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2.2.3. 「茶道=生涯学習/教養」とする先行研究への批判

平成の茶道修練者を扱った研究において,平成前半の茶道が「勉強」という語で表現されているのは,Mori〔1996〕や加藤〔2004〕が明らかにした通りだ。

これも,文化的素養としての文化資本を「勉強」と言い換えていると解釈できる。


「学習」としての茶道

実際に社会教育学の論文では,茶道は全て「学習」として扱われている。
丸山〔1995, 1996, 2000〕も,茶道を「生涯学習における伝統文化関連学習」にカテゴライズされている。

そして研究の中では,茶道教室の生徒が「茶道修練者」ではなく「学習者」と呼ばれている。


この「学習」としての分類は「NHK学習関心調査」の継続調査データにも見られる。

藤岡〔2008〕の分類によれば,茶道は「対人趣味型学習」と見なされる。
2006年に行われた第4回NHK学習関心調査では,「対人趣味型学習」の学習目的は主に「学ぶ楽しさ」「向上の喜び」「教養を高める」「生活のハリ」であることが示された。


これらの調査結果は,辻〔1987〕の説明とも合致している。
辻は,学習者は自己の内面の充実を求めたり,受身でなく主体的に学習活動を展開したり,自己表現を行うような学習を求めると整理した。

すなわち数的調査上では,辻から藤岡の研究までの30年間もの間,人々の学習目的に顕著な変化がないということだ。


無論,学習傾向全体の変化を観測するには,30年というスパンは短小すぎる。
しかし観測期間を長くしても,量的調査から「茶道団体」のような特殊な動きを看取することはできない。


「学習である」という大前提

NHK学習関心調査の場合はアンケート形式のため,選択項目が恣意的である。

「学習」という視点に固定した上での調査結果ではなおさら,「茶道団体」に取り組む理由を敷衍することは難しい。


学習という文脈に茶道が置かれた瞬間,茶道をする動機はほぼ固定される。
「学ぶ楽しさ」「向上の喜び」「教養を高める」「生活のハリ」以外の理由が入り込む余地がほとんど無い。
それでいて,「茶道団体」として活動する人々の理由を説明するには足らない。


「教養」としての茶道

また,「学習」から派生して「教養」という語を広く解釈してみても状況は変わらない。

「教養」の目指す状態は「個性の開花」や「内面の成長」といった抽象的な表現で繰り返されてきた。
この状況はそれこそ18世紀ドイツから変わらず保持されているといえる〔宮本2006〕[注4]。

これは,生得的でかつ永続的な地位を保つ貴族階級に対して市民層がとった方法からも伺える。
市民層は「何者かではなく,どのように生きているか」〔宮本 2006: 61〕を示したのだ。

「教養」は目指すべき対象物(≒何者か)ではなく,そこに至るまでの行為(≒どのように生きているか)を指すという論である。


日常の外=茶道教室

では,ある茶道修練者が「どのように生きているか」という過程は,月に数回茶道教室に通う理由と固く結びついているだろうか?

この文脈での「教養」とは,日々の振る舞いそのものの中に自らのアイデンティティを求めるもの [注5] である。

修練者が「非日常」と捉えている茶道教室に出かける理由──その「非日常」を自らのアイデンティティにしようと試みること──とは方向性が異なっている。

その前提に基づくと基づくと,人生の大部分(茶道教室の外)で茶道修練者が「どのように生きているか」の中に,人々が茶道に向かうさらなる動機があると考えられる。


日常の中の「生の様式」としての「お茶」

そのため,本稿が強調したいのは,先行研究で扱われてきたような茶道教室の意義やそこに通う理由ではなく,茶道教室の外で茶道修練者がどのように「お茶」と向き合っているかである。

言うなれば,茶道教室外での「生の様式 [注6] 」としての「お茶」,すなわち茶道教室という個別具体的な状況以外での「お茶」を扱うのが本稿である。

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[注4] Ringerが「Bildung(=陶冶)を通して自己を高めるという思想は何よりも出生に基づく永続的な社会的区別に対する社会的に進歩的・普遍主義的な挑戦だった」〔Ringer 1992=1996: 100〕と指摘したように,ここでも「自己を高める」という曖昧な語で表されている。現代でも理想像は具体的な状態では示されず,「なりたい自分になる」や「ありのままの自分」といった語で標榜されている〔加藤 2016: 150-157〕。
[注5] 当時のドイツ市民は自身を文化として,すなわち徳・行動様式・規範の総体として構成したと考えられている〔Nipperday 1987: 143〕。
[注6] カシューバによれば,「生の様式」とは「財産・職業・趣味・教養など様々な基準からなる社会的ステイタスの概念」〔Kaschuba 1988: 10〕のことである。

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