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知的障害者による突き落とし死亡事故裁判は、支援者たちに大きな課題を残した


1.はじめに

最初に、亡くなった方のご冥福をお祈り申しあげます。

防ぐ手立てがなかったのかと悔やみます。

きれいごとではないのです。人が亡くなっているのですから。

だからこそ、知的障害がある人のことを知らず、批判をしている人とも、もっとお話をして、その人たちの想いを知りたいと思いました。
だからこそ、自分自身のできていない役割にも気づきました。
だからこそ、お互いの意見を出し合って、知的障害がある人のことを省くことのない社会を作る仲間を募る必要性を感じました。
それらは、亡くなった方の死を無駄にしないことを誓い、原告の皆さんにも思いをはせ、書かせていただきました。

敬称略で失礼いたします。

そして、2019年8月22日から毎日書きはじめ、気づけばもう1週間を過ぎました。
まとまりがなく、同じことも繰り返し出てきております。
14000字を超す長文です。

2.事故の概要(判決文より要約抜粋)

裁判の原告は、亡くなった管理人の家族。
被告は、管理人を突き飛ばした知的障害がある息子の両親。
焦点は、両親の息子に対しての監督責任。

知的障害がある息子は、突発的興奮があり、人を傷つけることもあり、入退院を繰り返していましたが、入院先から入所施設を薦められた両親(被告)は、「自分たちで面倒を見ます」と、入院先の医師の提案を断り、自宅で3人の生活を続けていました。そして、調子が悪いときは、入院をする方法を取っていたとのことです。

また、息子が外に出る時は、両親もしくは片親がついていきましたが、両親の知らない間に出ていることもあったよう見受けます。
なぜなら、マンションでは、息子が、非常ベルを押したり、裸になっているなど、住民から迷惑行為と言われることが起きており、管理人は外に一人でいる息子を見つけると家に伝えに行くことが、それまでもあったとのことですから。

さて、その日、
機嫌がよさそうだと思ったこと
夕方、夕飯の準備のためについていける時間帯ではなかった
ということで、息子だけを外に出した母。

外にいる息子を見つけた管理人は家に連絡に行き、母も外に出て、管理人と二人で息子が遠くにいることを確認します。
管理人は、家に帰るように促しに行こうとしますが、その時も、機嫌が良いと思っている母は、「追いかけないでほしい」と管理人に伝え、自宅に戻りました。

その後、管理人が、この家の玄関の前にいたところ、息子が走って近づき、管理人を階段のところまで押して移動させ、そのまま突き飛ばし、後ろ向きのまま階段下に転げ落ちた管理人は、大けがの末、亡くなったのです。

判決は、2019年8月22日。大分地裁にて。
「両親は、親権者ではなく、監督義務も負っていなかった」として、請求は棄却されました。

3.原因は?(仮説)

この事故は、なぜ起きたのだろうかと考える時、その瞬間だけを考えるのではなく、その事故の日に至った経緯を考えていく必要があると思います。

様々な憶測事でありますが、こうしていなければ、別な展開になったのではないかと思うのは人間のサガ。あえて、そのサガに則って考えてみます。

両親に聞いたわけではないので、どれも正しいかもしれませんし、どれも間違いかもしれません。あくまでも山田の個人的な憶測です。

まず、私が考えるこの息子は、行動の様子から、行動障害がある人と位置づけてお話をしたいと思います。

私が捉える、行動障害とは、もともとの障害に起因して、情報処理や情報の整理等が難しく、そのためにコミュニケーションなど、行動する時に障害が発生する人です。

そして、下記には強度行動障害の人の判定基準をつけます。
ここで、どんな行動があるかの一例が出ています。
(参考)
強度行動障害児(者)の医療度判定基準

原因として考える仮説の視点は5点です。

(1)「入所施設を断り自分たちで面倒を見る」とのことで、福祉が関わっていなかった?

