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日米両政府の間で結ばれた沖縄返還協定。
衆議院の特別委員会で審議されていたが、突然自民党議員から審議打ち切りの動議が出され、強行採決された。沖縄から東京へ向かう屋良朝苗主席を乗せた飛行機が羽田空港に着陸する直前のことだった。

屋良主席会見
「全く唖然としている。言葉も出なかった。やるにしても、その過程はみんなが納得する形でやるべきだった」



「核抜き本土並み」といわれながら、基地がそのまま残る返還。建議書には、戦後占領下に置かれた沖縄の実情と、復帰後の沖縄が望む姿が記されていた。
「アメリカは沖縄に極東の自由諸国の防衛という美名の下に、排他的かつ恣意的に膨大な基地を建設してきました。異民族による軍事優先政策の下で、基本的人権すら侵害されてきたことは枚挙にいとまありません」「このたびの返還協定は基地を固定化するものであり、県民の意志が十分に取り入れられていない」「政府ならびに国会はこの沖縄県民の最終的な建議に謙虚に耳を傾けて、
県民の中にある不満、不安、疑惑、意見、要求等を十分にくみ取ってもらいたいと思います」

衆議院 特別委員会での強行採決 「恥を知れ!」

しかし、政府と国会が、沖縄の民意に応えることはなかった。
幻の建議書といわれるゆえんである。

国会周辺だけでなく、東京には怒りの声がうずまいた。

亀次郎と女子学生
「頑張って下さい。岐阜から来たんです」

抗議に訪れた若い女性が激励に歩み寄ったこの人物。


「今日の日は民族に対する屈辱を与えた日。沖縄県民をふくむ日本国民の目から消すことの出来ない汚辱に満ちた、屈辱の歴史の1ページを更に作り上げた」


翌日の委員会で質問に立つはずだったこの人が瀬長亀次郎。復帰を前に、戦後沖縄から初めて選出された国会議員の一人だ。


戦後占領下の沖縄で、アメリカ軍の圧政に敢然と立ち向かい、復帰へ向けて民衆をリードした人物。演説会を開けば毎回何万もの人を集め、熱狂させた。


知名定男さん
「亀次郎さんが演説するところはいつも満杯。おじいもおばあも亀次郎の話を聞いてこようとでかけたもんです」

作詞・作曲家の知名定男さん。沖縄民謡の大御所である。
瀬長亀次郎の存在感をこう語る。

「亀次郎といったほうが抵抗がない。亀次郎はすごいよって。よびすて。それだけ愛されてた。」

亀次郎
「布令にも勝る裸の略奪立法である」

復帰後も沖縄の人びとの土地が返されないことを厳しく批判。

占領下に、労働者の権利を主張し、土地を守り、祖国復帰を叫んだ。
手を焼いたアメリカ軍は、その影響力を封じるために、逮捕し投獄、その後 当選した那覇市長の座から追放するなど徹底的に弾圧した。しかし、市民は亀次郎に絶大な信頼を寄せていた。

この青い海の先で進む護岸工事。この場所に新たに滑走路が建設されることが決まった2005年。大きな混乱を目の当たりにした知名さんの心に浮かんだのは、亀次郎だった。その思いは、こんな歌になっていた。

ネーネーズ
♪うんじゅが情きさ 命どぅ宝さ
我した思いゆ 届きてぃたぼり
それは、昔、昔、その昔、
えらいえらい人がいて、
島のため、人のため、尽くした
あなたならどうする
海の向こう、おしえてよ亀次郎

知名さん
「辺野古の基地の前を通る。基地反対運動の人が手を振る。がんばろうと。あんたも頼むよ、みたいな感じで。そこを車で通るときによぎった。手弁当で、郷土愛をむき出しにして座り込んでる。この人たちに報いるためにどうしたらと思ったら、亀次郎がぽっと出てくる」
Q:「降りてきた?」
「きますね。そしたら、あんた教えてよと、いう気分になる。あんたならどうしましたかと」

そして、北部の山の中に身を置いた。

「気になるところで車を止めてたたずんでると、歌を感じる。そういう自然から生まれる。海を赤土で染めるのはよくない。山を切り開いて基地を拡張するのもいかがなものかという問いかけも含め、僕の思いが込められている」

