核兵器をめぐる深い溝 ~抑止と廃絶との間…

●核保有国の駐在大使“異例の欠席”
●開発、投下、撮影した科学者と被爆者の対話 ※ノーカット初公開
●日本が果たすべき役割は

TBSテレビ報道局 外信部デスク 萩原豊


■ノーベル平和賞授賞式と核保有国

核兵器禁止条約の採択に貢献したなどとして、国際NGO=ICAN「核兵器廃絶国際キャンペーン」に、ノルウェーのオスロで、ノーベル平和賞が授与された。ICANには世界468団体が参加しているというが、スイス・ジュネーブの本部は、とても小さなオフィスで、働いている常勤スタッフは、わずか4人だという。


このNGOが果たした役割は、極めて大きい。2009年、アメリカのオバマ大統領(当時)がプラハで「核なき世界」を呼びかけたにも関わらず、米露の核軍縮に向けた動きは遅々として進んでいない。こうした状況を打破しようと、若者たちが運動を続けたことが、核兵器禁止条約の採択にまでつながった。採択の会議では、国連加盟の193カ国中、124カ国が出席し、122カ国が賛成した。日本は、核保有国とともに、ボイコットしている。


「今この瞬間も、世界中で罪のない子どもたちが核兵器の脅威にさらされています。核兵器は必要悪ではありません、究極の悪なのです」


受賞したICANとともに活動してきた被爆者、サーロー節子さんは、演説で「核なき世界」の実現を強く訴えた。その時の会場の空気について、現地で取材したTBS豊島記者は、こうレポートしている。「それまで祝いの雰囲気が漂っていた会場ですが、演説で空気が一変し、参列した人が身動きをやめました。涙を流している人も見えました。演説後の長い拍手は、被爆者たちの長年の思いが届いた瞬間だったと思います」。

授賞式は、核兵器がもたらす惨禍と核廃絶の必要性を世界に伝えることとなった。ところが、この授賞式に、核保有国5大国、米露英仏中の駐ノルウェー大使が欠席した。条約を巡る対立が、平和賞の式典にまで持ち込まれるという“異例の事態”と言える。


ただ、この対立は、核兵器をめぐって、これまで長く続いてきた、核抑止論核廃絶論の間にある深い溝を反映している。少し長いが、ある対話を振り返りたい。

■核を開発、投下、撮影した科学者と被爆者の初対話

「広島に行ってみませんか。いや、あなたは、広島を見るべきだと私は思う」
気分を害することも覚悟して、インタビューの最後に提案した。驚いたように、博士は、妻の顔をのぞき込んだ。

その日、カリフォルニア州の郊外にある、博士の自宅をカメラクルーとともに訪ねていた。高台に立つ瀟洒な一軒家。広いテラスからは、海が一望でき、春先の心地よい風が吹いていた。

博士の名は、ハロルド・アグニューという。八十五歳。第二次世界大戦中、アメリカの原爆開発のプロジェクト=マンハッタン計画に参加した科学者である。大柄な体格だが、少々丸くなった背中は、さすがに年齢を感じさせた。逆に小柄で華奢な印象の妻と二人で、その家に暮らしていた。

ハロルド・アグニュー氏


取材の目的は、原爆投下に至る歴史的プロセスを、可能な限り、当事者の証言を集め検証することだった。計画に参加した科学者の多くは、すでに死亡していた。彼は、2005年当時、健在で、取材に応えてくれた数少ない科学者の一人だった。

博士が、ロスアラモス研究所に動員されたのは一九四三年、彼が、まだ二十一歳の若き時であった。ロスアラモスでの生活やプロジェクトの進行など、詳細をインタビューするなかで、突然、博士から思わぬことを告げられた。


 「私は、広島の原爆投下に同行して、映像も撮影したんですよ」


少々自慢げに、博士は話した。彼は、科学調査班の一員として、エノラゲイに続く観測機に搭乗していた。そして、世界に唯一残る原爆投下の映像、つまり、私たちが、ニュースやドキュメンタリーで繰り返して見ている、あの映像を撮影していたのだ。