両親は、入院先の提案を受け入れず、施設利用をことわりました。
自分たちで何とかできると思っていたと思います。
そして、他者には迷惑はかけない様にしようとしていたと思いますし、まさか、自分の息子が管理人と会ったとしても、離れていれば、他害行為をするとは考えていなかったのだろうと思われます。

また、これまでの息子の様々な行動そのものを見ても、他者の死亡事故につながる行動になるとは、想像をしていなかったのでしょう。(それまでの他害行動で、両親の骨折・目の負傷などしている)

今存在する施設を利用せず、「自分たちが面倒を見る」という親はどこにでもいますし、逆に、預けたいと思っても、施設の空きがなかったり、預けていたいのに、施設が迷惑がかかるという論理で出されてしまうことも、現実にはあるのです。

そして、想定外のことは誰にでもあります。ですから、このご両親も、まさかこんなことが起きるとは思っていなかったのでしょう。

さて、この両親は、支援者の私から見ると、SOSの状態だったことは言うまでもありません。
大きなけがもしていますし、何事もないようにと南京錠をつけたり、外に出る時にもついていましたし、何かあれば入院をさせていましたから。自分たちで対応するには、無理があることは、心の中ではわかっていたはずです。でも、残念なことに、施設をたよってはいただけなかった。

ですから、施設が関わっていたら、違う展開になった可能性もあったのではないでしょうか?
息子は親御さんには言葉で話しているので、他者にも言葉で言えるようにと支援できたのかもしれません。

(2)行政・相談支援事業所は、関わっていなかった?

この件に、行政・相談支援事業所の絡みがないことは、両親があてにしていなかったか、もしくは、SOSを言える体制になっていなかったことをうかがわせます。入所施設に入らないとしても、通所施設やグループホームにも、行きつかなかったのは、なぜだろうかと思うのです。

サービスは申請主義です。

これは、申請できる人にとっては、良いことです。
自分がどんなことに困っていて、どんな支援が必要なのかは、サービスの提供側が決めることではなく、ご自身で「ここに支援が必要」と具体的に言えたほうが、より適切な支援が受けられるからです。

でも、迷惑をかけてはいけないと思っていたり、もっと自分ががんばらなければならないと思っている人にとっては、申請はしづらく、どこかや誰かが、背中を押してあげるくらいがちょうどよいのです。

実際に、主張できない親御さんは、たくさんいらっしゃいます。

関係するケースワーカーや相談支援事業所は、サービスを使っていないということで、連絡を取ってなかったことも考えられるのではないでしょうか?

(3)息子の突発的な行動にケガをしても、がまんをしているだけだった?

息子の突発的な行動の内容を見ると、行動障害の人のパニックにも見受けられます。
でも、その突発的な行動がなくなるような「支援」は、されていなかったようにも見受けられ、両親は「がまん」ということだけで、対応をしている状況だったのではないでしょうか?

自分たちに何か課題を課して、自分たちだけがまんをするという構図は、何の解決にもならないとも思わなかったのでしょう。

(4)管理人・住人に行動障害への対応方法が伝わっていなかった?

一般的には、どういう障害があるとか、こういう対応をするとどんな行動をとるとかを、ご近所の人には言わない人がほとんどだと思います。

でも、学校や施設での実習などの接触する機会であれば、プロ集団であってもどんなパニックを起こす人なのか?の前情報は流れるのが常です。

ご近所に言わないのは誰しもだと思いますが、その理由としては、言うことでレッテルをはられるとか、差別的なことをされるのではないかという恐怖だと思います。

この管理人の場合、その事実を知らなかったことと、正義感も強く、住民からの苦情対応をしようとし続けた結果、このようなパニックがあることもご存じではなく、自分が何とかしなければならないという気持ちになったのではないでしょうか?

この管理人だけではなく、プロの支援者でさえも、パニックへの対応ができる人ばかりではないのです。それだけ、行動障害の人への支援の方法、関わり方がまだまだ浸透していないのではないでしょうか?

何があっても関わらないようにと伝えておくべきでしたし、パニックのことの大きさや危険度合いを管理人には伝えておくべきだったのかもしれません。

(5)病院は、もう一押しできなかった?

