:「部品がもうないですからね。」

中村「絶対今それ作ったほうがいいと思う。メーカーさんで。だってニーズは抜群にあって、大学とかは授業記録みんなミニDVなんですよ。僕らの世代ぐらいの。てことは全部の大学の授業記録をミニDVで作ったりしてると、いろんな記録がミニDVで残ってるんですよ。これが再生できない、再生機作ったらいいでしょ。何でやんないのかね。」

川井:「放送局はインチだとかいろいろありますが、そういう大学とか市民の記録はミニDVとかHi-8とか、あのあたりなんですね。」

中村:「Hi-8はアナログだけど、ミニDVはデジタルだから、一応。」

川井:「一応、FireWireで、FireWireもうあんまりないですからね。」

中村:「FireWireで、苦しいよね、FireWireはね。」

川井:「でもUstreamとかもネット配信もFireWire、あの、一巡してUstreamとかの配信がブレイクした頃は、FireWireからキャプチャーしながら配信すればいいんじゃない、今FireWireかみたいなのが2010年ぐらいにありましたけど。面白かったですね。コンポジットかS端子か、FireWireかといえば、FireWireが一番綺麗だからFireWireで行こうって、紫色のソニーのケーブルで中継してましたからね。懐かしいです。」

中村:「でも技術の革新は、その技術を超えたビジョンであったり、何か表現したいっていう想いが先にあって、その表現したいっていう想いにある意味追いつくように、技術が本来は来てると思うんですよ。でも表現も、技術が先にありすぎて、そこに後から表現がついてくると、どうしても技術的なものが先に見え過ぎて、ちょっとこう何ていうか癖を感じるというか、表現としてはね。まあそれはそれで大事なんだけども。」

川井:「今だとちょうどVRみたいなのが、元年元年って言われて、毎年元年ていってますけど、黎明期みたいでちょっと面白いですよね。これがいったいどこへいくんだろうと。結局あれCD-ROMの時代をもう一回周って解像度が高くなってるみたいなところがあるじゃないですか。CD-ROMが始まった頃、グリグリできるぞ、でもグリグリできるけとちょっと疲れちゃうみたいな、そしてまたゲームになってみたいな。あういうスパイラル状で、だんだん技術はアップしていくけど、どっかでみたよな、この感じはってのは、毎回ありますよね。」

中村:「そうだろうなあ、僕が今一番興味があるのは、VRとかもまあ多少ですけど、その先ですよね。結局僕らが五感を持って感じ取る感覚のその先、感じてることはいったい何だろうと思うんですよ。僕が今感じてる美味しいとか、このスタジオ何?みたいな、ここから気配を感じるじゃないですか。この感じることをどういう風に伝えたいかっていう、非常に初源的でもありつつ、実は難しいですよね。」

川井:「動物的な」

中村:「動物的にも。もっと感性がどういう流れを持っているのかとか、もちろん知覚すること自体に対しての、知覚の様々な質を感じ取ることは技術的に頑張ってはいるわけだけれども、単独にバラバラにある感じがするわけ。音であったり視覚的な映像、もちろんそれは例えばここは神田っていう文脈だと、神田の文脈の知識から感じることがある。これがもし秋田だったり外出たら北極だったりしたら、全然地域的な感度って違うものじゃない。同じ映像でも。それは同時に見えないけれども、映像発信してる際の質を持ってるんですよ。質を持ってるんだけど、その質そのものをどういう風に僕らは捉えれば良いのか、ここがもう一つ見えてなくて。これ話すとちょっと長いから今度にしようか?」

川井:「でもね今、akihabaraTVで街の中、家電量販店、サトー無線、いろんなものをジャックして、風景とか感覚をちょっと変えたと、そこからここに書いてありますけど、97年に始まり、2000年KANDADA、この辺はあれですけど、2010年3331という中学校、少子高齢化というか子供がだんだん少なくなってくることで、都市の中でも廃校が増えてくる、その練成中学校が廃校になった時に、行政としてどうするかとなった時に、中村さんが名乗りを上げたわけですよね。コマンドNが企画を出して、ここをアートセンターにしようと、つまり作品としての場所、電気街に対して、何ていうかなギャラリー、キャンバスとしてakihabaraTVをやってたのと、今度は違う文脈ですよね。ひとつの大きな物理的な箱があって、そこをアートの展示会もできる、人も集まる、シェアオフィスでいろんな人も来る。先ほどおっしゃってたakihabaraTVをやるために自分のシェアオフィスを作ってプロジェクトをやるということが、また一段階上がって、パブリックに近い形で学校という巨大な箱を、自分の考える空間にしていこうと決意したのは、どんなプロセスでしたか?」

