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15+5  ゴビンダさんの20年 (前編)

JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス 2017年12月15日放送

東電OL殺害事件で逮捕されたネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリさんが釈放されてから初めて来日した。逮捕から一貫して冤罪を主張していたが、無期懲役の判決を受け、再審で無罪を勝ち取るまでには「15年」の月日がかかった。さらに、事件当時オーバーステイだったゴビンダさんは、釈放されてすぐに強制退去処分となったため、再び日本への入国が認められるまでに「5年」もかかった。

「15年」プラス「5年」。逮捕直後から「これは冤罪だ」と報じ続けた記者が、ゴビンダさんの20年を追った。

ディレクター:丸山拓(TBSテレビ報道局)

2017年11月 @羽田空港・国際線ターミナル
「お客様にご案内いたします。ただいま特別警備のため、館内のコインロッカーと一部のゴミ箱を撤去しております」

トランプ大統領が日本を訪れていたその日、厳戒警備が敷かれた羽田空港に、
一人のネパール人男性が降り立った。

「5年ぶりだね」

~回想 裁判所から駆けだしてくる弁護士たち~

「再審開始です!」

ゴビンダ・プラサド・マイナリさん。『東電OL殺害事件』の犯人として逮捕され、無期懲役となり、再審無罪を勝ち取るまで15年もの間、拘置所や刑務所にいれられた。

~回想 飛行機のタラップに登るゴビンダさん~
「マイナリさんが飛行機に向かっています!これからネパールに出発します!」

事件当時、ゴビンダさんはオーバーステイだったため、釈放後すぐに強制退去させられた。強制退去の場合、再入国には制限がある。ゴビンダさんの場合は、5年かかった。「15年」プラス「5年」。ゴビンダさんの20年をみつめた。

「冤罪」が晴れるまでには・・、とても長い時間がかかった。事件が起きたのは、20年前の1997年3月だ。

東京の渋谷区にあるアパートの空き部屋で、東京電力に勤めていた39歳のOLが殺された。財布からは現金4万円が盗まれていた。

遺体発見から2か月後、強盗殺人容疑で逮捕されたのが隣のビルに住んでいたゴビンダさんだった。

初公判 1997年10月

初公判でゴビンダさんは容疑を全面否認した。

ゴビンダさん「私はいかなる女性であっても、殺したこともなければ、
お金を盗ったこともありません」

だが、それから塀の外に出るまで、15年もかかった。

冤罪が晴れて釈放され、夢にまで見た祖国ネパールに帰国できたゴビンダさんに電話を掛けたことがあった。

丸山「ネパールに帰って、一番うれしかった事って、何ですか?」
ゴビンダさん「あの~、自分のふるさとの匂い、感じましたけど。特に、家族と出会って、うれしいことです」「この間(あなたの作った)DVD見ました。むかし、僕のふるさとのイラムにいらっしゃった時のDVDです」

羽田空港から移動する車の中でも、こんな話をした。
丸山「僕の(取材した)DVDとか、ご覧になっていただけたりとかしたんですか?」
ゴビンダさん「たまにそれ見るとね、当時の子供たちの幼い頃の映像、ビデオを見て、あの・・・、胸が重くなって、涙が出てしまいますね」

DVDというは、僕が取材して放送したいくつかの番組のことだ。

「強盗殺人容疑で逮捕されたのは一人のネパール人。彼は今も冤罪を主張している。2年以上にわたる裁判の証言記録とネパールでの関係者取材で、いまなお残る謎に迫ります」

@ネパール・イラムの町、ゴビンダさんの生家  1998年1月
取材では、ネパールのゴビンダさんの生まれ故郷も訪ねた。インドとの国境に近いイラムという町だ。

丸山「2人はお父さんに会いたい、とは言いませんか?」
妻・ラダさん「『お父さんは、今日帰ってくるよ』と毎日言っています」

長女のミティラちゃんは、遠い日本にいる父親を思ってか、こんなことを言った。

丸山「大人になったら、なんになりたい?」
ミティラ「パイロット」
丸山「パイロット?ああ~、飛行機に乗るんだ」
ミティラ「うん」

まだ幼い頃の長女ミティラちゃんと次女エリサちゃん

そこには、故郷に残した幼い娘たちが映っている。やってもいない罪で15年もの間、拘置所や刑務所にいた。会いたくても会えなかった幼い頃の娘たちの姿は、DVDの映像の中でしか見ることができない。その姿を見るたびに、今でも涙があふれてくる、というのだ。

ようやく会えたのは、2人が大きくなってからだ。場所は刑務所の中だった。

ミティラさん「無実にもかかわらずお父さんが刑務所に入れられてから私達は会えませんでした。最初に会った時、ガラス越しでしか話すことができなくて、とても辛かったです」

@殺害現場
丸山「あれっ、まだ、ありますね。昔のまんまの建物が残ってますね」「あっ!ゴビンダさんが住んでたビルも、まだ残ってます。もう20年経ちますけど、ほとんど変わらないで残ってるんですね」

