竹遊亭田楽

41歳三児の父。竹と音楽で生きていく。楽しくないことはやらない。

竹遊亭田楽

41歳三児の父。竹と音楽で生きていく。楽しくないことはやらない。

マガジン

  • おっさんバレエ奮闘記

    ひょんなことから42歳でクラシックバレエを始めることになった私。運動神経なし、バランス感覚なし、柔軟性なしのないない尽くしのなか、バレエを生業にすることはできるのか?!

  • 唄工房デンガクズ

    一曲100円で曲作りを請け負うサービス「唄工房デンガクズ」。紆余曲折に満ちるであろう、その歩みを丹念に記録していこうと思う。

  • 40歳父の竹修行奮闘記

    とあるきっかけで、別府で竹細工を2年間学ぶことになった私。39歳三児の父。どんな波乱が待ち受けているのか。竹細工の技能は習得できるのか。不安はつきないが学んでみないことには分からない。 2年間に及ぶ汗と涙の修行の全記録、となるよう、リアルタイムで毎週土曜日更新予定。

  • ふらっと短歌

    シャープではなく、あくまでふらっと立ち寄る居酒屋のような心安さで、日常の機微を五七五七七のリズムとグルーヴに乗せて。

  • 五喜弦ギター

最近の記事

  • 固定された記事

素人と玄人を架橋する「灰人(グレート)」な私

素人と玄人の間の分断は深刻さを増している。 玄人は、素人の無知無能を嗤い、素人の浅はかさを侮り、素人の不真面目さにため息をつく。 素人は、玄人の傲慢さを蔑み、玄人の狭量さを誹り、玄人の優位性に疑いの目を向ける。 なかなかもって嘆かわしい事態である。 本日も竹を割りながら、その分断のもたらす悲劇に思いを馳せむせび泣いていたところ、ある妄念がぽかりと浮かんだ。 素人と玄人を架橋する灰人(グレート)「しろうと」と「くろうと」の間だから「グレート」。竹を割る手元が狂い出血す

    • “結果”としての「老後」を生きる

      ふと思った。 “ある時”まで、食べてきたもの、見てきた景色、嗅いできた香り、聴いてきた音、触れてきたもの、発してきた言葉、会ってきた人、過ごしてきた時間、沸き起こってきた感情、犯してきた失敗、流してきた汗と涙、 それらの“結果”が、「老後」なのではないか。 その“ある時”を境に、“結果”としての「老後」が始まるのではないか。 そしてその“ある時”がいつ来るかは、人によってはそれこそ40代であったり、また人によっては80代であったり、全く異なるのではないか。 “結果”

      • 「ほんとう」はいつも「身体」の方

        「いい」と思ってないことに「いいね」したり 「素敵」と思ってないことに「素敵」とコメントしたり、「美味しい」と思ってないものを「美味しい」と言ったり、「美しい」と思ってないことを「美しい」と言ったり、「好き」でもない人や場所やモノやコトを「好き」と言ったりするの、 本当に誰のためにも何のためにもならないし、むしろいろんな人やモノを傷つけたり損なったりするから、やめた方がいい。 とか書いたところで、 “自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ” とか茨木のり子を引用し

        • 仲良し考

          「みんなと仲良く」なんて誰が言い出したか知らないけど、全く無理な話で、「誰かと仲良くすること」は、とりもなおさず「(他の)誰かと仲良くしないこと」で、「みんなと仲良くすること」はすなわち「誰とも仲良くしないこと」だ。 「仲良くしないこと」は、どちらかというと「仲良くすること」を優先した結果「仲良くできないこと」であって、その仲良くしない人の存在を否定したり、仲良くしない人を排除したり、差別したり、叩き潰したりすることとは違う。全く違う。 「仲良くできないこと」は、人間の身

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        素人と玄人を架橋する「灰人(グレート)」な私

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        • おっさんバレエ奮闘記
          2本
        • 唄工房デンガクズ
          13本
        • 40歳父の竹修行奮闘記
          40本
        • ふらっと短歌
          79本
        • 五喜弦ギター
          9本
        • 俺の音楽変歴
          9本

