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【山縣亮太9秒95!!】②最年長9秒台を出すまでの山縣が歩んだ道(上)

ロンドン五輪で早くも五輪日本人最高タイム
腰痛で苦しめられた2年間からリオ五輪の快走へ

 山縣亮太(セイコー)が6月6日の布勢スプリント(鳥取市開催)で出した9秒95(+2.0)は、男子100mにおいて日本人4人目の9秒台だった。注目すべきは過去の9秒台が20~24歳の選手によってマークされたのに対し、山縣は28歳と9秒台最年長だったこと。故障に何度も悩まされ、そして時間がかかってもあきらめずに克服してきた山縣の特徴が現れていた。TBSの取材に話した「9秒との戦いを早く終わらせたかった」という言葉に、道のりの長さがにじみ出ていた。

●日本人9秒台選手のレース時の年齢は?

 日本人選手の9秒台は山縣で4人目、のべ5回目である。9秒台が出された順に、年齢を付記してリストにした。

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 今回の山縣だけが30歳に近い年齢(布勢スプリントが29歳誕生日の4日前)だった。実年齢からしても山縣が、桐生と小池の3学年上である。
 しかし山縣は、遅咲きの選手だったわけではない。むしろ、早熟と言える成長曲線を描いた。高校1年時の国体少年B(中学3年生と高校1年生)で全国大会初制覇を実現させ、高校2年時の09年には世界ユース選手権で4位入賞という成績を残した。3年時はケガの影響で夏のインターハイは3位と敗れたが、秋の国体と日本ジュニア(現U20日本選手権)で全国優勝。タイムも10秒30(+1.6。当時高校歴代5位タイ)まで伸ばした。
 実は中学時代に「9秒台を意識しだした」という山縣。「自己記録が11秒4台だった頃から、残りの競技人生で1.5秒縮めてやる、と思っていました」。本人にとっては想定内の高校時代だったのかもしれない。
 高卒2年目、20歳だった慶大2年時には早くもロンドン五輪に出場し、予選を10秒07(+1.3)の五輪日本人最高タイムで走り、準決勝に進出している。そして翌13年に運命のレースを走ることで、「本格的に9秒台をイメージし始めた」のだった。
 それは13年4月29日の織田記念。予選で高校3年生の桐生が10秒01(+0.9)と、日本記録の10秒00(伊東浩司・98年)に0.01秒と迫った。決勝も10秒03(+2.7)で走った桐生に0.01秒差で敗れたが、山縣も10秒04で走っている。
 レース後の記者会見に2人揃って臨み、「9秒台は一番に出したい」と異口同音に話したことで、2人に対する9秒台の期待が自他ともに高まった。

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●ロンドン五輪シーズンにもケガ

 しかし桐生の4年に対し、山縣は8年もの期間が9秒台実現までかかってしまった。
「残り0.4~0.5秒まで割と早く縮められたのですが、そこからの0.4~0.5秒が“山あり谷あり”でした」と布勢スプリント3日後のオンライン会見で話している。客観的に見れば大学2年の10秒07(ロンドン五輪)までは順調に記録を縮めているが、山縣本人には苦しんだ感覚があった。
 大学1年時は、秋の国体で10秒23とジュニア日本新(当時)をマークしたが、国体までは「自己記録更新は難しい」と感じていた。国体もスタート時の目線の変更が自己新につながったが、根拠があっての変更というよりも、「何かを変えればヒントが見つかるだろう」と考えた結果だった。
 大学2年4月の織田記念で10秒08(+2.0)と、ロンドン五輪A標準(当時の標準記録は3人まで出られるAと、1人しか出られないBに分けられていた)を破ったが、5月の関東インカレ前に右太腿に違和感が出てしまった。6月の日本選手権は万全の状態で臨めずに3位。ぎりぎりのところでの代表入りだった。
 ロンドン五輪でもどう走るかを迷い、考え抜いた末に、スタートに重点を置きすぎず、スムーズな加速につなげる走りをした。日本選手権前のケガで、その部分ができなくなっていたのだ。予選は五輪日本人最速タイムの走りができたが、準決勝はレース中に「3番が頭にちらついて、体が硬くなってしまった」という。10秒10で準決勝3組5位。決勝に進むことはできなかった。
 しかし五輪という大舞台で10秒07を出したことは、大きな自信になった。翌13年の織田記念では桐生に敗れたが、6月の日本選手権はその桐生を破って優勝。山縣の中で9秒台への手応えは大きくなっていた。

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●桐生に大差で敗れたレースがきっかけ

 だが13年後半から、山縣は腰痛に悩まされるようになった。客観的にも“谷”の部分に入っているのがわかる時期だった。
 14年は6月の日本選手権2位でアジア大会代表入り。秋の日本インカレと国体に優勝と国内で勝負強さは発揮したが、アジア大会は6位と敗れた。日本選手権優勝の桐生が故障で代表を辞退し、代わって出場した高瀬慧(富士通)が銅メダルを取っていた。
 シーズンベストは13年が10秒11(+0.7)、14年も「腰をかばいながら走っているところ」があり10秒14(+0.1)と停滞した。
 そして15年3月にまた、桐生とのレースが山縣に大きなインパクトを与えた。米国テキサスの試合で桐生が9秒87と、追い風3.3mで参考記録にはなったが、日本の男子100 mで歴史的とも言えるスピードで走った。世界大会の決勝経験選手にも勝ったのだ。
 同じレースに出ていた山縣は10秒15で7位。桐生には0.3秒近い差をつけられ、6月の日本選手権も腰痛が悪化して準決勝を棄権。全国を移動するトレーナーの鍼治療を受けるため、「新幹線で西へ東へ」と移動を繰り返し、広島に帰省したときは父親の浩一さんに相談もしていた。
「万全な体にしないと世界では戦えない」と、腰痛改善に徹底的に取り組む覚悟を決めた。腰痛自体は鍼治療などで収まっても、腰への負担を減らさなければ再発する。「ケガは自分の足りないところを教えてくれる」というトレーナーからの言葉を励みに、自分の課題を徹底的に考え抜いた。
 そのタイミングでトレーナーの仲田健氏と出会い、「それまでは闇雲にやっていた」体幹トレーニングとウエイトトレーニングの方法を進化させた。
 学生時代の山縣はウエイトトレーニングに対して、「走りの感覚に落とし込めない」と懐疑的なスタンスだった。その一方で、ウエイトトレーニングで結果を出している選手がいることも認め、卒業前には「速くなるための方法の1つである以上、一度は試さないといけない」という考えも持っていた。
 しかし大学入学以来コーチを付けず、自分の判断で決めてきたのが山縣という選手だ。仲田氏の指導するトレーニングを行いながらも、走りにどう生かすかは、これまでと同じように山縣自身が自分の動きを分析し、感覚なども考慮して決めていった。
 そうした取り組みが腰痛の克服につながり、リオ五輪準決勝での10秒05(+0.2)、日本人五輪最高記録の更新を実現させた。日本短距離界戦後初の100 m決勝進出まで、0.04秒と迫ったのである。ロンドン五輪では序盤を抑えた走りが最善だったが、リオ五輪では序盤のスピードを上げても終盤の失速を小さくすることができた。
 また4×100 mRでも1走選手中最高タイムを記録し、日本の銀メダル獲得に貢献。リレーで結果を残したことで、「9秒台へのこだわりがより強く」なっていた。

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TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト


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