専門家は、当事者側からの訴え通りにするだけではなく、時には、つかんだニーズに基づいて、次に進む道へのアドバイスをすることや、出にくいSOSをつかむために働きかけをするべきです。
今回、ニーズをきちんとつかんでいるようには見受けられませんし、断わった時点で断った理由を探っていなかったかもしれませんし、病院が提案した施設ではない他施設の紹介をしても良かったと思います。でも、紹介はしていないよう見受けられます。

施設側からの提案を断ってくることは、当事者にはよくあることです。それでも、見方や視点を変え、なぜ断っているのかのニーズを引き出し、専門家としての意見はもう少し提案してもよかったと思いますし、断わられたことで、関わることを先延ばしや終了とするのではなく、それでも、ニーズを解決するために動くことが必要でしょうし、行政や相談支援センターとも協力しつつ、より良い方向に結び付けらたのではないでしょうか?

4.自分が被害者の側だったら

今回、原告になったのは、死亡した管理人の息子です。

何の時でもそうですが、逆の立場だったら?と私は考えます。

知的障害だから、
判決が出たから、
だけでは済まされない感情は被害者の側にあると思うのです。

常に考えたいのは、両方の立場のこと。

今回、息子は、管理人の死を意図していたわけではないと思います。
何かに対して嫌だと表現をしただけです。
でも、人がひとり亡くなっています。

刑事責任は、問わないとしても、何らかの形で損害賠償という視点は、あってほしかったと思います。両親が支払うという形ではない場合、行政や国としての視点があってもよいと思うのです。
障害がある人の権利だけで、主張したくはないですし、その補償という部分は、国や社会として考えるべき課題なのだと思います。裁判で、管理人の息子が国を相手取っていたら、また違う結果になるのかもしれません。

インターネット上の書き込みでは、たくさんの人たちのやりきれない怒りも吐露していました。(6.補足を参照)

本当につらい事故です。
この判決によって、知的障害がある人の立場は護られたのでしょうか?
管理人の家族は、納得いくのでしょうか?
管理人の家族から見たら、相手が障害者じゃなかったら…とも思っている可能性があると思いますし、控訴も考えるのではないかとも思います。

5.支援者に課せられた課題

私たち支援者は、宿題をいただきました。時間がかかってもやり続け、やり遂げなければならない宿題です。
この一件こそ、風化してはいけないことだと思いますし、亡くなった方の死を、支援者として、明日の自分の働き方に、変化させるべき視点でなければなりません。

そして、明日、私やあなたの所で起きる可能性もあります。
それは、知的障害がある人だから仕方がないということで言い切ることではないですし、きっかけや機会を作ることで、このようなことが起きないようにしなければならないですし、一般の人からも、被害にあうから知的障害者に近寄らなければよいということにつなげることは絶対に避けたいですし、今までの常識を私たち支援者側が変更しなければならないことなのです。

当然のことながら、知的障害がある人の支援者として、自分ができることは何か?と考え続けられる人が、多くなってほしいと願います。

6つの視点で課題を考えました。

(1)どこで起きてもおかしくはない事故

私が関わった行動障害の人が、ホームから人を突き落したことがあります。
(突き落としたことで、他施設から私の施設に来た人)
でも、その人のコミュニケーションに合わせた支援ができていれば、日常のその人は、そんなことをする人ではありません。その人にとって嫌なことが起きたとしか考えられません。一言付け加えておくと、嫌なことは、嫌なことが起きた時に一番近くの人に向けられたりもするので、パニックの対象となった人(ターゲット)が嫌なことをしたとも限りません。

そう考えると、自分が嫌だったことの表現として、パニックという表現があり、それは一般の人にとっては不可解、かつ、対処ができにくい行動です。

行動上の障害がありますが、もし、違う方法で嫌なことの不快感を表現できるのであれば、そのほうが良いですし、嫌なことが起きた時の自分自身の対処方法を知っていれば、もっと違った他者との関わりができます。

いつどこで、あなたの関わっている人がこの事故のようなことを起こしてもおかしくない訳ですから、行動障害の人に対して、表現の仕方への支援や、一般の人へも伝えていくことは、各事業所・各支援者の役割として、これから実践していく事業所や支援者が増えてほしいものです。