ネーネーズ
♪それは、海が、赤く泣いている 
自然をこわす人がいる
約束は守らず そっぽむく
あなたならどうする
愛と涙 おしえてよ亀次郎
    
知名さん
「亀次郎の存在、沖縄への愛を感じてほしい。そのためにどうしますか、あなたたちは」

それは亀次郎への問いかけと同時に、
現代を生きる人間につきつけたものでもあった。

(CM)

フミさん100歳の敬老の日
「おめでとうございます」

2010年9月。当時那覇市長だった沖縄県の翁長知事が100歳の祝福に訪れたのは、瀬長フミさん。

「沖縄が生んだ超一級の素晴らしい政治家の奥様として・・・」

占領下でアメリカ軍の弾圧にも闘い続けた瀬長亀次郎の妻である。

若いころの家族写真

戦前の治安維持法などにより投獄された過去から、
亀次郎を刑務所から出てきた人、思想犯などと
フミさんの親戚など周囲は結婚に反対していたという。
しかし、フミさんの心は揺るがなかった。

亀次郎の次女・千尋さん
「何かをなす人、意志が強くて将来何かをちゃんとやる人。この人と一緒になりたいということで一緒になったのだから、見抜いていたんでしょうね」


その目は間違っていなかった。
暗黒時代と呼ばれた占領下、亀次郎は、人びとにとって希望だった。

千尋さん
「みんなは米軍にいえないけど、自分が代弁しているところがある。みんながたくさん聞きに来るのは、自分達の思いを亀次郎が言うから聞きに来るんであって、そうでなかったら支持されないと」

亀次郎と民衆が一体となることを恐れるアメリカ軍は、
亀次郎の演説を聴いたとわかれば、基地従業員を解雇していった。

千尋さん
「軍雇用員は木の上や暗闇に隠れて聴いていた。それでも写真を撮られて翌日にパスを取り上げられてクビだったという人がたくさんいたと聞く。それほど弾圧されても聞きに行ったというのは、胸のすくような演説を聴きたいと思ったと思う」

亀次郎が逮捕された時の記事

市民への影響力を削ごうと、アメリカ軍は、ついに亀次郎を逮捕。懲役2年の判決が言い渡された法廷で不安そうな表情を浮かべるのはフミさんだ。

不安そうな表情を浮かべるフミさん


収監直後の沖縄刑務所では、待遇改善を求める受刑者が暴れだした。

のちに事件を振り返る亀次郎の肉声が残されている。

「暴動事件というが、暴動でなく、過酷な圧政に対するひとつの抵抗であり、刑務官の一部の暴行に対する抗議だ。如何なる権力のもとでも、それを言うだけの勇気は教訓としてもつべきだ」

その存在自体が受刑者を元気づけたと考えた当局は、亀次郎を宮古島の刑務所に隔離する。他の受刑者ともまったく接触させない、孤独な拘禁生活。その孤独感を克服させたのは、フミさんからの便りだった。

獄中日記(1955年02月14日)

「9時ごろ文からの手紙を渡された。文の手紙は日記体になっていて要を得ている。僕の逮捕投獄以来、こちらの世話、気苦労、党の同志たちとの相談やつき合い、犠牲者家族に対する世話など大変だろう。想像に絶するものがあるだろうが、あと19ヶ月だ、頑張れよ文。5回もよみかえしよんだ。あきないものだ。拘禁者心理も手伝っていようが、たんたんなる文章の中にあるだけの愛情を流し込んである。それがよむごとに、にぢみ出て来るのだから何回よんでも新しい感情が迫って読みつづけさせるのである」


千尋さん
「さびしかったと思うが、そのころに手紙が来て、とても喜んで。ラブレター的なものですね」

その後のフミさんの手紙には。
「ご忠告承知致しました。私は別に負担過重とは思っておりません。張り切って党再建のためにやっております。」「色々出来事をくわしく報告出来ないのは、私達の手紙を基礎に色々な弾圧や圧迫や妨害がなさらんとも限らないという気遣いからです。演説会には例の通りCIC(米陸軍対敵諜報隊)や私服が一杯後方に入り込んでいる状態です。」