事件当時ゴビンダさんはこのビルの4階で、ネパール人の友人4人と暮らしていた。ネパールから姉が来日するため、犯行現場となったアパートの鍵を借りたことなどからゴビンダさんが疑われた。しかし、事件当時、鍵は掛けられておらず、他の人間でも部屋に入れる状態だった。

2000年4月14日  一審 東京地裁判決
決定的な物的証拠がない中、一審の東京地裁は「無罪」の判決を言い渡した。家族達は、すぐにゴビンダさんが釈放されて、ネパールに帰ってくると思った。

ゴビンダさんの姉「本当に嬉しかったです。泣いたですね、わたし、嬉しくて。(ネパールに)すぐ帰ってほしいですね。無罪になりましたので、もうすぐ、会えますね」

~当時の新聞記事~
『東京高裁 マイナリ被告拘置決定』
『無罪ネパール人を勾留 東電OL殺人事件 高裁が職権で』
『異例の拘置に波紋 弁護側「差別」と反発』

ところが、願いは叶わなかった。検察側の「被告を出国させると控訴審が困難になる」という主張を認め、東京高裁はなんと、ゴビンダさんの拘置を決定したのだ。

無罪判決を受けたのにもかかわらず、ゴビンダさんは拘置所を出ることができなかった。

5年ぶりに来日できたゴビンダさんは、東京で開かれた市民集会に参加した。
テーマは「くり返すな冤罪!」だ。女性が「よかったね」とゴビンダさんと抱き合う。ゴビンダさん「ありがとう」ハンカチを出して涙を拭う。隣でラダさんも抱擁。

「今日、集会に遠くネパールからいらしていただきました。再審無罪から初めて来日しました。東電OL殺人事件で冤罪に巻き込まれたゴビンダさんと妻のラダさん、こちらに」

ゴビンダさん「みなさん、ナマステ。また、もう一度、日本に来ることができて、ありがとうございました。5年前、ネパールに帰ることができて、家族と一緒に幸せに暮らすこともできて、本当に皆さん、ありがとうございました」
「今でもちゃんと眠ることできないので、医者の相談したり、運動したり、メディテーション(瞑想)しております」「私は悪いこと、やってないと言い続けても信じてくれなかったんで」

警察と検察が犯行の動機としたのは「お金」だった。ゴビンダさんはインド料理店などで働いて稼いだお金をネパールの家族に仕送りしていた。そのお金に困って、女性を殺し4万円を奪ったというのが、彼らの主張だった。しかし、ネパールで探し当てた同居人達は「ありえない」と否定した。

ナレンドラさん「あり得ない話です。私のポケットには10万円から30万円くらいは必ず入っていた事は部屋のみんなが知っていました。頼まれれば5万や10万円くらいは貸します。(女性を)殺すくらいなら、(私から)盗めばいいでしょう」

しかし、ネパールに国外退去させられていた同居人達が日本の法廷に呼ばれて、証言させられることはなかった。

2000年12月22日  二審 東京高裁判決
そして、一審の無罪判決からわずか8か月後、二審の東京高裁は・・・ 

「原判決を破棄する。被告人を無期懲役と処する」

無罪から無期懲役へ。逆転の有罪判決だった。ゴビンダさんは法廷中に響き渡る声で叫んだ。

『神さま!やってない!神さま、助けてください!』 

丸山「今でも警察の取り調べを受けた時とか刑務所にいた時の事とか思い出すことあります?」
ゴビンダさん「ありますよ。夢でも、ひどい人間と刑務所のあちこち、夢で見ますよ」「そうですよ、今でも。怖いこととかね。悪いことやってないのに、国に帰れるかどうかね。それから、ここで、刑務所で死んじゃうかもしれないし、いろいろ暗いことばかり頭に出続けてね」「眠れない夜が多いですよ。眠れてもまた嫌な夢でるから、また起きちゃうので」

丸山「ネパールに帰られて、いま何をしていらっしゃるんですか?」
ゴビンダさん「やることないんですよ。やることないんですよ。あの、この年になると、誰も仕事あたえてくれません」

15年間という長きにわたって拘束されたことに対し、ゴビンダさんには
刑事補償法に基づいて補償金が支払われている。

ゴビンダさん「ここから、少し国からくれたけど、お金は、子供たち結婚したり、少し銀行においてね、そのインテレスト、日本語でなんと言うの?」
丸山「利息?」
ゴビンダさん「うん、利息。それで生活してます。だけれども、やることはひとつもない。どういう仕事してね、これからの人生歩くか、方法はないです」
「日本政府にね、関係者にね、これから私どうすればいいと、方法教えてほしいですよ」「僕の大切な、人生の大切な時間、15年間、お金で買えないよ」

東電OL殺害事件をめぐる状況が「急展開」したのは、2011年から2012年にかけてのことだった・・・


後編に続く・・・