中村:「自分が考えるというよりも、例えばakihabaraTVをやってそのあと、神田の錦町にKANDADAっていう場所を作ったりするのは、個人の活動としては、当然それはそれで作品を作ったりしてるわけですよ。でも個人とさっきいったグループであったりとか、街という単位に入ってくると、自分の振る舞いとか他者との関係は、相当他者にも影響されるようになってくる。で表現としての幅が一気に広がるわけですよ。解決できないこと、量が多すぎる。街に立って高いビルから俯瞰したらすごいビルの数じゃないですか。とんでもないですよね。かつて僕が葛飾に住んでた時に、葛飾のイトーヨーカドーみたいな、イトーヨーカドーだったかな、駐車場から見たら、葛飾でも2階、3階建の建物がブワーってあるわけだ。そこに高速道路が住宅の上をヒューって走ってるわけですよ。この風景見て、みんなほとんど同じような家で、工業化住宅で、この住宅1個作るのに何年もローンかけて、人生かけてここに住んでいるわけじゃないですか。じゃあその住宅1個のパーツ、住宅がある、風景がある。個と全体の関係がそこには見えるわけですよね。そこに僕も住んでる。僕が見てる。ひとりの人が意識している。ひとりの人が意識していることと、全体を感じてるその全体は何を感じてるんだろうと、ちょっと言いにくいだけども、例えば100人が集まった時に100人が感じてることと、100人の中のひとりが感じてることはイコールにならないでしょ。もちろん思想が違ったり、政治的な考えが違ったり、場合によっては海外に行ったら文化的な背景も違ったりする。でも100人が集まっていることは確かなことじゃないですか。その街をみると。そこにいるわけだから。その人たちの全体像は何を求めているのか、何を要求しているのか。どういう知覚がそこに、街だったら100なんていう単位じゃなくもっと広いけど、全体が求めているある種の創造性であり、思考プロセスはどこに行くんだろう?ということに、同時に興味があるわけです。興味を持ってしまったのよ。だから自分が表現する1アクションと、その全体である例えば葛飾でも秋葉原でもいいんだけれど、自分の中でリアリティを持つ距離感の全体。このリアリティを持つ距離感て大事何だけれども、突然日本中全体とか世界中全体とか僕が感じたいとしてもリアリティがないわけですよ。秋葉原の電気街の中ではこういうアクションを起こすと、こういう全体に対する影響が作れた、またはその影響から自分がも影響を受ける、というような個と全体の関係が作れるようになるんです。と考えると、自分の中で街っていったい何かとか、街の中で起こっている様々なレイヤーで起こる情報がひとつひとつの表現するきっかけでもあるし、素材でもあるわけです。風景を見た時に、風景の山があって空があって雲が流れる、山っていう素材、雲、空、全部絵に描こうとすると色を変えたり形を変えたりしなきゃいけないじゃない。表現の素材ですよ。質ですね。それと同じように街をみる、街を感じることができ始めたわけ。それが面白いんです。だから3331を作る時には、ひとつの街をその中にぐっと作りたかったわけです。いろんな多様な価値観がそこで同時に走って、1ではなくて少なくとも3331に入ってくるお客さんなり、テナントさんなりが日々いろんな動きがあるわけじゃないですか、その全体と僕らはその中で、例えば僕たちは3331をオーガナイズする側は、何をアクションして、個として出せばいいのか、ということの連続なんです。そのほうがはるかに豊かな、何を持ってはるかに豊かかって言いにくいけれども、そこでの選択肢であるとか、そこでの経験が大事だなと思って作ったんですね。」

川井:「千代田区の中で、いわゆる内神田という昔からの街があって、外神田があって、Arts Chiyodaというのは、秋葉原の外神田、ほぼ台東区とのギリギリの境目にありますよね。一般的に駅でいうと末広町という銀座線の駅、もしくは千代田線の湯島という駅、ちょっと行くともう御徒町、普段電車で上野に行くとかいう人以外はあまり意識してないですが、御徒町、湯島、末広町ってほぼ徒歩圏じゃないですか。つまりギリギリの境界線にあると、あの場所にあった、もしくは違う場所でもやったのか、あの場所が面白いと思ったのか?」

中村:「あの場所が面白かったんです。」

川井:「それはどんなとこがですか?」

中村:「それはボイドだからなんです。空間が抜けてるわけ、空白があるわけ。わかります?秋葉原から来て末広町の交差点があって、上野側の交差点に行こうとする、あそこの交差点でちょっと質が変わるでしょ。」

川井:「あの通り、蔵前橋通りでアキバ文化と湯島・御徒町文化が」

中村:「上野から中央通りに入ってきても、ここまでが上野でありここまで御徒町だけど、ここからすっと姿が消える領域なんですよ。それはボイドともいうけど、僕の中では隙間なんです。」

