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2020年7月5日「風をよむ ~あの香港はどこへ~」

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映画「慕情」でも描かれた1950年代の香港。第二次大戦中の日本軍による占領が終わり、イギリスの植民地統治が再開していました。

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中国本土から、人々が自由と新天地を求めてやってきた香港には欧米文化と融合したエキゾチックな町並みが築かれ、アジアの貿易拠点として、急速な経済発展を遂げていきます。

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そして1982年9月、イギリスのサッチャー首相が北京を訪れます。19世紀半ばのアヘン戦争で、勝利したイギリスが、当時の清から、99年間の約束で借りた香港の返還問題を話し合うためでした。

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当時の中国は、文化大革命による政治・経済の混乱から、新たに最高指導者となった鄧小平氏のもと、「改革開放」を謳い、市場経済制を積極的に取り入れることを試みていました。

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中国 鄧小平氏「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ」

鄧小平氏が語った有名なこの言葉は、社会主義や資本主義といったイデオロギーに関わりなく、経済的利益を重視する姿勢を表しているといいます。

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その鄧小平氏が、サッチャー首相との会談に臨んで提案したのが、「一国二制度」でした。

一つの国の中に、「社会主義」と「資本主義」を併存させる「一国二制度」は、もともと台湾統一をにらんで生まれた構想でしたが、それを香港に適用したいと申し出たのです。その背景を専門家は…

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中国問題グローバル研究所 遠藤誉 所長「改革開放が始まってからまだ間もない時。その中国から見たら、香港っていうのは本当に眩いばかりの輝かしい素晴らしい都であった。だから鄧小平は、改革開放を何としても前に進めたい、市場経済の香港から力を得たいということを一番願っていた」

鄧小平氏にとって、香港を通じて世界経済と深く関われる利点は、きわめて大きいものでした。

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香港の「一国二制度」を巡る中国とイギリスの交渉。そこには知られざる舞台裏がありました。

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当初、「鉄の女」サッチャー首相が提案した期間は「100年」。

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ところが、これに対して、鄧小平氏の最初の答えは「10年」。イギリス側が渋ると、「15年」「30年」と刻んで提案。

サッチャー首相は鄧小平氏の巧みな交渉術に翻弄され、結果、50年に落ち着いたといいます。 

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そうした結果を象徴するかのように、交渉後、サッチャー首相は階段を降りる途中で転倒。中国では今も「鉄の女のつまづき」として歴史に刻まれる一コマとなったのです。

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イギリス マーガレット・サッチャー首相(当時)「香港の将来について、英中両国は合意しました」

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そして1984年、「一国二制度」を「50年変えない」とする共同声明に署名。1997年7月に、香港の主権を中国に返還することを決定しました。

しかし、鄧小平氏は香港返還を見ることなく、92歳で死去。そして、その死から5か月後…。

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1997年7月、香港は155年ぶりに中国に返還。

その後中国は、香港を通じて外資を取り入れ、年率10%を超える、急速な経済成長を遂げ、上海や深圳といった新たな経済拠点を築きます。

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そして2010年には、日本を抜いて世界第2位の経済大国へと躍り出たのです。

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今から3年前の7月1日、香港返還20年を記念する式典に出席した習近平国家主席は、こう語りました。

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中国 習近平国家主席「“一国”という意識を高め、“一国”の原則を、堅く守る必要がある」

今に至る、こうした強硬な姿勢の背景には、中国にとって香港が持つ意味の変化があるといいます
 
中国問題グローバル研究所 遠藤誉 所長 「(中国の)一般国民も本当に香港に対する憧れっていうのはものすごくて、高嶺の花のような素晴らしい存在だった。しかし今や本土の方が、GDPというような意味ではよっぽどリッチになったし、そういう意味での憧れはありません。そうすると、(香港が)非常に厄介な存在になってきた」

「50年変わらない」はずだった香港。あと27年を残し、「一国二制度」は失われようとしています―


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