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禅とワイン

以前投稿した「『一日一禅』は頭の整理整頓」というタイトルの記事でお話しした座禅のお話。5/1から既に50日、毎朝休まずに続いております。

その時の記事で座禅をしている最中の心持ちについてお話ししたかと思います。

座禅中は色々な考えが浮かぶことは人間として自然なこと。無になろうとか雑念を取り去ろうとは思う必要はない。考えが浮かんだことに気づいてあげることが大切である。しかし、考えが浮かんだことに気がついたらそれ以上は追いかけず意識を呼吸に戻す…これを座禅中はひたすら繰り返す。

いうなればこれが「自分との対話」なのかもしれません。

最近、この行為が「他人との対話」でも同じことなのではないかと思うようになってきました。

まずは相手の話を、まるで座禅の時にフッと頭に浮かんだ考えのごとく、何の先入観や感想を持たず相手の言うまま丸ごと心の中程で留め置く。それから自分の呼吸に意識を戻す…それから改めてその意見に関する自分の反応を相手に伝えても遅くないんじゃないかと。

他人とのコミュニケーションって、「ワインのテイスティングに似ているんじゃないかな?」なんて思ってきたんです。

まずはワインの色を見たりや香りを嗅いだり…まずは外見です。もしワインが変に濁っていたり傷んでいるような匂いがしたら口に含むという行為には移らないと思うんです。

よく「人は見た目で判断するな」といいますが、私はこの言葉は「見た目はどうでもいい」という意味ではなく、見た目は判断基準をクリアしていることが当たり前だが、その見た目の基準を超えている度合いで優劣を決めるのではなく、見た目の判断基準を超えたならさっさと本質部分の判断に移りなさいということだと解しています。

続いて口に含みますが一気にゴクゴクと飲まないはず。一旦舌の上にワインをのせて転がすはずです。同じ話の内容であっても穏やかに諭すように話す場合もあれば、挑戦的な言葉を選び、時には大声で罵ってくる場合もあります。どのような言葉尻で話をしているのか話の全体の雰囲気をまるでワインを舌の上で転がすかのように自分の心の前で転がしてみる…この時点では決して「美味しい」「不味い」「好き」「嫌い」の判断、反応はしないこと…「甘い」「辛い」「酸っぱい」など味の特徴を客観的に捉えるだけ。

そして呑み込んで鼻からフーンと息を吐いたところでやっと自分の好みか好みじゃないかの結論が出ると思うんです。

人の話に対する反応はこのくらいゆっくりでいいんだと思います。

人に何か言われるといつもすぐに反論してくる人がいます。「今までのやり方とは違う」「それなら今までは何だったんですか」…自分のやり方、価値観と違うものを一切受け入れない、他人のやり方を受け入れるとそれは今までの自分を否定することになる…こういう人は口に入れた瞬間にワインを吐き出しているんです…「いつも飲んでるワインの味と違う」ってね。

人というのは色んな出来事に対する反応の選択権は自分で持っているのである。

例えば、「ウチはリンゴ農家で小さい頃からリンゴばかり食べていたから嫌いになっちゃった」と言われると「そ~なのか」と思うし、「ウチはリンゴ農家で小さい頃からリンゴをよく食べていたから大好きなんだよね」と言われても「なるほど」と納得する。

そう考えると「ウチはリンゴ農家で」という事実はその人のリンゴの「好き」「嫌い」に直接的に影響がないのではと思ってしまうのだ。ただ単にリンゴの食感や味が好みか否かという個人的な嗜好が原因であって、たまたまその感想を言った人が「ウチはリンゴ農家で」あっただけであるような気がしてならないのだ。

「嫌い」だったり「断わる」理由を探すのは簡単ですが、「好き」や「受け入れる」または「自分に取り入れられる」ことがないか…じっくりと吟味してみる。

「色即是空 空即是色」…全ての事象は常に変化し続けている…昨日「嫌い」と思っていたことが僅か一日の経験を通して「好き」まで行かずとも「嫌いじゃない」という気持ちに変化しているかもしれない。同じような話でも毎回自分の心に照らしてみると違う思いになるかもしれない…それが自分の価値観の幅を広げること、自分の良質な好奇心の火種になるかもしれないのです。


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