川井:「隙間プロジェクト!」

中村:「そう、隙間プロジェクトとして、結果良い物件ってボイドにあるんですよ。隙間にある。本当、究極的にそうですよ。」

川井:「隙間プロジェクトの写真を今探してますけど」

中村:「面白いねえ、この番組。すごいよく聞いてくれるから嬉しい!調べてくれてるし嬉しいわー、何が流れているのかわかんないけど、ここには映らないの?」

川井:「映るんですよ。7秒ごとにループしているので、」

中村:「良い物件ってのは、都市の価値と価値の隙間に生まれるわけ。」

川井:「これ隙間プロジェクトの写真でしたっけ?」

中村:「なんだろこれ、違う、それは磯崎君の作品で」

川井:「あ、すみません、失礼しました。ちょっと難しいなあ」

中村:「クイズみたいだね、コマンドNクイズ」

川井:「普通僕ら今の時代、東京を認識するときってメトロの駅であったりとか、JRの駅っていうところでしか認識してなくて、その駅から出ると、普通の人はまたその駅へ戻って潜ったり、地下鉄で帰ったりJRで帰ったりするじゃないですか。自分が家を構えたり事務所を構えると隣駅にいくみたいな、自分も3331に入った時に、末広町かと昔ここにマックの有名なイケショップってのがあったなって思い出して、ここで俺ニュートン買いに行ったな、ここかそういえば秋葉原の外れにPDAのショップがあったなって印象があったんですけども、自分が事務所を構えると、あっ湯島ってこんなに近いのかとか御徒町こうなのかと、普段は打ち合わせしてもそこから地上に飛び出してそのまま帰っちゃうんですけども、ぐるぐる周るようになる。ここの司3331だと、神田なのか、淡路町でもあるのか、小川町でもあるのか大手町でも歩けちゃうのかみたいな。」

中村:「そうそう、ここも同じですよ。それなんでかわかります?」

川井:「なんでですか?」

中村:「それは都市構造的には明快なんですが、このエリアもボイドなんです。明らかにボイド、まだ。もうちょっとすると変わるんだけど。つまりはっきりしている街のイメージは、はっきりしたまちづくり、まちづくりって変な言い方だけど、その建物であったりとか、エリア感があるわけ。」

川井:「ランドマーク」

中村:「でも隙間ってのは、それがないところでしょ。つまり地価が極端にそこで変わるんですよ。家賃が低いとこなんです。家賃が低いラインなんですよここは。結果そういうところに僕は行ってるわけ。不動産運がいいって勝手に思っているだけで、家賃が安くて条件がいいものがあるのは、そういう開発業者の人たちが入ってくると、固めてしまうようなエリアなわけです。」

川井:「固めるって?」

中村:「固めるって難しいなあ、あんまり大きな声では言えないかもしれない。」

川井:「再開発して縦に伸ばしちゃうみたいな」

中村:「それまでに10年とか20年とか寝かせるんです。」

川井:「その隙間は場所だけじゃないんですか、時間でもあるんですね」

中村:「時間でもある!そうなんです。一緒に声が合いましたね!」

川井:「ぐっときましたね」

中村:「本当でしょ、ここのオープンの時に波がきてるって言ったでしょう。波をサーフィンしなきゃだめだって言ってる。時間とタイミングでしょ。」

川井:「覚えてますよ。ビル開発の波が大手町から淡路町から迫ってきてると。経団連の方から」

中村:「その波がきてる時に、台風がくると波がでかくなるじゃないですか。その時にみんな逃げるんだけども、勇気あるサーファーはボロボロの漁船とかに乗ってって、途中応援してもらって、突然海に飛び込むわけだ。でその格好いい姿をサーフィンで大波の中をめげずに走るっていう粋な姿」

川井:「粋!来ましたね神田田的な」

中村:「粋っていう俺からは言いにくい。、格好いいじゃないですか。れはの大波に向かってい姿勢が必要でしょ。大波を楽しむ姿勢が必要でしょ。それが格好いいんだって思う考えが必要でしょ。波に飲まれるのが嫌で逃げればいい、ほとんどの人が逃げるわけだ、でもく

川井:「定期借家なんて大変なのに」

中村:「もちろん僕の場合は、開発している人も知ってるし、そこに対しての彼らの苦悩も知ってるし、地元の町会なりビルを持ってる人の苦悩も知ってるし、知ってるっていうか知るようになってしまったんだけど、ひとつひとつ事業をしている中で、プロジェクトやってる中で。波は波なんですよ。これは大きな波で、さっき言った全体なんですよ。ひとつの会社が、企業が考えられることじゃないんです。」

川井:「時代の流れだと」

中村:「時代の流れもあるし、ある種の動きがあるわけ。その動きってのは止めようと思っても、なかなか個人では難しい。でもある程度の軌道修正とか、ある程度の質感、表面の質感は変えられる可能性もあるわけ。そこが大事なんです。波が大きくなってかぶさって、すべてのものを包み込んだ後の残像っていうか残骸が変わったりするわけよ。本当に。」

川井:「残像になるぞー!頑張っって残像に!」

中村:「ここのポジションすごい大事ですよ、ここ、地理的に。」

川井:「もう、向こうはだいぶ固まって来ましたよね。百円ショップもなくなり」

中村:「もうどんどん来てます。別に抵抗することではなくて、その流れに対して自分がどう思うか、それをどう表現するか、表現と思うのは僕のくせなんだけども、その流れに対して、自分の価値、または仕事でもいいんだけど、どういう風にチャレンジしていくかを考えた方が楽しいじゃないですか。圧倒的に楽しいでしょ。逃げるより攻めた方が楽しいでしょ。」