起きてからではなく、起きないようにという考え方は、支援が必要な人への支援の基礎としても、重要な位置を占めるからです。

(2)パニックにならないような支援スキルの獲得

パニックは、嫌なことや不安な状況を訴える表現方法です。
嫌だ・不安だなどを表現することそのものは、してよいことですし、その方法しか知らない人であれば、そういう方法を取ったことをまちがいと決めつけることではありません。ですが、できれば、他害という方法ではなく、別の、誰にでも受け入れられるような表現ができる人になってほしいと願います。

その表現方法は変更することができる人もいますが、多くの行動障害の人は、その行動を自ら変えることはできません。
ここには支援者の関わりが必要ですし、さらには、パニックになりにくい生活環境や生活の仕方を整えたり、パニックではない表現や嫌なことの回避方法を体得していくことは必要だと思います。
そういうことは福祉施設等が役割として持っており、福祉施設が関わっていくことで、できる支援があり、そのことを困っている親御さんにも伝えていくことが職業的支援者の役割でもあるのです。

日ごろから、あなたが関わっている行動障害の人の支援技術は持っているべきだと思いますし、広く伝えることです。そして、もし、まだ手に入れていないのであれば、早急に学ぶ機会を作っていきましょう。

(3)一般の人は、パニックの時は関わらないでもらう

パニック状態になった時は、一般の人が関わることは、ご本人にとっても関わろうとした人にとっても、予想できないことが起きやすい状態です。
それは、下記ブログにも書きましたが、何とかしようとする気持ちは感謝しつつも、私は近寄らないでくださいとお願いしたいです。

毎日関わっている支援者であっても、時に大けがをすることもあるのです。
支援技術がない場合もありますが、予測できない動きであったり、誰かを守るために体を張った場合にも大けがになりやすいのです。

もちろん、パニックになってしまった場合、一般の人が、簡単に鎮められるわけでもありません。

そして、これはパニックの時です。通常の穏やかな状況の時の方が多いのです。ですから、平常心の場合に接するときに慣れない人の場合は支援者のコーディネートを受けつつ、体験してみる機会を施設側は作っていくのもよいと思います。

(4)ニーズは取れているのか、サービスにつなげるだけが、福祉ではない

ニーズは取れていますか?
そのことに対しての支援をしていますか?
そして、自分たちの支援内容を評価し、より良く変化させようという体制はできていますか?
意見は利用者のためであり、職員の都合は避けていますか?

そして、サービスにつながれば、もう、終わりではありません。

施設は自立に向かうための支援機関ですから、その人のニーズに対応し、困っていることや障害の軽減を考え、支援をしていきましょう。
そして、自分のところだけではなく、他の事業所も含めて、その人の今以上のしあわせにつながる支援を展開していきましょう。

利用者が主人公です。
利用者の人が自分の人生を人に決められることばかりではなく、自分の人生に積極的に関われる機会を持ち、自立を意識し、支援を受けていくために、職員がいると再確認しましょう。

(5)障害者支援は、役割づくり~まちづくりの観点で

私たち支援者がしている「障害者支援」は、結論から言うとまちづくりだと思っています。
誰もが「困っている」が言えて、困っていることに対して、できる人ができることをすることで、困っていることが減っていく。
困っていることが減れば、笑顔も増えていくし、役立っている感が増えたり、関わりも増えてきます。

小さな積み重ねですが、幸せになる人が増える関わりでもあるのです。

ですから、障害がある人は、もっと外に出る機会を作ってほしいですし、そのことで、障害がある人のことを知る人が増えたり、障害がある人の持つ強みが活かされ、役割が意識できることは、障害がある人にとっても一般の人にとっても、より良い情報の共有となり、まちを活性化するスタートになることでしょう。

