プロジェクト_-_Drawing_13191787650694107086

陰陽エコーマシーンにならないために

陰陽二極化、服部みれいさんと松村潔先生の本、twitterの陰陽エコーマシーン化、占活部、占い師が占いをつぶやくこと、などについて書きました。

* * *

昨日、台風後の初ヨガに行ってきた。

チャクラのことを調べていたときに、ヨガは単なる健康のためのエクササイズではなくて、身体の陰陽を統合してニュートラルな状態を作るためのものか、と思った。自分はそんなに深いヨギーではないのでヨガとストレッチの差もよくわからないのだけど、とにかく「体の部位が一方向に偏って固まったものを、反対方向へ伸ばすことでニュートラルに戻そうとする行為」と受け取っている。身体の中の陰陽を中和する。

「陰陽」とはプラスとマイナスとか、白と黒とか、高い低い、暑い寒い、清濁、善悪、真偽、好き嫌いなど「ある極端と反対の極端」の二極化された軸を持ったもの。男女という性差も陰陽に例えられたりする。

人間がこの世界に生まれてきたのはこの陰陽のエネルギーを体験するためだけど、同時に陰陽に閉じ込められることでもある。

陰陽が完全に中和されると、もうこの世界にいる必要はなくなって、解脱したり宇宙へ脱出したりする。陰陽にとらわれている間は死んでも転生してこの世界に戻ってくる。

最近二冊の本を続けて読んでいて、服部みれいさんの「わたしと霊性」、松村潔先生の「夢を使って宇宙に飛び出そう」。「わたしと霊性」には陰陽が中和されたところには愛がある、と書かれている。みれいさんは愛についてこのように書いている。 

愛は、わたしは慈悲であるとむしろ思っていた。愛情と愛を混同していたし、場合によっては、気をつかう、もその一部に入っていると思っていた(!)。
無慈悲が愛とはどういうことなのか。
いちばん大元の神のようなものがあるとして、それは、わたしは無であると痛感する。茫漠とした無。しかしこの無にこそ人は、救われて助けられている。わたしたちやこの世もここから創出された。愛の根元は無。

松村先生は世界を立方体で表現することが多い。上と下、前と後、右と左の向かい合う壁同士は陰陽の関係。

対象がないと意識は成立しないというのは、意識は主体と客体に二極化されないと成立しないという意味だ。わたしたちは、前方の壁を見たその瞬間に後ろの壁に投げつけられる。上を見た時は下に。右を見たときは左に投げつけられる。見るという行為そのもので、わたしたちは対象と反対の場所にいる。陰陽の中和の場所に行くには、立方体の中心の場所に居座る必要があるが、そのためにはどこかを見てはいけない。見た瞬間にもう二極化されるからだ。

立方体の中央に行くと、この立方体の世界から脱出できる。

ただ通常我々は、この立方体の中で陰陽の軸により壁に投げつけられている。場合によっては壁から壁へとエコーが跳ね返されまくって立方体の中で残響みたいになってしまうこともあるかもしれない。

最近twitterの中でこんな陰陽エコーみたいなものがずっと続いている、と感じることが多い。例えば献血ポスターみたいな話題は、壁から壁へと跳ね返りずっと残響が残っている、と体感している。

もう一度みれいさんの本より。

もうずっと、この地球は分離の世界が続いていたのだそうだ。
二項対立的な感性でものごとを捉えることが一般的だった。でも、あたらしい世界は、すでに一元的な感性になっていて、統合された世界観があちこちで立ち現れている。わたしはあなたで、あなたがわたしだと、少しずつ人々が気づきはじめている。わたしは世界で、世界はわたしであるし、わたしが神であるし、神はわたしである。

個人的には、この世界が完全に一元的な価値観で動くようにはならない、なぜなら二元論的な価値観を体験するために用意された場所がこの世界だから、と思う。でもそういうのに飽きちゃった人たちが、一元的価値観の方向性を求めるのは感じる(そういうのがアセンション(次元上昇)みたいな考え方を生み出したのかもしれない)。

ここから先は

1,096字 / 1画像

¥ 100