川井:「アジテーションがうまいですね。もう中村さんのラスボス感がすごい。」

中村:「この日本酒まずい。秋田の日本酒飲みたいな。」

川井:「すみません、秋田のはないです。」

中村:「いやあ、でも川井さんは上手い!話の聞き上手。よくこれひとりでやってるよね。かっこいいよね。」

川井:「僕昔VJやってたんです。VJ系の人ってこういうのやってる人多いんですよ。カチャカチャ切り替えるのが好きだから。いや僕が思ったのは波の話で、僕が最初入った会社は新橋のマッカーサー通りの虎ノ門ヒルズになったあそこの再開発の通りが、マッカーサー条例というのがあったのかな、いつか立退かなきゃいけないって、向かいの雑居ビルのCMプロダクションです。
僕がいた頃はまだ雑居ビルがいっぱいあったんだけれども、だんだん立ち退いてって、今やバーッとあの通りができて、虎ノ門ヒルズがバーッと建って、要はそんな20代の青春、兵役と言ってますけど、業界でそういう兵役をやってたと、業界のノウハウを知るためにね。その思い出の場所が、アスファルトの下に沈んだんですよ。ダムに沈む村みたいな気分があるんです。僕の中でね。自分たちがあそこで毎晩徹夜して、業界のノウハウをやった、でもそもそも若いですからいくらでも徹夜ができたし、大丈夫だった、あの思い出は全部再開発とともに道路になってるっていう、ちょっとロマンを感じるっていうか、形としてはもうないんだけど、自分の経験だけがあそこにある見たいのがあって。
ここに入るまでは知りませんでしたけど、再開発の波とかよくわからないで、3331がまた新しくシェアオフィス作るっていうんで、秋葉原もだいぶいたし、知らないけど、神田司町ってどこだ?よくわからないぞ、神田から遠いのか、どうなのか面白いなと思って入ったら、確かにいてみると周りがだんだん更地になってきて、ガガガガッと工事で揺れ始めて、いろんなものぶっ壊し始めて、あっこれは来るんだと、中村さんが最初3331のキックオフみたいなところで、向こうからビルの波が来ると、最後の波で何ができるか、興味がある人が今ここに入ってるんだよねーみたいなアジテーションされて、あ、そーっす。ついていきます!みたいなそんな気分だったんです。」

中村:「今日見て、こんだけ楽しい場所をこうやって作ってびっくり!あん時はまだこういう仕組みはできてなかったけど。今の話でいくと、都市部だけじゃないんですよ。地方でもそうなんです。僕の田舎は秋田なんですけど秋田も同じで、」

川井:「秋田の大館ですよね」

中村:「大館です。中心市街地がドーナツ化でなくなって、なくなるわけじゃないけど、ずいぶん経済圏が変わってきていて、周りにバイパスができて大型店が入ってくる、今はもう次の時代になってきて、大型店がダメになってきている。」

川井:「郊外の通り沿いにあるビデオショップや靴屋や本屋や」

中村:「そう、次はインターネットが入ってきていて、」

川井:「そしてここでもう買わなくていいと」

中村:「買わなくていいと」

川井:「Amazonでいいと」

中村:「それはいわゆる第四次産業と言われていて、IT系のコンピュータで考える技術?なんだっけ、ほら、」

川井:「AI?」

中村:「そうAI系ですよ、AI系の新しいコンピューター頭脳に関しての、つまり人間の力ではなくてコンピューターなりAIの力、総合的な力、知ですよね。個ではなくて、さっき言った個と全体でいうと、今まで蓄積してログをとってきたもの、膨大なる経験値の知識の塊としての知を活かして来ると、もう個として僕らが趣味で持ってるとか、本能的に欲求することなんていうのはもうみんな承知で、筒抜けなわけですよ。携帯いじって検索してる時点で、もうバレてるじゃないですか。産業的には、そこを使うっていうのが次の産業ですよね。そうなってくると、ドーナツ化でバイパス道路沿いに販売店構えているっていう必然性がなくなってきてるわけですよ。で、どこに行けばいいのと」

川井:「物理的な街道が廃れてしまうと」

中村:「そう、じゃあどこに行けばいいのと。つまりスケールで考えるとわかりやすいんだけれども、商店街ってのは歩いて行ける楽しいお店じゃないですか。歩いて行ける。一方バイバス沿いってのは、車で行ける楽しいお店なわけ。それは距離が長い。単位がでかくなる。車をつける駐車場が必要。その次は物理的な世界が消えてしまうと、何が楽しいの?って話になって来るんです。どこに僕らは行けばいいのって世界に入ってきてるんです。」

川井:「最後はスナックに戻るんじゃないですかね。」

中村:「ええっ、なんですかそれ、スナックって?」

川井:「こういうスナック見ないな食べ物とか飲み物とかでもないと。そこに話を聞いてくれる人がいて、話ができるという場だけが残るという」

中村:「子供はどうするの?」

川井:「子供のコミュニティですか?」

中村:「親はいいけど子供を連れてここに来れないでしょ?相当マニアックじゃないとここに来れないじゃない」

川井:「子供のマイクラ講座とかもやってるんですよ。」

中村:「街ってのはもっと同時にレイヤーをいっぱい抱えなければならないので、やっぱり市役所って大変じゃ無いですか。子供からおじいちゃんおばあちゃんまで含めて、教育過程から含めて、病院から含めて、様々なインフラを抱えていて、でも人口がどんどんどんどん減ってきて、人口が減ってきてるにもかかわらず昔のバブルに作ったものも含めて、最低限のインフラがいっぱいあって、維持するだけで大変じゃないですか。維持するだけで大変ってことは、経営が成り立たないってことですよ。だんだんだんだん家計が苦しくなってきてるわけです。苦しくなってきてるにもかかわらず、やんなきゃいけないことが多い。真っ先に何かを減らさなければならない。減らすのは一番最初に文化を減らしていくんです。美術館の予算削って、文化的な行事、外に出るような余分なものを削っていこうとするじゃないですか。それが今の状況状態ですよ。結局病院とか橋とか道路修理するとかは先になるわけです。そうすると当然僕らが生きる術の街に対しての接点がどんどん減らされているっていうのが現状です。」

