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「年齢の割には」という病:映画『若い女』

先日,予防線を張るかのように「年齢的にも最後のチャンスだと思います」なんて台詞を自ら吐いてしまった。すると人生経験の豊富な方に,「年齢を理由に振り切るにはまだ早い。今やりたいことをやり切って決心がついてから」と再考を促された。

そんな中で観た『若い女』は,現在50歳の彼氏に飼いならされ,10年間仕事にも就かず,31歳で突然捨てられた「痛い女」の映画。可哀想な女なのかと思いきや,我が儘でヒステリックで見栄っ張りで,絶対に関わりたくないタイプの「ヤバい女」。皮肉でしか「若い」と言われなくなった女のやけっぱちムービー。

31歳と強調される年齢に駄目押しするように,主人公のポーラを演じるのは今年38歳のレティシア・ドッシュ。完全に3枚目を演じているが,変化とは高低差のこと。冒頭はあえてブサイクなのだろう。『プラダを着た悪魔』だって,オシャレに興味のない女子が歯磨きするシーンから始まっている(アン・ハサウェイは歯磨きぐらいで醜くはならないが)。

だからこそ,憑き物が落ちたかのようなラストの静けさに,成長と本来の美しさを感じる。始終「空っぽ」な彼女に不快になった人ほど最後まで観ないと,不快なままです笑

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31歳女性にはそぐわなさそうな「成長」というワードは,彼女の自立が周りより10年遅れたことに起因する。大学在学中からしょうもない男に10年捕まって,彼女は今も学生のまま止まっている。

ポーラをガキっぽく(嫌悪まで)感じてしまうのは,若い頃なら許されていたものが,30も過ぎると許されないことを意味している。
その場しのぎでつき続ける嘘も,大人になれば「虚言癖」だ。彼女の判断はいつでも何の迷いもないが,ただ無鉄砲で無計画なだけだ。

人間は性格だけを評価することはなく,いつでも性質を年齢と掛け算して見ているのだろう。「〇〇歳なのに」と。

無邪気とか奔放とか,たとえ褒める場合でも,「まだ少年の心を持ってる」などと表現されるとき,「その年齢の割には」という含みが大いにある。許されるときだって,その年齢ならしょうがないね,という譲歩をされている。

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ラストで,ポーラが下した決断の是非は分かれるかもしれない(私は正解だと思ったが)。ただしその決断がなんであれ,「成長」の先の「自立」を感じさせることは間違いない。空っぽでやけくそだった人生の途中で,あの判断を下して初めて,自分の足で立つことができた。

判断の是非は,選んだ本人に迷いと後悔がないことで決まると思う。他人が不正解だとジャッジすることはできない。

大きな決断に辿り着くのが何歳だろうと,残りの人生を変えるには,何かしらの決断を下すしかない。それが正解だったと判断を後で下せるのも,本当は本人のみ。

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どうにか冒頭の喧騒を耐え,ラストの静謐に辿り着く頃には,ポーラの印象が変わっている。急にとんとんと拍子抜かすように終わるラストは,あのやかましい冒頭があるから活きるのだ。

あのうるさい冒頭から打って変わった彼女の表情は,その判断が正解であることを感じさせる。

他人からの「年齢の割には」バイアスを,自ら適用してはダメだ。若い若くないは他人との比較でしかなく,本人は「今より歳をとってる自分」なんてまだ経験したことないんだから。 

フランス映画ということもあり,フランス人のステファン・ダントンさんのお茶屋さん「おちゃらか」とコラボしていた。茶葉の販売だけでなく,ロフト9でもお茶がいただけるのだが,そのメニューには「破天荒な主人公ポーラをイメージ」した「和紅茶にコーラの香りとジンジャーのアクセント」という強烈な説明文。

「あなたをイメージして,日本茶にコーラの香りとジンジャーのアクセントをつけました♪」と言われたら,もはやその人生は成功だと思う。言われたい。


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