障害があってもなくても、子どもでも寝たきりの人でも、周りの人にとって、役割があることは、とても大切なことだと考えます。

(6)断る(断られた)のであれば、次を紹介する

これをしていない事業所も多く、相談を断り、終了としていると思いますが、自分のところでできないのであれば、他の事業所を紹介してほしいところですし、ないサービスを作り出すのもまた、支援者の役割でもあります。
事業所を知っているのは、事業所側。親御さんはどんな事業所、どんなサービスがどこにあるのかをよくは知りません。
ですから、ニーズへの支援をするためにも、次の事業所やサービスを紹介できるようにしていただきたいものです。

6.親に課せられた課題

親は、遠慮をして社会に迷惑がかからないようにと考えている人も多くいます。でも、それだけでは、解決しない問題はあります。

親の課題として、5つ書きました。

(1)親はSOSを発する基準を下げよう

自分が我慢すればよいと思っている親御さんは、非常に多くいます。
でも、今回、その気持ちがこのような事故になり、悲しむ人や疑う人をたくさん作ってしまいました。
良かれと思ってやっているあなたの我慢が、こういうことになるとも思っていないと思いますが、これでは、親御さんの気持ちの結果として、本末転倒です。

SOSを言うことは恥ずかしいことでもありません。

まずは、言葉にしていきましょう。
あなたのSOSが、サービスを作り出すのです。
障害者支援業界をもっと良いものにするためにも、声を出しましょう。

(2)最高の施設は今のあるサービスを使いつつ見つけていく

最高の施設を求めて、ご自身の基準に合わないから、福祉を頼らないという親御さんもおいでだと思いますが、最高の施設って何でしょうか?

確かに自分の子供にとってより良い施設を求めたいのはわかります。
でも、あなたのお子さん一人だけを見ているわけではなく、集団の中であなたのお子さんを見ることになりますし、あなたが知らない所では事業所としてするべき事務仕事などもあります。また、職員のなり手が減っている状態で、職員数が確保できない所が増え続けていることは、社会の問題でもあるのです。

あなたが思っていることは、自分のお子さんの支援のことだけであるなら、もっと施設の職員が何をして時間を割いているのかなど、探ってみると評価が変わってくると思います。

また、使わなければ事業所はよくなりません。

ただただ施設を批判するのではなく、使って意味がわかることもあるでしょうし、意見を言うことで改善することもあります。
入った事業所が、良くない部分があったとしても不平不満を言うだけではなく、課題解決のための人材になっていただけないでしょうか?
そして、どうしても納得がいかなければ、その施設を利用しつつ、より良い施設を探すこともありだと思います。

(3)支援方法を学ぶ

様々なノウハウをお持ちの事業所はどんどん増えています。
事業所でうまくいった支援方法は、親子の関わりや地域の人との関わりにも使えるものです。ぜひ、興味を持ってそのノウハウを学んでください。

そして、わからないことや困っていることは、職員に伝えていただけることで、支援者側ももっと違った支援方法を編み出す事でしょう。
こういう部分にもSOSを出して行くことはとっても大切なことです。

さらには、行動上の障害がある人に対しての支援方法を学ぶ機会や情報はインターネットなどにもありますので、ぜひ、同じような悩みを抱える人と学んでいただければと思います。

私の所属するサポートひろがりでも、支援方法を学べる機会はご提供しております。その一つである、ブログをご紹介しましょう。

また、そして、行動障害がある人(自閉症の人)への支援の仕方のセミナー動画や支援に役立つ冊子もネットショップで販売していますので、ご紹介しましょう。

(4)保険に入る

障害がある人の保険をご存知でしょうか?
今回は裁判になりましたが、保険というものを使うこともできたのではないかと思うのです。
もちろん、今回のような事故は、非常にまれではありますが、パニックによって誰かがけがをしたり、何かが壊れたりすることはありますので、双方が和解するもののきっかけとして、保険という方法も有効だと思われます。

様々な保険会社がありますが、知的障害がある人の保険会社として、事業を展開しているぜんち共済を参考資料としてつけておきます。

(5)親あるうちに

通常、親は子より先に死ぬものです。

ですから、親があるうちに、親亡き後をどうするのかと決めていくことです。死ぬ前の日まで面倒を見たいとか、個に先に死んでほしいと願う親が後を絶ちませんが、それは、子の人生を否定していることになります。