川井:「新しいページを開けというコマンドNの本の冒頭に中村さんが書かれているのは、「20年間で190のプロジェクト、2000名の参加アーティストと共同し、総事業費は7億円、東京都美術館の年間予算で実現してきた。」とありますね。これはぐっとくる好きなフレーズなんですけど、大箱、美術館の中のいろんなランキングがあった時に、1年間だけしか動かせない予算の中で、これだけのアーティストを育て、街を開いてプロジェクトをやってきたと、こういう熱い想いを感じるんですよね。」

中村:「いや、本当にそう思う。思うんだけど現実は、例えば某美術館でも1ヶ月の展覧会作るのに監視員の費用が1000万かかるとか、専門的な照明をいじる人の時給単価がウン十万するとか、もうそんな状況でやりくりしてまだやってるんですよ。」

川井:「この前のトークでおっしゃってましたよね」

中村:「そうなってくると、費用対効果でいうと、僕らがコマンドNでやってきたことは、相当費用対効果はいいんだけど、まだまだ全体で考えるとほんの紙っぺらみたいに薄い存在なんですよ。」

川井:「全体で考えるとは、誰のどんな立場で考えるということですか?」

中村:「日本全体の文化政策の中で考える。文化政策なり文化施設でもいいよ。全国に美術館があって、美術館に準ずる施設もあってそんなかでやってる予算、民間があって、それぞれの地方自治体が出してるバランス、そこで考えてみると、世界の中でみると、日本は予算、GNPの中に占める文化政策の割合は非常に低いんです。中国、韓国に関しても、向こうが予算に対して1%を文化制作に当てる時に、僕ら日本では0.1%にいかないぐらい。そうなってくると当然国単位で考えると、予算枠はめっちゃ少ないんだけれども、少ないなりにも日本ってのは全国の都道府県に美術館があり、相当美術に対して好きな人も多いんです。」

川井:「美術に親しむ人のボリュームが多いということ」

中村:「多いんだけれども、街を歩いてアートって言った時、アーティストって名刺交換した時に、ああアーティストね、わかりました。それ以上大丈夫ですみたいな反応がある。」
川井:「アーティストですか。ふーん僕関係ありませんみたいな」

中村:「あなたもアーテイストって名乗ればいいのに。なんで名乗らないの?」

川井:「なんででしょうかね、自分の中ではアーテイストとは自分で名乗るのはおこがましいかと」

中村:「そんなことない!これだけの世界作ってる人が、あそこで炎が上がってるし、これアーティストって言ったほうがいいかも。何れにしてもアートって立ち位置の中で進撃に自分たちのことをやろうとしていても、アートということで距離感を持たれてしまう。それだけメンタルはアートという言葉には遠いし、まだ普通の庶民感覚としてまだまだ親しみにくいっていうかな。職業的にアーティストと出会ってしまったら、アーティストと出会ってる友人関係というか、生活感がピンときてないんです。ピンときます?」

川井:「逆に中村さんに興味があるのは、個人としてのアーティストの部分と、アートのプロデューサーっていうんですか場づくり3331を作るとか、自分がアーティストとして上に上がっていく段階の次に、アーティストが才能を発揮できる場を作るとか、そういうものをいっぱい手がけてますよね。TRANSARTS TOKYOとかもそうですし。それっていうのは、アーティスト出身のプロデューサーに見えるんですけども、そういう解釈でいいですか?」

中村:「僕はプロデューサーってのはピンとこない。アーティストの活動として表現としてやってるだけなんで。プロデュース業もしますよ。キュレーションもするし、施工もするし、それぞれの専門性は一通りできる。ただそれだけですよ。ただプロデュースする人があまりいないんで、立ち位置的にそれをやらざるを得ない。広報、会計、いろんな専門職の人たちのチームを作った時に、プロデュースする感覚の人がなかなかいないですよ。これが。いる?」