さらに、リビングの書棚から、取り出して見せてくれたのは、機長のティベッツ大佐ら、エノラゲイの乗組員と一緒に映る写真だった。

「この写真は、『明日出発するぞ』と言われているところの写真だ。これが、パイロットのティベッツ、これが私。これは、アルヴェレス、スウェニー、私たちの飛行機のパイロット。これが、パーソンズ提督、爆弾を乗せた飛行機に乗っていた男だ」「これが、私たちが乗ったグレート・アーティストだ。私はスウィーニーと一緒に広島まで飛んだのだ」

つまり、彼は、原爆を「開発」し、「投下」し、「撮影」した男、ということになる。しかも、博士は、戦後、ロスアラモス研究所に戻り、再び、核兵器開発に取り組む。一九七〇年には、研究所の所長に就任。冷戦時代の核開発競争時代に、アメリカ政府・軍に、絶大な影響力を持っていた重要人物だった。妻との出会いも、ロスアラモス研究所だったという。聞けば、妻は、原爆開発の第一人者、あのオッペンハイマー博士の秘書だったという。つまり、アグニュー夫妻は、まさに、“核兵器の歴史”を背負った夫婦だった。

インタビューを終えた後、私は冒頭のように、広島訪問を提案した。
「行きたいと思うこともないし、行く必要もないね。ドレスデンやベルリンにも行ったことがない。興味がないよ」。にべもなく、博士は答えた。

だが、核の歴史を背負った博士だからこそ、広島を見て欲しい。そう強く思った私は、その場で説得を重ねた。広島の現在、平和記念資料館の内容など、彼が少しでも、来日に関心を持ちそうなことを、丁寧に、そして、かなり熱く説明した。さらに、こんなアイディアも持ちかけた。

「もしよかったら、被爆者の方とお会いになりませんか」

「いいや。ドイツ人にも、イタリア人にも、そのほかの人たちにも会うつもりは無い。なぜ、会うのか。当時、彼らは敵だった。今は敵ではないし、それでいい。彼らは幸運にもまだ生きている。私も幸運にも生きている。それでいいではないか。なぜ、会う必要があるのか」。

ただ、少し考えてみる、という言葉もあった。ほんの少しの可能性を期待して、自宅を後にした。

「今日みたいに澄みきった日だったよ。まったく今日みたいに。六十年前も、空は、澄みきっていた」

日本に帰国した後、交渉を重ねた結果、夫妻での来日が実現した。広島空港へと向かう機内の窓から、晴れ渡った空を眺めながら、博士は、六十年前の朝と重ね合わせていた。

広島型原爆を搭載したエノラゲイ。その後を、博士が乗った観測機が追ったという。当時、まだ若かった博士にとって、戦地への任務は、これが初めてだった。「あの時は、こんなに高くは飛べなかった。約3万フィート、最高でもそれくらい。しかし、その高さを飛ぶのも危険だったんだよ。とても怖かった」。

日本の空軍や陸軍が攻撃してくるのではないか、そうした恐怖心で怯えていたという。そして、原爆開発者としての不安。

「原爆が爆発するかどうか、不安だった。全くわからなかった。唯一の、しかも初めてだったから。そして、爆発したあと、飛行機に乗っている私たちに、何が起きるのかも心配だった」

計り知れない原爆の威力によって、自分たちも、吹き飛ばされるのではないか、という不安だった。爆発の瞬間について訊ねた。

「爆発したということが、実際にわかったのですか?」。
「爆発したんだよ。白い光が…」。彼は、噛みしめるように、回想する。
「小さな窓からでも、機内全体が白い光に包まれた。それから爆風の波に打たれた。さらに、もう一度、波に打たれた。考えれば、それは、爆風が地面に反射したからだろう」

つまり二度、機体が大きく揺れたという。

「爆発した瞬間、私は、ノートに『本当に爆発した』とだけ書いたのを覚えているよ。それから、アメリカの家に無事帰れるだろうかと思った。それだけが心配だった」。

「きのこ雲を、今も覚えていますか?」。
「ああ。ただ、爆発直後、私たちは、まだ計器を操作していたから、直後の雲を見ることはできなかった。反転して離れる時になって、初めて見ることができたんだよ。そのとき、私は、映像を撮影した。雲を見ることはできた。しかし、地上は何も見えなかった。全てが灰色のホコリに覆われていたんだよ」。

