見出し画像

中国で見つけた「100点満点」の人生

【私が中国に住む理由 vol.3】

私(竹内亮)が中国で制作・配信中の、中国に住む日本人を紹介するドキュメンタリー番組「我住在这里的理由」(私がここに住む理由)。このコラムでは、番組で紹介した主人公を、日本人読者向けに再編集して紹介する。

中国で見つけた「100点満点」の人生
武漢市在住 カレー屋経営 嶋田孝治さん(70歳)

日本食と言えば、「寿司」、「味噌汁」、「蕎麦」、「納豆」など、The・和食を思い浮かべる人が多いだろう。海外で生活していると、たまに日本らしい食事が無性に恋しくなることがある。でも、私が一番最初に恋しくなったのは、例に挙げたような「The・和食」ではなかった。私が一番恋しくなったのは、日本のカレーライスだった。

日本人が慣れ親しんでいるいわゆる「カレーライス」は、中国では「日本式カレー」と呼ばれている。この「日本式カレー」を提供している店が、中国には意外と少ない。「丸亀製麺」や「すき家」といった日系チェーン店では食べることができるものの、やはり、たまにはコトコトと煮込まれた、本格的なカレーが食べたくなる。

中国内陸部に位置する湖北省・武漢市に、この「日本式カレー」を営む一人の日本人がいる。名前は島田孝治さん。日本でサラリーマンとして働いていた彼は、退職後中国へとやってきた。今年で8年になるという。

夢のために生きたサラリーマン時代

嶋田さんが日本にいた頃は、飲食業とは無縁の生活を送っていた。東京で大学を出た後、そのまま東京で働いていた。当時の日本は高度経済成長期の真っ只中。皆仕事にすべてを懸け、必死に働いていた。しかし、当時の嶋田さんには、お金を稼ぐことよりも大切にしていた、「世界を見て周りたい」という夢があった。そこで、彼は、東京の仕事を辞めて、地元・福岡に戻り、比較的時間の融通の利く仕事へと転職した。

福岡に戻ってからは、夢の実現のため、仕事の合間を縫って様々な国へ旅行した。数十年の間に、アメリカ、イタリア、フランス、オランダ…全部で30数か国に行ったという。その中に中国も含まれていた。彼が初めて中国を訪れたのは1981年だった。

当時の中国は、改革開放が始まってから間もなく、まだ外国人が自由に旅行できる状況ではなかった。当時の中国は、現地の中国人が使用する「人民元」の他に、外国人用の「兌換元」という紙幣があった。観光客は、兌換元が使える店でしか買い物ができず、中国庶民と同じ店で食事をしたり、買い物をすることが難しかったという。

そう話してくれた嶋田さんの家には、なんと当時彼が買った中国語の教材がまだ残っていた。付録がCDやMP3ではなくカセットテープというところからも時代が感じられる。もちろん教材にも「兌換元」の写真が載っていた。今の中国は、ほとんどの人がアリペイをはじめとする電子マネーを使っている。もちろん、中国に暮らす外国人も同様だ。小さなことではあるが、約30年の中国の変化が感じられた瞬間だった。

ここまで読むと、あたかも嶋田さんは1981年をきっかけに中国が好きになり、中国語を勉強し、定年退職後中国にやってきたように思われるかもしれない。しかし、嶋田さんは中国に住んで8年目になる今もあまり中国語が話せない。それに、彼が中国にやってきたのは、ほんの偶然だった。

嶋田さんの人柄が結んだ武漢との縁

嶋田さんが福岡で働いていた頃、自宅の近くにはたくさんの留学生が住んでいたという。世話好きで、話好きな嶋田さんは、よく彼らの生活の手伝いをしていたという。時間があれば、彼らを買い物に連れて行ったり、福岡のグルメを一緒に食べに行ったりしてた。そんな留学生たちとの交流の中で、一度「中国でカレー屋を開こう」と考えたことがあったそうだ。

2002年、自宅に知り合いの留学生を招き、カレーライスをご馳走したとき、ある中国人留学生が「カレーを初めて食べる」と言ったそうだ。日本では最もポピュラーな家庭料理の一つなのに、食べたことがないなんて、と驚いた嶋田さんは、中国でカレー屋を開けば良いんじゃないかと思いついた。しかし、当時知り合いの日本人は誰もそのアイディアを理解してくれなかった。

それから8年が過ぎた2010年、ある知り合いの中国人留学生が嶋田さんの元を訪れた。彼女は嶋田さんに「卒業したら地元・武漢に帰ってカレー屋を開きたい。嶋田さんにも技術顧問として手伝ってほしい」と頼みに来たのだった。ちょうど2009年に定年を迎えていた嶋田さんは、カレー屋をやりながら、中国語を勉強したり、各地を旅行したりするのも良いなと思い、武漢行きを決めた。これが、嶋田さんと武漢の出会いだった。

結局、その留学生とはカレー屋の経営について、方向性が合わず一緒に店は出さなかった。しかし、嶋田さんはそのまま武漢に残り、カレー屋を開くことにした。

島爺爺のカレー屋さん

嶋田さんのことを周り人たちは“島爺爺(dǎo yé ye)”と呼ぶ。決して「しまじじい」ではない。これは、中国語の「老爺爺(lǎo yé ye)」に嶋田さんの「島(“嶋”は中国語では“島”に統一されている)」を組み合わせた愛称だ。この中国語の「老」には「年老いた」という意味はない。単に年輩の人に尊敬を表す時使われる。しかし、日本人にとっても「老」の字は「年老いた」というイメージが強い。嶋田さん自身も、この「老爺爺」と呼び方が気に入らなかった。そのため、多くの人は発音が似ている「島」の字を「老」の部分にあて、島爺爺と呼ぶようになった。