        記事

          44歳おっさん、初パーマをかける

          ある人々には当たり前のことが、別のある人々には経験として抜け落ちている、ということが往々にしてある。 それは例えば、ゴルフでありスーツ出勤でありパチンコでありキャバクラであり風俗である。ある人々にとっては当たり前のそれらは、私の44年の人生において経験としてごっそり抜け落ちている。なんてこった。それらが当然の人々からすれば「今までどうやって生きてきたんすかマジで」というレベルですらあるだろうけど、実際未経験なものは仕方がない。 その一つが、パーマである。 いや、パーマで

          44歳おっさん、初パーマをかける

          ちゃん付けとハグ

          【ちゃん付けとハグ】 本当は嫌だった。 なんとなく「そういうもんかな」とやり過ごしていたけど、振り返ってみると本当は嫌だった。そういうことがよくある。 「初対面なのに、“ちゃん付け”と“ハグ”が当たり前」みたいな場所があった。 まあ基本はその場のルールやしきたりに従うのが大人としての最低限の振る舞いかなと思い、特にはその場では反応しなかった。 だけど、振り返ってみると、本当は、本当に嫌だった。 何が嫌だったのか。考える。 本来、「ちゃん付け」や「ハグ」は、関係が

          ちゃん付けとハグ

          「独りでもやる人」と一緒にやりたい

          私は「独りでもやる人」と一緒にやりたい。 私は基本的に独りでもやる。独りでやる時間が好きだ。でも独りでは続かないことも知っている。独りの孤独や寂しさに耐え続けられる強い人間でもない。独りがいいけど、独りは嫌だ。 独りの孤独や寂しさに耐えかねて、「独りではやらない人」と一緒にやろうとすると、更なる悲劇が待っている。「独りではやらない人」は「人と一緒でもやらない人」であることが大半で、一緒にやっているはずなのに、独りである時よりもむしろ孤独や寂しさが深まるのだ。 一緒にいる

          「独りでもやる人」と一緒にやりたい

          悔し涙を流れるままに

          「悔し涙」という言葉を知ってはいたけど、それは「地団駄」とか「ふくれっ面」とかと同じくらいの、ある種漫画的な表現でしかないと思ってた。 だがツルトは、悔し涙を流していた。 兵庫県佐用町で開催した竹細工講座に参加したツルト(6歳)は、講座史上最年少にも関わらず講座の時間中(全6日間、合計36時間)一度として手を止めることなく、竹と竹割包丁と自身の身体と真摯に向き合い続け、大人顔負けの成長を遂げた。 竹細工は一筋縄ではいかない。困難にぶち当たるたびに、彼は悔し涙を流した。そ

          悔し涙を流れるままに

          「無料」は何を守るのか

          みんな大好きな「無料」。 特にいつも「お客様」としてしか振る舞わない人たちにとってそれは、揺るぎない「正義」として肯定的に映る。 「無料」ならやります! 「無料」ならもらいます! でもいざ「お客様」を離れてみると、「無料」はなかなかにあやしい。 モノやサービスを提供するために費用や労力がかかっている以上、何か対価をもらわない限り、循環の輪は断ち切られ、持続は不可能となる。その対価としてもっとも分かりやすく便利で一般的なのがご存じおカネである。 その分かりやすくて便利

          「無料」は何を守るのか

          結婚とは、聖域のすり合わせである

          すまない。のっけから引用のふりをした。アリストテレスはそんなこと言ってない。これは私の考えたテーゼである。 結婚生活は、極めて地味な聖域のすり合わせ作業に他ならない。どちらか一方の聖域ばかりを優先していたら結婚生活は早晩破綻する。それはつまり相手方の聖域が常に踏み躙られることを意味するからである。 どんなに価値観の近い二人であったとしても、聖域がピタリと一致するなどということはありえない。なぜなら聖域は生育環境によって大きく異なるからだ。そういう意味では、同じ生育環境で育