博士は広島で、目標となった相生橋や平和記念資料館を見学。
その翌日の朝、原爆ドームの、元安川を挟んで向かいの公園で、二人の被曝者が待っていた。一人は、中学1年のとき校庭で被爆した西野稔さん(七十三歳)。もう一人が、路面電車の運転をしていた時に、市内中心部で被曝した藤井照子さん(七十七歳)の二人である。博士の広島訪問について伝えたところ、二人の希望と博士の同意によって、対話が実現することとなった。

原爆を開発、投下し、キノコ雲を撮影した科学者と、その下で惨劇を経験した被曝者が、六十年という長き歳月を経て、初めて向き合った。

三人に笑顔はなかった。儀礼的に握手を終えた。
対話は静かに始まった…。博士の目は、しっかりと二人を見据えていた。その態度は、極めて紳士的だった。

まず、西野さんが、自らの被曝経験を説明した。

「私は、一九四五年八月六日、広島で、原爆投下で被爆しました。当時十三歳です。中学校の一年生です。学校の校庭で、直接被爆して、顔と喉、胸、腕を火傷しました。爆発した瞬間は、気絶して、地面に倒れていました。起き上がってみると、あたりは、全部、建物が倒れていました。それで、逃げる途中には、たくさんの人が亡くなっていました。

それは、話せば長いです。自分は帰って、三日目くらいに原爆の急性症で、放射能の急性症というんですかね、もう亡くなる寸前でした。でも奇跡的に治りました」。

博士が、簡単に一言添えると、西野さんは、突然、この対話に臨む心情を口にした。「アグニューさんが今ね、六十年経って、ここにおいでになることに、自分が冷静でいられるかどうか、さっきまでは、わかりませんでした」

「おお」。通訳を聞き終えると、博士は驚いたように、首を横に振った。

西野さんが続ける。「自分で感情をコントロールする自信はありませんでした。でも、穏やかな姿を拝見して、今は落ち着いております」。

「おお、OK」。博士は苦笑しながら、安堵の表情を浮かべた。

次に、藤井さんが、路面電車の運転をしていたときの被爆体験を語った。

「私は、電車を発進しようと思って、一ノッチ、四ノッチまであるんですけど、一ノッチを入れた瞬間に、西から青白い光がピカーっと私の前を横切って通ったんです」「あたりを見回しましたら、もう家屋も、大きな柳の木も、街路路も倒れとるし、根こそぎ。何て酷い爆弾なのかと」。

そして、あのキノコ雲。

「そのころ、上空には、キノコ雲がね、ブワーッと立っていて、それから雨が降っていましたね。パラパラと。まあ、とにかく、駅前は泣き叫ぶ人、半狂乱になって、ここは、今まで電車に並んでいた人も、どこかわからなくなってね、『ここはどこですか、どこですか』って私にしがみついて、おばさんが泣くんですよ。だけど、私はしっかりしなくてはと思って、『おばさんしっかりしてください。ここは広島駅前ですよ』というのが精一杯で。しっかりしてください、といいながらも、私も泣いていました」。

博士は、じっと聞いていた。惨劇の一端を理解できたのだろうか。
藤井さんは、博士に、こんな質問を投げかけた。

「キノコ雲の下で、市民が、本当に、地獄絵さながらに…、泣き叫び、右往左往している姿を想像されましたでしょうか?見られたでしょうか」

だが、博士は冷たい表情で応える。

「いいえ。しかし、東京が空襲で焼けた写真は見ました。同じことですよ。東京のほうが、時間がかかっただけで、同じことです。誰かを非難したいのであれば、日本の軍隊を非難するべきです」。