自分がいつ、子を見れなくなるかはわからないものです。
頼れる誰かを作っておくことです。
そういう親になりましょう。

7.補足(共同通信社記事の間違い)

残念なことに最初に出た共同通信社によるインターネット上の記事には間違いがあり、その記事を各新聞社がまねたようでしたが、その記事の、2つの「間違った部分」を間違いとも知らず、ご覧になった皆さんからの意見があったことを書き残しておきたいと思います。
もちろん、間違ったことに対してではない意見もありましたが。

(1)共同通信社記事(yahooより)

(上の写真は、間違っている共同通信社の記事)

知的障害者の親には賠償認めず 突き飛ばし死亡事件で、大分地裁
8/22(木) 13:26配信 共同通信
 
 大分市のマンション階段で2014年、知的障害のある無職男性=当時(42)=から突き飛ばされ死亡した男性管理人=同(62)=の遺族が、監督義務違反を理由に男性の両親に計約5364万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が22日、大分地裁であった。佐藤重憲裁判長は請求を棄却した。
 
 訴状などによると、男性と当時70代だった両親はこのマンションに同居し、14年10月31日に行方が分からなくなった男性の捜索を母親が管理人に依頼。管理人は2階付近の階段にいた男性を見つけ連れ戻そうとしたが、男性は嫌がり、階段下に突き飛ばした。管理人は脳挫傷を負い、その後死亡した。
 
最終更新:8/22(木) 17:33
共同通信
 

(文章だけのも載せておきます)

(2)最初に出た共同通信社の記事には、二つの間違いがあると私は確認しています。(判決文から見たまちがい)

【事実1】親は捜索を依頼していません。
【共同通信社記事の間違い1】「14年10月31日に行方が分からなくなった男性の捜索を母親が管理人に依頼。」
 
【事実2】本人自宅前にいた管理人さんに走って近寄り、階段のところまで押して、そのまま下に向かって押しました。
【共同通信社記事の間違い2】「管理人は2階付近の階段にいた男性を見つけ連れ戻そうとしたが、男性は嫌がり、階段下に突き飛ばした。」

(3)共同通信社記事の下にはコメントが書かれている

「知的障害がある人が守られる権利の部分と責任の部分」
「被告側が責任がないのであれば国の補償があるべきではないか?」
など、単に怒りだけではなく、問題提起も含め、約4340件のコメント。
(2019年8月24日現在4400件でしたが、2019年8月28日現在減りました)

その一部を書き記します。

知的障害者には絶対に関わってはいけない
知的障害者側は無敵なの?
親が責任を取るべきではないか
健常者の人権が無視されているのでは?
賠償を認めないと言う判決は問題だ
行政が被害者給付金を設立すべき
最悪の事態を危険予測したら、他人と関係するのはためらわれる
逆に障害者が差別される結果を生むと思う
社会的にもっと重く問題にするべきことだ

Twitterでは、「大分 知的障害」でキーワード検索すると、ニュースとともに多くのつぶやきが出されていましたが、同様意見も多くみられています。

但し、先に書きましたように、この共同通信社記事には間違いがあり、コメントの中には、その間違っていることを知らずに書かれているコメント(誤:親が管理人に捜索を依頼等)もあることを捉えておきたいと思います。

メディアは、やはり、正しいことを世に流してほしいと思います。
もし、間違ったのであれば訂正もしてほしいと思います。

そして、私たちはメディアを通して知ったことの中でも、自分の意見をきちっと持ち、踊らされないようにしていきたいと思います。

8.ニュースへの反応に対する私の考え

先ほどの、4000を超す意見。

これは社会に存在する意見であり、障害がある人の側から見ると、見たくない意見も多くあるのではないでしょうか?でも、そういう風に考える人が世の中にいるというのが現実であり、その人たちを間違いだと言い切ることでもないですし、できるだけ眼はそむけない方が良いとも考えます。

障害がある子の親御さんの多くは、自分の子に障害がわかるまでは、障害者と接したことがない人です。その中には障害がある人に対して、差別をしてきた人もいます。でも、知ったからこそ、わが子の味方になり、わが子をいとおしく育ててきている人が大半なのです。