出獄した後、二人はさらに支えあった。

日記(1956年10月30日)
「5時起床、センタク。――文は助かっているようだ。よごれものは一物も残さずザブザブ毎朝やっているのだから。又、彼女は店が忙しいので洗濯物を押し付けるには気の毒である。もちろんそんな同情からきているのではなしに、自然におきるのだから手持ち無沙汰だから片っ端から洗っているのである。感謝しなくてもよろしい」


千尋さん
「私が一番尊敬するのは男女平等の精神をもっていたところ。掃除、洗濯は率先してやっていた。大きな金盥に入れて、洗剤がもったいないから、おーい、もっと洗濯物ないかー?とよばれたのを覚えている。シーツを足で踏んで。」

50年以上前に訴えていた「女性が輝く社会」。
逮捕される前の立法院議員時代、亀次郎は女性の権利獲得にも奔走していた。
自ら発議した労働法の審議で、男女平等の待遇を求めた。

@立法院議場
亀次郎「婦人労働者が弱い立場に置かれている」
質問者「産前・産後の有給休暇2ヶ月とあるが、余りに長い」
亀次郎「とくに占領下の苦しい家庭生活の中で婦人は苦しい生活を強いられています。産前産後2か月はそんなに長いとは思いません」
質問者「男にそんな休暇はない。男女平等ではない」
亀次郎「子供はおっかさんが生むものでして、父親は生まないことになっています。産前産後の有給休暇はもう近代国家の常識になっています」

亀次郎が那覇市長を追放され、被選挙権も奪われている間、フミさんは周囲に推され、那覇市議となった。フミさんにとって、亀次郎は政治の友であり、師でもあった。

日記(1960年10月25日)

「フミどうかと思ったが案外落ち着いて原稿も見ないでうまくこなしている。早口はなおさなければならない。憲法の条項など取り入れて説明するあたり、特によろし。なおしてもらいたいこともあるが、初めての演説だ。まず合格点」


演説が得意な亀次郎の指導で、フミさんは、亀次郎がいない間の市民の声の受け皿になっていた。

(CM)

亀次郎の自宅は、自らが収監された刑務所の隣にあった。
「マチヤグヮー」とよばれる小さな雑貨店でもあった。

千尋さん
「12年間ここは店だった。母が議員に当選するまでの。いろんな人が生活相談に来る場でもあったし」

店番をする亀次郎


那覇市長を追放されてからは、亀次郎も店番をした。「マチヤグヮー」は、多くの市民とかかわる、いわば窓口になっていた。

千尋さん
「亀次郎さんのお店はタバコも一本ずつ売るとか、チューインガムも一枚ずつ売るとか、今でも有名です」

千尋さん 
「塀と道はこれくらいでしたよ」

ここは、かつて父・亀次郎が収監された刑務所があった場所だ。

「この辺までが農園で。野菜を植えていた。放射状に囚人の部屋があって。この囚人たちが出獄して来るでしょ。一番先に来るのがうちのお店。亀次郎さんにお世話になりました、同じ釜の飯をくっていましたって、あのとき、暴動事件のとき、逃げたらだめだよ、罪がもっと重くなると説得されて、だからいま、出てこられましたって」


いま、子どもたちの声が響く公園になったかつての沖縄刑務所。
その跡地を新たな姿に変えたのは、那覇市議としてのフミさんの仕事だった。

そんなフミさんが夫・亀次郎を語っていた。
「瀬長はほとんど物に動じない人です。住民や労働者の要求をアメリカ占領軍にかけ合うとき、一歩も後にひかなかったとか―。那覇市長時代、米軍と保守派からありとあらゆる妨害、いやがらせを受けながらも、これを泰然とはね返していた姿も忘れられない一コマです。こんな彼でも、自分は貧乏していても人一倍困っている人のことを考え、持っているものをみんな与えてしまうたちです。欲がないからいつでも貧乏でいます」

すべては持たざる人のために。常に民衆と歩み続けた瀬長亀次郎は、苦難のときが止まることのない沖縄で、いまも人びとが教えを乞いつづける人物である。

●ネーネーズ
♪平和を愛する ウチナーと
闘う拠点の基地がある
手を合わせる親祖父がいるのに
あなたならどうする
となりあわせを おしえてよ亀次郎