写真と手紙00000000

死を覚悟 日本兵の思いとは・・・“最後の手紙”を高校生に


ダイビングの聖地・パラオ・・・残された零戦のナゾ・吉田大祐さんとの出会い


「ヨシダという名前の人が乗っていたことが分かりました」

きっかけは2012年、戦史を研究している方から寄せられた情報でした。パラオの人里離れた丘に、撃墜された日本の戦闘機「零戦」が手つかずのまま今も残されているというのです。さらに、誰が乗っていたのか、何十年も分かっていなかったものの、その手がかりが得られたということでした。

「ヨシダ」という名前を覚えていたのは、零戦が墜落した村の酋長でした。さらに、パイロットはその場で亡くなったので、零戦の傍に埋葬したという情報でした。供養されないまま何十年も放置されている「ヨシダ」さん・・・遺族をなんとか探し出せないものかとリサーチを開始しました。これが吉田大祐さんと出会うきっかけとなったのです。

東京・目黒には防衛省の防衛研究所という、太平洋戦争中の貴重な資料を保管した場所があります。そこにはどの隊がいつ出撃し、その戦果がどうであったかを記録した資料も残っていました。パラオでの出撃記録を参照したところ、吉田という人物は一人しかいませんでした。第261海軍航空隊の吉田久光さんです。1944年の3月31日のパラオ大空襲で出撃して命を落としていました。また、佐世保鎮守府の所属であることも分かり、厚生労働省や長崎県を通じて、実家の長崎県・島原市の方々にも連絡をとることが出来ました。

吉田久光さんの実家を訪ねた私たちを出迎えてくれたのは甥の助継さんらご遺族でした。仏間にはまだ久光さんの写真が飾られていました。ご遺族によりますと、久光さんについて残されている話はこんなものでした。1943年の年末、久光さんは突然飛行服・飛行帽姿で帰省し、村の家々を一軒一軒回って挨拶して回ったそうです。しかし、大晦日の夜に久光さんは別れも言わず人知れずふるさとをあとにし、翌年、「南洋諸島にて戦死」という知らせだけが届いていたといいます。遺骨も遺品も戻らず、最後の様子も分からないままとなっていたといいます。

「太平洋戦争で何百万と亡くなり、最後の様子も分からない人が多数いる中で、判明すると言うことが逆に奇跡のようで、本当にありがたい」と甥の助継さんたちは、久光さんの最後を現地で確かめ、できれば遺骨を見つけてとむらってあげたいとパラオへと向かったのでした。

そして、この時の旅に一緒に同行していたのが、助継さんの息子で大学生になる当時21歳の吉田大祐さんでした。

(2012年取材)


大祐さんと7年ぶりの再会

パラオへの慰霊の旅の密着から7年。久しぶりに会った吉田大祐さんは埼玉の県立高校で、高校三年生の担任を務める日本史の教師になっていました。歴史という過去の話をいかに生徒たちに興味を持って聞いてもらえばいいか、そのため授業の最初は必ず身近な話から入ったり、プロジェクターを駆使したり、討論の場を設けたりと工夫を日常的にしているとのことでした。

ただ、戦争というテーマについては非常に語りにくさを感じるといいます。「何かを表現すればそれが右であったり左であったりする人たちにやり玉にあげられてしまったりしてしゃべりづらい時代になっていると感じる」と吉田さんは話します。それでも、2000年よりもあとに生まれた生徒たちは、祖父母も戦後生まれの世代になってきていて、戦争はより遠い存在になってきてしまっていることに危機感を感じてきました。


吉田大祐さんが“最後の手紙”の活動をしようと思った経緯

吉田さん自身は、たまたま“零戦で死んだ大叔父”という存在が、戦争のことを考えるきっかけを与えてくれたといいます。

「飛行兵として初陣する叔父の喜びを察してくれ。オレのことは何もかも忘れてくれ」

大叔父が姪にあてて残した手紙は、死を覚悟していることがうかがい知れますが、吉田さんは大叔父さんの本音はどうだったのかを知りたいと思い、当時パラオに向かったといいます。

そして、実際に目の当たりにした零戦。地元の人の話では、零戦は燃えながらも胴体着陸していたといいます。「きっと最後の最後まで生きようとしたのだろう」と吉田さんは感じたといいます。そうして初めて自分となんら変わらない若者が戦争に行ったことに思いを馳せることができたといいます。

いま教師となった自分が、生徒たちにも自分事として戦争のことを考えて貰うにはどうしたら良いか・・・思い出したのがあの手紙でした。「手紙といのはどういう条件であれ大切な人への感情や内面の吐露であって、実際に書いてみることで生徒たちも感情面で共感をもてる部分も出てくるのではないか」こう考えた吉田さんは、生徒たちにも「最後の手紙」の活動を試みることにしたのでした。


“最後の手紙”の活動

「見守ってくれた人への最後に何を書くかというテーマ」は、生徒たちにとっては恥ずかしくも感じる内容でした。それでも今回、生徒たちはとても素直に思いを綴ってくれていました。

『お母さんたくさん愛をありがとう』『父へ 迷惑しかかけてなくてごめんなさい。父の期待を裏切り続けてきたことは反省しています。でも、父親の子として生まれてほんとによかったと思っています。このやりとりが最後だとしたら手紙より面と向かって感謝を言いたいです』その後、吉田さんは零戦で死んだ大叔父さんのエピソードについて語りましたが、そのコトバに耳を傾ける生徒たちの表情はとても真剣なものに変わっていました。

いまや、終戦の日がいつかさえ答えられないような若者が出てきている時代です。戦争の記憶を若者に共有して貰うにはどうしたらいいか?今回吉田さんが試みたアプローチでも共感をもってもらうことが一つの鍵だったと思います。いかに戦争の記憶をシェアしてもらうかがこれからの時代に問われているのだと感じます。


TBSテレビ報道局 社会部 松井智史