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お金を「副産物」として活かす

お金を、おからや米ヌカや酒粕と同じように、「副産物」として活かそう、という提言をこの場を借りて行おうと思う。

先に断っておくが、私はお金があまりない。

本当は「全然ない」と言いたいところだがそう言うと本当に「全然ない人」からお叱りを受けるので、控えめに「あまりない」と書いているが、体感的にはまあ「全然ない」。

どのくらいないかというと、「満タン給油を躊躇い2000円ずつ給油するくらい」であり「一歳の息子が大好きなバナナは躊躇なく売り場で一番安いものを買うくらい」である。

「全然ないなら車には乗れないだろう」「全然ないならバナナなどという嗜好品には手が出ないだろう」とか言い始めたら、この世で誰一人として「全然ない」と言えなくなるので、どうかやめてほしい。

副産物の話だった。

副産物という言葉を調べていて、なかなか趣深い一文に出会った。

主産物との区別は「企業における会計処理の慣習による」とされるが、基本的に、価値が高いほうが主産物、低いほうが副産物である。主産物と副産物の需要の変化により、副産物と主産物が逆転することもある。
副産物の中には、もともと廃棄物だったものもある。その用途が開発され価値が生まれると、廃棄物は副産物となる。(Wikipediaより)

ある日、私の知り合いがそばを振舞ってくれた。彼はおもむろにこう言った。

「私はそば湯を飲むためにそばを茹でる」

ひどくざわついた。

本来遠く離れ結びつきを持たない二者が共振するような、耳心地の悪い音がした。

既視感のある倒錯。

そうだ。

「私はそば湯を飲むためにそばを茹でる」

「私はお金のために仕事をする」

同型的ではないか。

さきほどの記述が頭をよぎる。

主産物と副産物の需要の変化により、副産物と主産物が逆転することもある。

いつのまにか主と副が裏返ったのだ。

「私はおからのために豆乳を作る」

「私は米ヌカのために精米する」

「私は酒粕のために酒を作る」

ふはは、今ならそれもありかもしれない。

どの副産物もかつては様々な用途に活用され重宝され、日本人の栄養面を強固に下支えしていたが、大量生産が当たり前になるとそれらの副産物は廃棄物として捨てられるようになった。

昨今は健康志向の高まりとともにそれらの副産物はその価値を見直されつつあるものの、既述のような価値の転倒は起きていない。

だがお金に関しては明らかに転倒している。

お金を副産物と見なす」という主張は、一見するとお金の価値を絶対化する人たちへのカウンターのように見える。お金なんて大したことないよ、副産物に過ぎないよ、と。

だがそうではない。

副産物の例としておから、米ヌカ、酒粕、そば湯を挙げたことを思い出してほしい。そして私は「副産物に過ぎない」ではなく「副産物として活かす(重宝する)」と書いた。これはむしろ「人生お金じゃないよ」とお金を相対化(しようと)する人たちへのカウンターであり、持続可能なカタチでお金を大事にしたいという思いが込められている。

お金を仕事の副産物として活かす」という提言をした以上、必ず以下の疑問が呈されるだろう。

「じゃあ仕事の主産物はなんなんですか?」

もっともな疑問である。

だがここであえて私は主張したい。

主を空位とするのだ」と。

え、意味がわからない?

「やりがい」「達成感」「自己実現」などという実態のない空疎な言葉でその空位を埋めてかりそめの多幸感に酔いしれるのは嫌だ。

だからと言ってそこに安易に「神様」を持ち出すのも嫌だ。カルヴァンの予定説が喝破した通り神様の意思を構造的に私は知り得ない。

だからあえてそこは空位としたまま、アソビを確保するのだ。

では主産物はアソビなのか。

ここでいう「アソビ」というのは「遊戯」の意味のそれではない。「隙間、空間」という意味の「アソビ」である。

関節が動くためには骨と筋肉だけでは足りない。伸びた状態で「アソビ」が確保されていないと、関節は曲がることができない。でも「アソビ」は部位の名称ではないし、何より「そこに何もないこと」がアソビのアソビ性を担保する

だから主を空位とするのだ。

お金を副産物として重宝することで、お金が主産物になるのを阻止し、主の空位を、つまりアソビを死守する。

これである。

働きアリのうち2割は働かないらしい。その働かない2割を取り除くと、残りの8割のうちの2割が働かなくなるらしい、というエピソードを一億総働く働きアリ社会に生きる日本人たちは揶揄めいたトーンで話す。本当はよく働くアリも同じく2割であるという不都合な事実には触れずに。

そして考えてみるとわかる。

働かないアリ、それもアソビなのである。

アソビがなければ関節も社会も音を立てて軋む。その場しのぎのクレ5-56で誤魔化しても駄目だ。そこをアリたちはよく理解している。頭で考えてはいないだろうけど。

気がつけばアソビの話一色になってしまった。副産物の話だった。

お金がたとえ副産物であったとしても、卯の花やぬか漬けや粕漬けやそば湯を楽しむように、買い物やレジャーやギャンブルを楽しんでいいのである。そこに妙な抑圧を加えたり罪悪感を感じるとのちのちツケが回ってきて、逆に主の座を奪われることにもなりかねない。

ちなみに私は社会のアソビになりたい。

明日はおからを煮ようかな。












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