川井:「そこが興味があるんです。」

中村:「だから僕はせざるを得なくてそこに来た。好きで来てるわけじゃないんだよ。言っとく。しょうがないんだって。」

川井:「じゃあアーティストだけで、」

中村:「いや、アーティストだけでって言ってる感覚が狭い!アーティストとプロデューサーは違うと思ってる?」

川井:「アーティストやらないとプロデューサーはできないと思ってるけど、プロデューサーだけやってアーティストじゃない人もいると」

中村:「どっちもアーティストもやったっていいじゃない。アーティストがプロデュースやったってプロデューサーがアーティストやったってどっちでもいい。単にその時のチーム間のポジションの違いでしょ。達することの目的でいちいち俺はプロデューサーじゃなきゃやらないとか、アーティストじゃなきゃやらないとか、そういう人いるけど、僕はやらなければならないんだったらやればいいと思ってる。街に入ってきた時には自分の主義主張を言ったってしょうがないわけよ。達する事を達しないと。僕はデザイナーだからデザイン以外やりませんよと言われても困るわけよ。やれる事やればいいじゃない。やれる事をどんどん上達してやれるようになればいいだけなのよ。そこに職業的カテゴライズとか専門性なんて、まったく意味がないわけ。僕から見たら。専門性って何って。そこから線引きするためのものでしかなく、そこを超えたほうが楽しいじゃない。」

川井:「うーん、なるほど。それ面白いです。」

中村:「違う?カメラそっちに向けたっていいんだよ、これから」

川井:「核心に迫ってきましたね。」

中村:「だってアーティストっていうのは自分自身の表現をピュアに思っている人なんです。ピュアって言葉がちょっとかっこつけてるけど、これしかないと思ってることに対しては厳しい人なんですよ。これしかないと。もう一つ言うと、それに対して、さらに自分が何かアクション起こした時に切実じゃなきゃいけない。純粋で切実ってことがもう絶対条件。これに純粋じゃなくて、切実さがまあこういう風にやっといて、傾向と対策でこうやると儲かるからこれでいいよねみたいな、というのと真逆。その2つがあって、全体を考えると、そこから飛び抜けてる人、逸脱している人を僕らはアーティストと言ってる場合が多いんですよ。一般論として。だから純粋であって切実であって逸脱してるっていうこの3つのバランスを批評的に見てください、自分の心に。」

中村:「僕から見ると川井さんは結構純粋。どの領域かっていうとこの領域、今の領域?この領域でよくわからないけど、カメラいっぱい入れて自動で変えられてお金になってるかなってないかわからないのにこんなに振舞っていただいて、もうすごっくピュアですよね。かつ逸脱感からすると、技術的な意味では相当できるじゃないですか。多分憶測でしかないんだけど。うちのスタッフも川井さんがこの機材揃えてますとか、川井さんが基準になってる。切実感でいうとある種の技術的なことも含め、配信するということについては、プロフェッショナルな切実感を持ってる。問題は3つ目なんです。逸脱してるか?世界中のこの業界の中で川井さんは逸脱してるかってこと。それは僕はわからない。」

川井:「逸脱、逸脱ってのは頭一つ飛び抜けてるってことですか?」

中村:「そうそう」

川井:「それは変態度ってこと?」

中村:「変態度でもいいし、100人いたら99人と違った思想を持ってるってこと。」

川井:「そこは難しいですね。」

中村:「そう難しい。そこ、新しいって言い方もするわけ。希少性と言う言い方もする。そこのバランスがアートっていう言葉を言った時のトリックだったり、マジックというか曖昧なとこなのよ。」

川井:僕が育った業界では、広告業界ですが、20歳の頃、ディレクターとかプロデューサーとかアートディレクターってのがいて、なんとなく場を作るとかお金の計算をするとか、段取りをするのがプロデューサーとしているんですね。それはディレクターとかアーティスト志向ではなくその才能はなくてもその業界でものすごく立ち振る舞いが上手なのがプロデューサーになる。僕らの業界の中では、ディレクターが一番アーティストに近いというか、表現と条件の中で一番自分のやりたいものをやるっていう感じです。」

中村:「ぼくらの業界って何ですか?」

川井:「広告業界です。昔いたところで、今はライブ配信業界ですけれども、かつてはディレクターだったんです。」

中村:「ライブ配信業界ってあるんだ!」

川井:「小っちゃいけどあるんです。」

中村:「それいける!今後成長する産業だと思う。」

川井:「僕も一言言わせていただくと、ライブ配信が2010年ごろニコ生だとかUstreamとかうわーっと出てきた時に、テレビをお手本にしたところがあるんですよ。バラエティをお手本にして、みんな並んで、バラエティをを模していくということ。テレビをお手本にすること自体は悪くもないし、テレビ自体が生中継の先輩だからいいんですけど、みんながバラエティを模していくと、だんだんお金のないCS放送みたいのばっかりになってきちゃって、そこに対する不満はずーっとあって、僕はこのスタジオを作った理由もそこにあるんです。本当に面白い話ってのは、飲み屋でまさにスナックみたいなところで、ここで聞いてる話って面白いじゃんと」

中村:「そう、まんまとはまってるもん。俺とか」

川井:「それを作りたいと、それを再現するための環境を作りたいってことで、今できる技術と機材でやりたいことをやる場所を作ったのがこれなんですよね。ここは僕にとっては確かにピュアですね。」

中村:「であれば第一段階は、ピュアであることと切実感をクリアしてるんです。問題は逸脱感ですよ。逸脱感はやっぱり成長していくところで、ピュア度はどちらかというと天然なんですよ。天然というかある種の心意気であって、気概なんで、始めるとこうだって」