この言葉に、西野さんが反応する。

「被爆者にとっては、原爆というのは、今まで人類が作ったことのない、大量破壊虐殺兵器なんです。それは、アグニューさん自身、科学者として、ご存知だと思うんです」。

しかし、博士は反論する。

「全て、酷いことですよ。私は当時、ピッチャーで、キャッチャーは、ハワード・エリクソンという男でした。彼は、徴兵され、日本で戦死しました。全て酷いことです。私にとっては、銃弾で死のうと、爆薬で死のうと、原爆で死のうと、普通の銃弾で死のうと、死ぬときは死ぬんですよ。酷いことなんです。あなた方は、ある意味、生き残ったから幸せです。生き残らなかった人も大勢いるんですから。私たちの側でも、あなた方の側でも」。


“あなた方は幸せだ”

惨劇の記憶を語った直後にも関わらず、博士のこうした言葉に、西野さんと藤井さんは、落胆の表情を浮かべた。西野さんは、自らが伝えたいことを語り始めた。

「私が申し上げたいのは、きのう、ご覧になられたかもわかりませんが、そこに、原爆慰霊碑というのがあります。そこに書いてある、碑に書いてある文字、『安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから』と書いてあります。戦争はですね、人間の一番愚かな争いです。何千年も戦争が繰り返されております。その今までの戦争の中で、核兵器が一番人類にとって、地球にとって、大変な災いをもたらす兵器だということを知ったわけです。日本も、もちろん過ちを犯し、いろんな国が過ちを犯しながら戦争をしていますが、私たちは、核兵器がどんな兵器かということを、自分の身体で知っています」。


さらに、訴えかける。


「核兵器を使うということは、地球の破壊につながります。だから、過ちを繰り返しませぬ、ということは、日本はもちろん、核兵器を使った国々も、お互い過ちは、もう二度と、こういう過ちはしたらいけないという気持ちで作った碑なんです。これは、日本だけでなく、世界中の方、過ちを犯したドイツ、戦勝国も、破れた国も全部含めて、人類に対して二度とこういうことをしないという約束の為に作った碑なんです。ですから、核兵器はですね、お作りになった方が一番わかっています。放射能障害というのは、今でもまだ、被爆者を殺し続けているのです。私たちの子供、孫、その代まで、まだ核兵器の影響は続く可能性があります。これが全世界で使われてしまうと、人類は滅びてしまいます。それを私たちは訴えたいためにですね、こういう碑を作っています。もちろん、アメリカだけを責めているわけじゃないです」。

身をもって体験した核兵器の罪を、博士に認めてほしいという思いだった。
だが、博士は、認めるどころか、強く反論した。

「こういった恐ろしい武器の存在が、逆に大きな戦争を防止する可能性もあります。なぜなら、歴史上初めて戦争を勃発させる人々、つまりリーダー達が若者と同じリスクを負うからです。昔は、リーダー達が、彼らを戦争に送り出しましたが、もはやリーダー達も安全ではありません。もし再び、核戦争になれば、リーダー達は、戦地に赴く若者達と同じリスクを負うことになるのです。彼らが、そのことに気付けばよいのですが…。北朝鮮のリーダーがこのことを理解しているとは思えません。私はそのことを懸念しているし、あなた方も懸念すべきです」。

これには、藤井さんが、強く反発した。

「日本が真珠湾攻撃したから、アメリカも仕返しをするという意味で、科学者として、どの程度の威力があるということをご存知でありながら、日本には、原爆を一発落として、本当に一瞬にして、街は焼き尽くされ、人々は木の葉のように焼かれるような状態であっても、そういうことをしなくても、日本には、もう兵器もないし、降伏する状態にあるのではないかということを、B29は何回も偵察に来ているのに、それがわからなかったのか、と思うし、原爆を落としたために早く終戦になって、穏やかな暮らしを今、皆がしている、と言う風に思っておられるということに、怒りを覚えます」。

さらに、藤井さんは続ける。

「決して平穏に暮らしているんじゃないんです。全国で、二十何万の人が、後遺症で苦しみながら、本当に二世、三世と、これから、子供達、孫達がね、後遺症がでないかと、毎日不安な思いで暮らしていると思うのに…」。

アメリカの歴史学者の中には、日本の降伏のために、原爆の投下は必要なかった、と語る研究者も少なくない。藤井さんは、その論とともに、放射能がもたらす次世代への影響への不安も、あわせて訴えた。藤井さんは、博士に質問を投げかけた。