障害がある人のことを知らない。

このことは、国や行政でさえも、多くの問題や事件を引き起こし、作ってきました。旧らい予防法・旧優生保護法などもその一部です。

私たちは、知ることでわかることがあり、わかることで、もっと知ろうとすることがあり、もっと知ることで理解につなげられるのです。

今、この事故があり、知的障害がある人と距離を置こうとしている人がいるのもまた、事実ではありますが、そう考える人たちに丁寧に知っていいただく機会を作り出すのは、知的障害者支援に関わる人たちであり、知的障害があるご本人の中にも、その役割を担える人がいます。

障害者は、いない方がよいという人もいます。
そう思うようになったその人が、いた方がよい人といなくてよい人とを分ける考えに至った事情を知ることはしていきたいことです。

かといって、障害がある人は、社会の様々な意見に「自分は生きる価値があるのか?」と問う必要はありません。命の価値に差はないのですから。

それぞれ、思うことには理由があります。

その人はそう思うのですから、そう思っていることは知りつつも、より、社会にとっても安心が作りだせる方向に考えていただけるよう、アクションを作り出したいと思っています。

時間はかかると思いますが、自分と違う意見を否定するだけではなく、共生社会という、とてもきついことをお互いに作る良さを考えられる人を増やすことだろうと思います。

共生社会とは、やさしさあふれる、心地よい言葉のように思えていると思いますが、実際には自分と反対の意見を持つ人とも、共に生きるというとてつもなくきついことだと私は考えています。

法律があるから知的障害者を差別するのはやめようという行政主導の考えは、本筋の共生社会ではないでしょう。

そして、知的障害がある人には判断能力を問われることは難しい人もいますが、支援者から、良いこと・悪いこと、人が喜ぶこと・悲しむことなど、見えない形をした感情を含めた、相手との関わりやコミュニケーションの方法なども含め、障害があるからと後回しになっていたことは、もっと知る機会を作り、経験を通じて、共生社会の一員として、考えられることも増やしていくことに着手する必要があるでしょう。

親や支援者は、知的障害がある人を、社会的弱者として保護するだけや主張するだけは、もうやめましょう。
役割を持ち、その人の自立を図り、社会を作る一員として存在できるようなったほうが良いのです。それは、この事故があろうとなかろうと。

今、知的障害がある人がいなくなってほしいと願っている人は、実際知的障害がある人がいなくなったら困ることを本当は知っていないと思っています。つまり、知的障害がある人がこの世からいなくなったら困るのは、社会なのです。参考に、ブログを張り付けておきます。

もちろん、先ほども書きましたように、知的障害があるから絶対に許されるというのではなく、この事故をきっかけとして、知的障害者ご本人が、他者にどのように接するか、自分の不快なことをどう表現し相手に伝えるか、また、今表現している方法が相手を傷つけるのであれば、そうではない方法で、表現できるように支援者が支援をしていくことも必要ですし、そこが、自分たちに課せられた課題なのです。

そして、被害者が救済される仕組みもまた、検討されるべきことだと考えます。亡くなった人やそのご家族が、死に損となることは、避けたいのです。

私も過去に他害行動で、大けがをしています。その場面では他の職員から「ここで施設長が死んだらどうするんですか!手を出していいですか?」と大パニック対応中に言われたことがあります。ここで、その職員が加わればもっと激しいパニックになるのが見えていたので、「まだ我慢して。でも、そこにいて」と、とにかく様子だけ見て我慢してもらっていたのです。
(なにしろ、私は足を持たれ逆さづりや羽交い絞めなどされていましたから)

支援者であれ、一度起きたパニックの収拾は、自分自身もケガをする可能性が高いので、彼らのSOSをどう表現していただくかということは、支援現場としての課題としてとらえてほしいことです。

9.おわりに

今回、この事故を知ったきっかけは、私は西日本新聞社からの依頼があり、民事裁判の判決の前に資料を見ることができたことです。(2019年8月20日)
それは、判決後にコメントがほしいという依頼でしたが、事件の全容を知らずに、新聞記事の1行程度のコメントは出せないと話したことによります。