川井:「気概ですか。気概というか気合いというか」

中村:「気概ですよ。もうどうしようもないよね、そこは。」

川井:「風邪にかかっちゃったみたいな感じですね」

中村:「かかったらしょうがないし、自分のそもそも流れがそこに宿ってるんだから。でもそういう流れの中でも、切実をクリアしてる人は、逸脱に関して自覚的か非自覚的か、そこがやっぱり大きいですよ。新たな文脈で僕らが教えてるのは自覚的になれということ、歴史を勉強し文脈の流れを理解し、自分の作るものはどこに位置しているのかわかるようにしないといけない、紙に書くっていう行為は何百年前からずっとやってるわけで、何が新しくて何が新しくないかってのは、描かれた絵柄と考え方を見て判断するわけじゃないですか。そこがやっぱりアートという言葉の中に含まれる歴史軸もあれば、流れの豊かさもあるわけです。だからそこに人は感動する余地が多いわけ。でしょ。それは特別に教育を受けてるっていうような立場の人だけではなくて、街で会ってこの人変って思いながら面白いって思った流れの中で絶対あるんですよ。それは誤解してるわけ。さっきからアーティスト、ディレクター、プロデューサーみたいな、これはさっき広告代理店って言ったけど、広告側の大きなバジェットの中でそれぞれの専門的領域を活かしながら、合理的にスピーディーに進めるためにはそれなんだけど、僕らの世界のアート側から言うと、ひとりで全部やらなきゃいけない。プロデュースやってディレクションやって職人もやって、運搬もやって、施工もやって、搬入搬出やって当然DMも事前に作ってて、広報もやって全部ひとりでやるわけだ。」

川井:「イベントディレクターでもあり、施工、現場監督でもありアーティストでもあると。それはアーティストとして普通である?」

中村:「普通なのよ。」

川井:「そうですね。」

中村:「そこで鍛えられてるから、流れで考えると日本のアートシーン、アジアのアートシーンは、今の中国はわからないけど、日本、韓国ともアジア的な流れで行くと、西洋的な憧れを目指してきたけれども、やってみたら意外とその仕組みは大変だぞと、守らなきゃいけないものが多すぎて、自分の自国の文化の良さを守るという仕組みなんですよあれは。美術館を作りそこに保管し、これはいいぞお宝だぞと、我が国の我が民族の、我が立ち位置のところをちゃんと継承していくんだという意味が非常に根深いわけですよ。」

川井:「おっしゃる通りですね。」

中村:「そのために作家は朝から晩まで絵を描いてる。またそのピュアに行ってる人に対してのリスペクトがある。つまりお金を稼いで、会社を作り株で儲けてバンバンあくせく働いていた人たちが、同じ街に朝から晩まで絵を描いて全然お金も関係ないんだけれども、自分たちのエリアの文化をちゃんと形に残してくれる人、絵というかまたは作品として残してくれる人がいれば、このメディアは100年200年もっと続くだろうと、そういうものに対するリスペクト、こんだけやってくれるピュアな人、こんだけ切実にやって時代を塗り替えるようなことをやってる人はうちの街のお宝だぞっていうのがアーティストの存在なんです。」

川井:「定着させる、何か歴史の中に。」

中村:「そう定着させる、歴史の中に。大きな流れの中に。それはだってルネッサンスの頃からすでに流れはあるんだから。ゴッホひとりでるだけで、莫大な国の利益を得てるわけだから。観光収入もあって。」

川井:「スペインのガウディとか」

中村:「それはもう当然ですね。あえて説明する必要もないと思うんだけど。それを見習って日本でもやってきたものの、芸大は130周年やってるけども、その流れがまだぎくしゃくしてるわけですよ。僕はそのぎくしゃくしてる感じは大事だと思っていて、新しいものを作ろうとする想い、何か新しいページを開こうとする人の想いがなければ、当然だけど守ろうとする立場の人も出てこない。日本の場合西洋的なコンテキストと圧倒的に違うのは、地域の中、コミュニティの中でのアートに準じた独創的または何らかの創造的な人が街にいた時に、それを受け止めるリスペクトの仕方が違うわけ。西洋型はトップダウン型のリスペクトの仕方をするわけ。貴族階級が上から守ってくれてるんです。その流れの中で地域市民の人たちが、完全に自分たちのプライドだと思ってくれてる。上からお達しするパワーと、下からくるボトムアップ型が、バランスが取れてるわけ。日本の場合はそれが降ってきた時に、上からくるバランスが、これは素晴らしいものだから守りなさいとか、これは素晴らしいものだから価値がありますオークションでこんな値段が出たから素晴らしいと言われていますよ、というものをカット&ペーストしてるような美術館の成立の仕方をしてしまってるが故に、市民がそれに対して本当に心の底からリスペクトをするというバランスが欠如してるわけです。」