「科学者として、あれほどの威力があるとは思わなかったとおっしゃるけど、あれほどの威力が、全てわからなかったとしても、本当にあれはやるべきことではなかったかということを、少しでもアメリカの指導者、軍隊の指導者の方に伝えられたのでしょうか。それとも伝えたいと思われなかったのでしょうか」。

博士は、こう応えた。

「私は、そういう立場にいませんでした。私の望みは、戦争の早期終結でした。天皇が賢明にも降伏しなければ、あと一週間ほどで、もっと多くの都市が同じようなタイプの兵器によって破壊されたでしょう。ルメイ将軍と第20空軍は、引き続き、焼夷弾を使って、都市を壊滅し続けたでしょう。とにかく、ひどい状況によって、こういった悲劇が起こったのです。私は、こういったことが繰り返されないことを望みます。人々が賢明であれば繰り返されないでしょう。しかし、私たちは核兵器と共に生きるほかありません。どうやって廃棄できるかわからないし、とてつもない数があります。盗まれる懸念だってあります。解決策があるとすれば、人々が、これらの兵器の、とてつもない威力に気付くことだと思います」。

双方の訴えが、英語、日本語に訳されている間も、一層、緊張感が増す。博士の説明に、終始、藤井さんは、憤りの表情を浮かべていた。

藤井さんは、博士に訴える。
「核は恐ろしいものだと言いながら、まだずっと原子爆弾を落としたから早く終戦になったとか、どうしても、そういう気持ちが取り除かれていないように、私には受けとめられるんですが、昨日から平和資料館をご覧になっても、私たち二人の話を聞かれても、まだ本当に広島の悲惨さがわかってもらえてないんじゃないかと思うんです。本当に広島の惨状がわかってくだされば、世界へ核兵器の恐ろしさを訴えて、核廃絶を叫ばれることが本当に広島市民にとって本当にすごい、原子爆弾というのはすごいものであったということを伝えてくださるには、心の底から本当に大変なことだったんだね、亡くなった人は本当に申し訳ない、人々に申し訳ないという気持ちと、不安を毎日抱えながら生き延びている人たちに対しても、本当にすまなかったということを、この方が心の底から思っていただけない限り、やっぱり世界へ核兵器を使用してはいけない、平和を訴えることは伝わらないと思うんです。それを一言申し上げたいですね」。

藤井さんの言葉を、通訳が「もし申し訳ないとか、謝りたいとか…」と訳している途中に、言葉を遮り、こう語気を強めた。

「思いません。私にとっては、真珠湾攻撃が決定打でした。私は真珠湾で、あまりにも多くの友人を亡くしました」。

この言葉で、三人の間の空気が張り詰めた。

博士は、語気を強めたまま、語る。

「とにかく、起きたことを受け入れて、生きて行かねばならないし、今後、政府が戦争をしないことを望むだけです。そして、どんな場合においても、核が使われないことを望みます。それは本当に無責任な行為ですから」

西野さんが、三人の共通項を見つけ出した。
「アグニューさんが、ですね、世界に核兵器の、核戦争をしないことを知らせなきゃいけないということをおっしゃった、非常に同感します」


核兵器は使ってはならないー。


その一点で、三人の間に、ようやく共感が生まれた。ただ、西野さんが、それまで、胸にしまっていた思いを、最後に切り出すと、また、空気が一変した。

「私は、原爆が落ちたときに亡くなった人のなかで、一番たくさんの亡くなった年代です。自分が死んだら、この方達に、その後の日本の中がどうなったか、どういう爆弾であったか、誰がこういう風にしたかと、報告する義務があります。アグニューさんがおっしゃったように、人類が使ってはいけない核兵器を使って、それに対して、謝らないということを伝えられないです。その方達は、安らかに眠ることができません。やっぱりアグニューさんから謝って頂きたいと思います」。

通訳が終わるまで待てずに、博士は、西野さんに対し、鋭い視線を向けて、こう話した。

「私は謝らない。彼が謝るべきだ」

さらに、言葉を続けた。
「私は謝らない、こんな言葉があるんだよ、Remeber pearl harbor= 真珠湾を忘れるな」。このとき、博士は、二人に向けて、右手の人差し指を立てた。
三人は沈黙した。それからしばらく、蝉の鳴き声だけが響いていた。

