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だって作り込んだら、記憶にこびり付いてしまうでしょう?

歌を作るときも、文章を書くときも、絵を描くときも、なるべく推敲したり捏ねくり回したり作り込んだりしないようにしている。

作品のクオリティを上げたいなら、「クリエイター」らしくそういった弛まぬ努力が必須だと思うけれど、私にとってはどれも「日記」、いやもっと言えば「健康診断」みたいなもので、その「表現」、つまり「表われ出たもの」の鮮度と偽りのなさが大切なわけで、仕上がった作品の良し悪しはまあどうでもいい。しかしながら褒められたら嬉しい当然ながら。

いや、鮮度とか偽りのなさ、でもないな。

本当はこうだ。なるべく短期間で仕上げたものの方が下手に記憶に残ってなくて、時間が経って見返したときに、本当に自分からそれが生まれたのか訝しいほどに、一番身近で一番遠い「他者」である過去の自分に出会えるのが、その「表現」の醍醐味であると私は考えてるらしい。

とか格好いいことを書いてみたが、よくよく考えるとどうも違う。

これは一種のフェティシズムの問題で、「記録のない記憶」を後生大事に抱き抱えて生きる人が多い中で、私は「記憶のない記録」を偏愛し、しかもそれは、それに触れるたびに起こるザワつきを肴に3週間は旨い酒が飲めるほどである。

だからそれは別に「表現」でなくても、記憶にさえ残っていなければ書類に付けたレ点であってもゲーセンで撮ったプリクラであっても監視カメラに映った映像であっても、同様に3週間酒肴に困らない。

どうやら私は、自身の記憶を「信用のおけないやつ」だと思っているらしい。

他の人はそんなことないのかもしれないが、少なくとも私の場合、記憶は理不尽さや曖昧さを保持することがほぼできない。だから私の記憶は理路整然としていて原因と結果が判然としていて、まあ早い話が胡散臭い。私がその記憶を頼りに、立て板に水のようにぺらぺらと話をしている時はいつも内心、その話の深みとリアリティーの無さに、誰よりも私が辟易し退屈している。

だから、前にも書いたけど、私の「表現」はなるべくその刹那を切り取ったものであった方がいいし、私の状態を映し出している方がよくて、そういう意味でほぼ「排泄」だと言っても差し支えない。

記憶に残ってない他者としての過去の自分に出会うために、今日も私は推敲も作り込みもせずに、私という管を通ったものをなるべく手を加えずに出す。

一種の自慰行為だと言われても反論のしようがないけれど、他者に出会えないつるんとした「表現」なんて、私は興味ない。

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