2019年8月20日に、訴状などを読ませていただき、何ともつらい事件であることを知りました。そして、親の責任はあるだろうとも思いました。
ただ、どちらに判決が出たとしても、思うことは同じだろうと思いました。

判決が出た時(2019年8月22日)に判決文をお送りくださいました。
それを見ても、考えることに変わりはなかったため、記者から、20日に話した言葉を載せたいとのことで、了承しました。その記事が、下記に書いてあるところです。

知的障害者突き飛ばし死亡、親への賠償認めず 一定の理解と不満と

知的障害者突き飛ばし死亡、親への賠償認めず 一定の理解と不満と
知的障害がある男性=当時(42)=に突き飛ばされて亡くなったマンション管理人=当時(62)=の遺族が、男性の両親の監督義務を問うた大分地裁の訴訟は22日、親への賠償請求を認めず、遺族の訴えが退けられた。知的障害者に携わる人たちは判決に一定の理解を示す一方、犯罪被害者の支援団体は「遺族は怒りのやり場をどこへ持って行けばいいのか」と心情を訴えた。

 知的障害者の親らでつくる「大分県手をつなぐ育成会」の斉藤國芳理事長は、自らも知的障害の子どもを育ててきた。「知的障害者は突発的行動を起こすことがあり、ずっと監督して防ぐことは難しい」として、今回の判決には一定の理解を示した。
 ただ、自身の経験からは「親に法的責任が全くないとは思えない」と複雑な心境を吐露した。自らは「最低限の責任」として知的障害者向けの保険に入り、人や物に危害を加えた場合は補償できるようにしているという。

 知的障害者やその家族を支援するNPO法人「サポートひろがり」(川崎市)の山田由美子代表は、両親が行政や福祉に頼らずに面倒を見ていたことを挙げ「知的障害者は場面や状況の変化に繊細で、福祉の専門家でないと対処できないケースは多い」と指摘。「行政などにSOSを出し、福祉的なサポートを受けていれば結果は違った可能性もある。残念でならない」と語った。

 九州・沖縄犯罪被害者連絡会「みどりの風」の広瀬小百合会長は「刑事責任を問えず、民事で賠償も認められないとなれば、『自分の家族の命は何なんだ』となり、納得がいかないだろう」と遺族をおもんぱかった。自らも犯罪に巻き込まれて息子を失った広瀬会長は、刑事裁判の量刑などにも不満を漏らし「刑事でも民事でも、裁判は被害者に寄り添っていないと思うことが多い」と語った。 
(大分・日田玖珠版)

西日本新聞2019年8月23日朝刊26面

西日本新聞2019年8月23日朝刊21面(大分県版)

今回、この件について書くときに、事件とするか、事故とするか、非常に悩みました。障害がない人が起こしたのであれば、判決も有罪になり、事件となります。ですから、事件と書くべきなのだろうなと思い書き始めましたが、有罪にはならなかったので事故と書き直しました。

もちろん、そこは私が間違っている部分かもしれません。

でも、事故というには、亡くなった管理人は、納得なさらないだろうなとも思うのです。知的障害がある人が起こしたとしても、原告側への補償は欲しいと思います。

あと味が悪すぎるのです。

だからこそ、こういう事故につながらないように、自分たち支援者にできることは何かと考えていきたいですし、この件について、様々な想いに対してフラットな気持ちで、考えていきたいですし、同じようなことが起きないようにもしなければならないのです。

共生社会というキーワードが独り歩きせず、障害があるないにかかわらず、また、お互いさまだねとできることできないことを認め合って、自分のできることで、困っている人たちが少しでも減るような努力を、私はしていきたいと思います。

まだまだ支援者として力不足ではあるかもしれませんが、知的障害がある人の今以上のしあわせをめざし、私ができること、みんなで力を合わせることを一緒にやっていきたいと思います。

風化させず、心に刻んで、できることを続けます。


私の記事への応援をありがとうございます。知的障害がある人のしあわせにつながるための資金とさせていただきます!