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まとまらないけど残しておきたい気持ち

芦原妃名子さんが命を絶たれてしまった…
信じられない。たまたま休憩中に開いた途端に飛び込んできた訃報に震えが止まらなくなり、いたたまれなくなった。"また悲しい自死を生んでしまった…" ちょっと気持ちがしんどくなった。連日の脚本家とのやり取りは把握していたし、脚本家やTV局を責める声が多い中でも、"個人を攻撃する意図はなかった"の言葉からSNSでの拡散を原因と指摘する声で溢れてた。

SNSでの拡散やそこで生まれた言葉については度々考えることがあるけど、まさに改めて難しさを考える出来事があった矢先だったので、同じようにSNSを使う身として余りにも他人事には思えず、自分の今後のためにしっかり残しておきたいと思った。

脚本家を責める声が多いしそれがトリガーになったように側からは見える。だけど、「そう見える」だけであって「本人がどう思っていたか」は本人にしかわからない。私達が知らない事実があるかもしれない。最後のポストの「ごめんなさい」という言葉があまりに重く響いて…どちらが悪いか議論で溢れてるけど、正解は「色んなことが複合的に作用して招いた」結果なのだと思う。だから、SNSの使い方って本当に難しいなって。

拡散って怖いなって思う。
言葉って、その温度がわからない。
どんなに丁寧に、周囲への影響を考えて配慮しても、発信した人の真意が100%伝わることはない。

私達が日頃情報を拡散する時って、「誰かを応援してる時」「感動や喜びをシェアしたい時」…そういうポジティブなエネルギーの連鎖がとてつもない爆発力で素敵な結果に繋がることも知ってる。(まさについ最近のFWがそう…幸せを実感できた)

だけど、拡散によって健全な議論が活発化するならともかく、明らかに本人が意図しない結果を招くこともある。ここで大事だな、気をつけなきゃなと改めて思うのは、あまりに大きく膨らんだ声について「一言でも本人がそう言ったのか?」てこと。「この人はこう思ってる」「この人は可哀想」「この人はこうして欲しいはず」なんて本当にエゴでしかないし、良かれと思って発した言葉も行動も相手は望んでいないかもしれない。

誰かの気持ちを決めつけて一人歩きさせてしまうことは、その人の身体がそこにあっても心がどこかに行ってしまったような感覚になるんじゃないかな。。それって辛過ぎる。

だから、自分も言葉を衝動的に発してしまったり、感じたままに呟いてしまうことがあるけれど、大切に応援する人の顔を常に思い浮かべながら、その人が見たら悲しい気持ちにならないか?それを望むか?考えながら、言葉を使いたいなと思う。

どうしても吐き出さないと自分の心が昇華できない時もあるし、ストレートな言葉をぶつけたくなる時もある。誰かに聞いて欲しい時もある。そういう時は、仲の良い姉妹や友人に聴いてもらったり、noteに綴ったり。発信する場所を選んでいきたいなって思う。

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