          結婚とは、聖域のすり合わせである

          ウソがつけなかったイト

          5歳のイトとトランプでババ抜きをした。 二人でやったから、最後はどちらかにババが残って、ババを引けば続くし、ババ以外を引けば終わる、というサドンデス方式。 イトの方にババが残った。 意地悪な心理戦を仕掛ける私。 「これはババですね?」 イトの2枚のうちの1枚のカードを指先でつまみながら尋ねる。 「…いいえ」 どう見てもウソではない。躊躇の仕方や言葉のトーン、これを5歳が演技でできたら天才だ。 そのカードを引き抜くと案の定ババではない。私の勝利が確定した。 「

          ウソがつけなかったイト

          いっそゴミなら、せめて「マシなゴミ」を

          私は日々ゴミを作っている、という自覚がある。 私は竹細工を生業にしていて、様々なものを竹で作る。ハタから見たら、素敵なモノが作られているように見えているかもしれないし、「ゴミじゃないよ」と思う人もいるかもしれない。 でも率直な実感として、私はゴミを作っている。 なにも私だけではない。 今日も世界中で多くの人々が、気が遠くなるほど膨大な量のゴミを作り出している。 少なくとも私には世界はそのように映っている。 一方でこの世界からは「それはゴミではない」という自己暗示め

          いっそゴミなら、せめて「マシなゴミ」を

          ソックスレス宣言

          さようなら靴下。 今冬、私は靴下に別れを告げた。何かが閾値に達したのか溢れ出たのかわからない。とにかく金輪際、靴下を履かないことにした。 靴下。 その名前からしてそもそも「靴の下に履くもの」という靴への従属感がありありで、それ用のまともな固有名詞すら与えられていない、少し哀れな奴。 Socks。 一方で海外を見渡せば、プレゼント入れたりベースボールのチーム名になってたり、なんだか重宝がられてる感もあったりする。 そんな両価的なあいつ(ら)とお別れすることにした理由

          ソックスレス宣言

          「夢見ガチ」を求めて 〜「ガチ」でなく「ゆるく」もない場を〜

          何かと「ゆるく」と言いたがる人がいる。「ガチ」に疲れたか、「ガチ」に絶望したか、その理由はわからないけど、何かと「ゆるく」と言いたがる。 「ゆるく」取り組めることも確かにあるのかもしれない(あまりイメージできないけど)。 でもどう考えても、どう逆立ちしても「ゆるく」は取り組めないことも多い。 例えば、 「ゆる〜く狩猟をやりたいんです」 とか 「ゆるゆるとヒマラヤ登頂を目指したいんです」 とか 「ゆるく自給自足目指します」 とか 無理。どう考えたって無理。「

          「夢見ガチ」を求めて 〜「ガチ」でなく「ゆるく」もない場を〜

          対ステルスストレス戦線異常あり

          先日、都会から離島へと移住した知り合いが思いがけずこう言った。 人々は日々、ストレスを溜めたり、ストレスを解消したり、ストレスを我慢したりしてる、つもりでいる。つまりストレスを自覚している、という前提で話は進む。 ところがどっこい本当のストレスは内に潜る。意識にすら上らない。自覚なんてもってのほか。その、身体のみが知覚している【ストレス】こそがストレスの本丸で、自覚できてるストレスなんて氷山の一角に過ぎない。そしてその【ストレス】がストレスとして意識の上に前景化するのは、

          対ステルスストレス戦線異常あり

          自由になるために、技術を

          音楽にしても手仕事にしても、自由になるためには技術が必要で、技術がないまま自由に振る舞おうとしても、その自由の範囲が非常に狭いので、結局それは不自由となる。 では技術を身につけるために学べばいい、と簡単に考えてはいけない。 この社会においては、技術を身につけようとすると、既述の技術不足による不自由を遥かに上回る不自由を押し付けられることが圧倒的に多い。 それは大抵以下のような呪詛の言葉を伴う。 「〇〇でないと△△ではない」 「〇〇ができないやつは△△にはなれない」 「

          自由になるために、技術を