見えている部分だけが人生ではない。

いかにも意識の高い学生だった頃,ニュージーランドに行った。素朴な人が多く,意識の高さとは無縁の土地でSNSを開くと,日本の知人のツイートをいつものようには読めなかった。

SNSは,人生の一部を自己申告する場だ。当時は,その自己申告(=人に見せている部分)が並ぶタイムラインに,どうしようもない違和感があった。
「人に見える部分だけが人生ではない」と痛切に感じたのはその時だ。

帰国してから,院試のために英語の独学を始めた。海外の人とSkypeしまくるなど「外に開いた引きこもり」の生活をしていた2014年1月に,急に毎日のお茶を家で点て始め,現在まで続けてきた。

つまり,お茶を毎日点ててSNSにアップし始めたのは,人前に出なくなった期間,つまり他人から人生が見えていない期間だ。
「(大学院)無理でしょ」「(お茶は)何のためにしてるの」と言われるのもうるさいので,英語もお茶も黙って続けていた。SNSのアカウントも,誰にも教えてなかった。

だから私のお茶は,決して開放的な気分で始めたのではない。ひたすら誰に見せるでもない,ましてや商業利用など何も考えていないお茶を,ずっと続けてきた。

思えば私のお茶は,一般人の生活そのものであり,決してパブリックなものではなかったはずだ。
しかし,誰と一緒にいたか,その日“実際のところ”何が起こったか,生活感の溢れる部分は,あまり写真に収められていない。
私が今「生活感」と呼んだ部分が,そのまま私の人生だったのかもしれないのに。

にもかかわらず,今となっては,人に見える部分を意識してお茶をしている

人に言えないような辛いこと,人に言っても伝わらないような辛いこと,それがまた辛かったこと。それでもお茶の写真には不機嫌が映らないように,無理もしてきた。

今改めて思う。人に見える部分だけが人生ではない。

毎日お茶と過ごしてずっと側にいたから,お茶を人生と同一視していた。私の気分が写真の光に反映され,写真の背景はライフステージによって変化する。

しかし本当は,写真に写っていない部分だって,私の人生だったのではないだろうか。

その時々でいつも何かに熱中して,同時に会社の仕事もして,その日何が辛くて何が嬉しくて。誰を好きで誰を大嫌いになって,また誰かを好きになったりして。

そんな妙味を捨象した写真が,人生そのものなわけがない。


「人に見える部分」など本当に少ないのに,毎日そこに時間を割いてきた。(和菓子の買い出し,撮影,数十枚のレタッチ,写真の選定,長い本文を日英両方で更新など)
そんな生活では,人生そのものや,私が考えたいことに近づいていけない。

お茶の写真を5年近く毎日公開し続けてきて,更新しないことの罪悪感や強迫観念もあった。
しかし最近は更新しない罪悪感よりも,自分のしていることが核心に迫っていかない嫌悪感の方が強い
それもそのはず,分かりやすく「人に見える部分」がそのまま核心を突いていることはあまり無いからだ。

人生なんて,見せたい部分だけ見せていたらいい。どうせ目に見えないものは見えない。

それでも,写真に映らない思考や感情を無視してまで見せなきゃいけない部分など,無いのだ。


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毎日続けることについては,以下の記事でも書いています。


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これも「お茶」だと言い続ける

毎日点てるお茶,茶人の修士論文,バーチャルろくろ。バラバラに見える活動に共通していたのは,ある主張でした。
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