嶋田さんのカレー屋で提供しているのはカレーだけではない。毎日無料の日本語教室も開講している。 初めの頃は毎日たくさんの生徒がいた。しかし、今はスマホで手軽に日本語が学べるアプリがあふれているせいか、生徒はどんどん減ってしまった。けれども、島田さんは「学びたいという人が一人でもいる限り、続けていきたい」という。言葉は大切だからね、と最近中国語を学び始めた島田さんは笑う。

武漢の人たちとの絆

嶋田さんは中国語がほとんど話せない。そのせいで生活は不便なことばかりだという。それでも、

 「ニ~ハオ!こんにちは~!シェイシェイ!ありがと~う!」
 「は~い、いらっしゃ~い!」

と、人々に声をかけ続ける。その温かい声に惹かれて、カレー屋を訪れる客も少なくない。

カレー屋を開店したばかりの頃は、嶋田さん一人で野菜の仕入れをしていたそうだ。毎日、大きなリュックサックに20㎏もの野菜を詰め込み、店まで持って帰っていたという。「今が頑張り時だ」と、60代の体に鞭を打ちながら、懸命に働いていた。

嶋田さんを取材した時、彼がよく野菜を仕入れていた八百屋のおかみさんと話す機会があった。

彼女は「嶋田さんは一人で中国に来て大変だと思うけど、私たちにとてもよくしてくれるし、素敵な人。とても感謝している。」と話してくれた。彼女の言葉を日本語にして伝えると、嶋田さんは泣き出した。「彼女に感謝の気持ちを伝えたかったが、気持ちが伝わっているのかわからなかった。伝わっているとわかって、とても嬉しかった」と。

嶋田さんは、中国語が話せないが、人々と交流することをやめない。私たちが見た嶋田さんは、いつも笑顔で、多くの人に日本語であいさつをしていた。言葉が話せないことを理由に交流を諦めるのではなく、自分にできる方法で、相手に気持ちを伝えようとする。簡単なことのようで、実際は結構難しいことだ。

嶋田さんの周りにいる中国の人たちは皆笑顔だ。それはきっと、彼の気持ちが伝わっているからだろう。

武漢で見つけた新たな夢

ある日、島田さんを訪ねると自分のお店ではなく、同じ通りの別のお店のキッチンにいた。その店の人に話を聞いてみると、今度自分の店でカレーを出したいから、島田さんにカレーの作り方を教えてもらっているのだと言う。

私は正直驚いた。店の従業員に教えるのと、隣の店の人に教えるのではわけが違う。ライバルを応援しているようなものである。私が「自分でライバル育ててどうするんですか?」と聞くと、「もっともっと中国の人にカレーを作って欲しい、食べて欲しい」という答えが返ってきた。続けて、「日本のカレーが美味しいってわかったら、きっと私の店にも来てくれると思う」と話してくれた。

確かにその通りでもあるが、儲けることを考えたら、競争相手は少ない方が良いし、日本式カレーが珍しいものであるほど嶋田さんの店の価値も上がるはずだ。でも、彼は「儲けるためにカレー屋をやっているわけじゃない」
そうだ。今ある環境でお客さんを大切にする、それが嶋田さんのモットーである。

 嶋田さんは「この通りをカレー通りにするのが私の夢」だと語ってくれた。彼が愛する武漢の人たちとこの夢を叶える日は、そう遠くはないだろう。

私がここに住む理由

嶋田さんに中国に住む理由をたずねた。「やっぱり中国が好きだから」そして「気持ちよく生活できるから」と答えてくれた。

今の武漢の雰囲気は嶋田さんが若かった頃の日本にどこか似ているという。けれども、当時は会社に閉じ込められているような生活で、自由がなかった。しかし、今は違う。自由に外に出て、やりたいことができる。カレー屋を通して、若い人たちと交流することもできる。「100点満点の人生だ」と嶋田さんは言う。

中国にいると、言葉が通じる環境、住み慣れた環境だけが、人を自由にするのではないのだと感じる。不便なことはあっても、不自由ではない。嶋田さんは、そんな自由な武漢の生活が好きなのだろう。

(記事作成 竹内亮 石川優珠)


竹内亮

ドキュメンタリー監督 番組プロデューサー (株)ワノユメ代表

2005年にディレクターデビュー。以来、NHK「長江 天と地の大紀行」「世界遺産」、テレビ東京「未来世紀ジパング」などで、中国関連のドキュメンタリーを作り続ける。2013年、中国人の妻と共に中国·南京市に移住し、番組制作会社ワノユメを設立。2015年、中国最大手の動画サイトで、日本文化を紹介するドキュメンタリー紀行番組「我住在这里的理由」の放送を開始し、2年半で再生回数が3億回を突破。中国最大のSNS・微博(ウェイボー)で「2017年・影響力のある十大旅行番組」に選ばれる。番組を通して日本人と中国人の「庶民の生活」を描き、「面白いリアルな日本・中国」を日中の若い人に伝えていきたいと考えている。