藤井さんが、その沈黙を破る。

「今日はアグニューさんに来ていただいたので、膝を交えて、いろいろと、いままでの国民の悲惨さと、その時の状況を話せれば、もっと心の中に、本当に、自分が進んでやったことではないとは言え、本当に、日本の国民は辛い目にあっておられるんだなということは、心の底からわかってもらえたような気がしないので、これが平和につながるのかどうかとちょっと疑問に思うんですけれども…。今から核廃絶を運動すると仰ってくださるなら、世界へ訴えると仰ってくださるなら、本当に、心の底から広島のことをもっと知っていただけるようにね、少しでも、世界の人たちに伝えていってくださることを、せめてもの、広島の人々にとっての償いではないかと思うんですけど…」
そう言い終えた後、藤井さんは、抑え込んでいた感情が我慢できなくなった。

「もう少しわかっていただけるかと思ったのが、どうしても正当化なさるんで、それが残念でたまりません」。

視線を地面に落とし、彼女は嗚咽した。甲状腺障害の影響で、深い皺で刻まれた頬を、一筋の涙がつたった。 間をおいて、西野さんが、対話をひきとった。

「私たちは、アグニューさんに会うことを望んでいたわけです。私個人は、アメリカの方々を、非常に好きなんです。でも、戦争の話になると、やっぱり見方の違い、相違があります。そういうのを乗り越えて、未来志向にしたいというのが私の希望です。ですから、お帰りになられて、昨日と今日とですね、必ずどこかで私たちの、二人の気持ちが入っていると思いますので、それを大事にしていただきたいと思います」。

博士は、最後にこう応えた。「戦争は悲惨なもので、それが一瞬のうちに起きようと、長期にわたって行われようと悲惨なものです。今後も平和が保たれることを願うしかありません」

対話は終わった。
博士は、「OK、お元気で」といいながら、手を差し出した。誰にも笑顔はない。重い空気のなかで、三人は握手をして別れた。

(この十二年の間に、三人とも他界している。)

■唯一の被爆国、日本の役割は?

対話で浮き彫りとなった溝は、今もそのまま、国際社会で続く、深い溝である。アグニュー博士の主張は、核抑止の論理で貫かれている。一方で、広島、長崎の被爆者の方々を中心に、日本は、戦後を通じて、核廃絶の必要性を、国際社会に真摯に訴えてきた。その結果、核兵器がもたらす惨劇に関して、世界の理解は深まっている。それでもなお、世界に1万5千発とも言われる核兵器が存在し、今も、新たに核保有を目指す国が存在するという現実がある。


確かに、北朝鮮の核・ミサイル開発が進むなか、アメリカの「核の傘」こそが、日本を守っている、という指摘があることも事実だ。

だが、授賞式で、サーロー節子さんは、こう訴えた。
「核武装した国々の当局者と、『核の傘』の下にいる共犯者たちに言います。私たちの証言を聞きなさい。私たちの警告を心に刻みなさい。そして、自らの行為の重みを知りなさい」。日本を「共犯者」とまで非難した。

ICANのフィン事務局長も、「私たちは偽りの(核の)傘の下で暮らしている。核兵器は私たちを安全になどしない」と、核抑止論を強く否定した。

では、日本に何ができるのか?
授賞式には、核保有国とは異なり、日本の駐ノルウェー大使が出席したことは救いだ。TBSの取材に対して、こう話している。

「我々は、核保有国と非保有国の橋渡しをすると言っているわけですから、こういったセレモニーに出席するのは極めて自然なことではないでしょうか」。

「橋渡し」役を本当に果たせるのか?

日本が毎年国連に提出している核廃絶の決議案に賛成する国の数が、今年大幅に減った。残念ながら、唯一の被爆国が、核保有国の側を擁護していると見られてはいないか。核兵器禁止条約への署名、批准について、日本政府は改めて否定した。だが、条約に背を向けるのではなく、何らかの国際的な関わりができないか、日本の積極的な姿勢が求められている。


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