川井:「うーん、みんながいいって言ってるんだからいいんじゃないのみたいな事になっちゃうんですね。」

中村:「そうそう。」

川井:「同調圧力的な」

中村:「同調圧力っていうか。逆なのよバランスが。本来市民から来てるものがあって、」

川井:「真ん中でこう会わなきゃいけないのに、バランスが良くない?」

中村:「バランスが悪いわけよ。そうなると他人事じゃん。他人事になってしまうとどうなるかっていうと、美術館に行けばあるけれども、美術館にないものは美術じゃない。美術ってのは美術館の中にあって収まっているものと、それ以外街の中にあるものは違うと、区切りを持っちゃったわけです。区別しちゃったわけ。ここが悲劇なんです。」

川井:「この悲劇はいつ頃から?」

中村:「もう130年前から。分かりやすい話は、文化人類学の木下直之さんの受け売りですけど、提灯があるじゃないですか。提灯は竹でボリュームを作るじゃないですか、和紙を貼って。この形の作り方と西洋的なコンテキストの彫刻の作り方、つまり心棒を持って粘土でモデリングしてって顔の形を作る」

川井:「真ん中が空であると」

中村:「提灯の人たちと西洋的なコンテキストの彫刻の概念は130年前に区分されたんですよ。簡単に言って。こっち(彫刻)はアートで、提灯は職人だと、アートではないと、美術学校の中で完全に分けられてしまった。となると江戸期から脈々と受け継がれてきたボリュームの作り方は否定されてしまった、美術の中に入らなかったわけです。だってそう思うでしょ。提灯作ってる人はアーティストだと思ってないでしょ。」

中村:「そういう人たちは、美術というアートという流れから違う存在として、はっきり教育として分けられてしまったんです。彫刻という概念は西洋的なコンテキスト中で塊を作っていくという思考の流れであって、ねぶたとかを作るのはアートとは呼ばないわけよ。彫刻とは言いにくいわけ。民芸とかそれに準ずるものになっちゃう。それは文脈の捉え方が違っていて、あれ、なんか講義みたいになってきちゃったね。」

川井:「東京芸大の授業を聞いているみたいですね。ここ司3331の前の道も江戸時代の古道ですよね。わりと古い通りであっちの外堀通りは後からできたんですね。」

中村:「そうですよ。中通りってのもあってその戦略を話すと不動産業界の人たちが怒るからやめる。何れにしても文脈っていうのがあるんですよ。文脈の中でアートっていう概念がどこから来てどこへ行くかっていう時に、ずいぶん区別されちゃっていて、こっちがアートでこっちがアートじゃないよって世の中の人が思い過ぎちゃってるんです。それを今偏見をとってる最中。地域系のアートフェスが増えてきて、美術館から街に出て行って、いろんな批判はあるけれども、でもポジティブな部分もいっぱいある。市民活動もプロフェッショナルな人も試されてるわけですよ。試されてるっていう流れの中で、一体僕らの街にとって僕にとってアートって何よとか、美術って何よとかいう時代が今なんです。ここからもっと先に行くと、この先20年ぐらいの間に変化が起きるんですよ。それはさっき言ったように西洋型のアートから、もう少し日本型、アジア型のアートの価値観に移行してくるんです。評価の基準がそうなってくると思う。いわゆる西洋型のコンテキストの中で美術館という仕組みの中で評価していく、アジア型の評価は街で評価していく。街での評価の基準がだんだん生まれてくるんです。言ってる意味わかります?」

川井:「だいぶ難しくなってきた。」

中村:「まあいいや、酔ってきた。次は」

川井:「焼酎でいいですか?これどうです」

中村:「いいですよ。魔王とかね、懐かしいね。喋りやすいからどんどん喋っちゃうね。」

川井:「今の話で聞きたかったのは、コマンドAとかコマンドNという会社組織がありますよね、MacのOSでコマンドNが新規書類だと、コマンドAは全部を選ぶってことからきてるんですね。ARTS Chiyoda3331にコマンドAがあってコマンドNは錦町にあると。」

中村:「錦町は所在地ですけど3331の中にもあります。」

川井:「いずれもこのエリアに事務所を持たれていると。TRANS ARTS TOKYOも雑居ビルの中にあって、壊される前の東京電機大学があってもう再開発されてしまいましたけど、壊される前のエリアで様々なアートプロジェクトをやったと。ですからこのエリアとの結びつきは強かったですよね。」

中村:「もちろん!それはもう狙っている訳であって、」

川井:「ちょっと氷持ってきますから、ちょっと喋っていていただいてもいいですか?」

中村:「えっ、やだよ」

川井:「ちょっと待ってくださいね。」

中村:「あっ氷取りに行ったんだ。本当に行くんだ!こりゃ大変だー 今氷を取りに行ってます。」

川井:「失礼しましたー」

中村:「編集しないんだ。編集しないからすごいよねー」

川井:「編集しないのがライブ配信ですから!」

中村:「あっそうか!」

川井:「そこは譲れない。編集するんだったら後でいくらでもできますから」

中村:「でも楽しいですよ。頑張ります。心開きます。で何時までやるの?」

川井:「今8時だから、もうそろそろ・・・お尻の時間はいつ頃ですか?」

中村:「もうそろそろ、じゃあ8時半までぐらいでいきましょう。」


<後半へ続く>

インタビュー収録日時:2017年11月30日
インタビュー開催場所:ヒマナイヌスタジオ
テキスト起こし:田附克巳


※本記事は筆者ブログからの転載です。



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