骨と肉と皮

よく夢をみる。その七割五分が自分の好きな様に動ける夢なので、体調が良い時は眠るのが好きだ。
好きだと、思う。
はっきりと胸を張って述べないのはお薬を使用しないと諸事情あって殆ど眠れないせい、なんだか小狡い眠り方の様な気がしていたが好きなバンドの曲の歌詞に『平気さ お薬貰ったし 飲まないし(話がしたいよ)』や『「いいかい君は病気だから」とお医者さんがくれた この薬を飲んだなら深い眠りに落ちるんだ(銀河街の悪夢)』とあるので「生きていく内に、そういう性質になる人間もいるのだろう」と半ば諦めている。

わき道。夏にバンドの話をすると「夏フェス!戦じゃ!」という気分になるね、きっと今年も暑いから参戦組は水分補給と日焼け対策をしっかりどうぞ。湖ステージの夕焼けは良いぞ。わき道終了。

しかし生まれつき身体が弱いのか、幼い頃から突然40℃近い高熱を出したり何回か数ヶ月入院したり熱中症でぶっ倒れたりetc…で「眠ったら二度と起きられないのではないか」と錯覚してしまう睡眠は苦手だ、更に場所が病院で自分では何が起こっているか理解出来ていないのに周りの人々によって自分に関する物事がハイスピードで進む様子を朦朧とした意識で感じ取り突然点滴の針が刺さったりする時は恐怖しかない。
そういう点を考えると私のことを忘れてしまった祖母が最後まで病院のベッドを嫌っていた気持ちが少しだけ理解出来る気がする。まぁ、今更理解した所で満月が崩れ落ちそう様な日に夜空に消えたかぐや姫気取りの彼女の気持ちなんて知りようもないので勝手な憶測。



さて、私がノートを綴る理由は数点あり『あとがき』に記したことの一部を細かく述べると【テーマに沿い、ある程度の文章を書く癖を取り戻す】というものになる。
全盛期は「課題を纏める為の参考資料数十冊に目を通し休憩時間に一日最低一冊は大衆文学を嗜み食卓にあるソースの原材料を読んで覚える」という文字の海で泳ぎ物語に溺れまくる生活をしていたが、電話とメールくらいしか出来なかった携帯がスマホに発展し「色々なことがこの一台で済む(気がするだけ)!」と誤認した途端に読書量は急降下でグラフにしたら断崖状態、おまけに視力もがんがん低下し眼鏡必須。
この流れは「スマホが与える悪影響云々」の話みたいだが「単に使うべき機械に使われる私が愚かなだけだ」というのは理解している。
機械が優秀になってゆくにつれて己の拙劣さが露わになってゆく、つらたみやで工藤。


これだけ長い前置きを連々と連ね本題に入る前に未来予告をしておくと絶賛「不意に浮かんだテーマで書きたいもの」の為に本を読み直すフェア開催中だ。
しかし誘惑の多い現代社会、やるべきこと&やりたいことは数多ある。一日分のやるべきことを済ませ、やりたいことをしようとしても時間は足りない。
入眠が出来ないのをお薬で騙しているだけで、一度眠ると下が三十以下の血圧のおかげか十数時間起きられない人間なので尚更足りない。
しかも書きたいテーマの方は触りだけで千文字を越えたので「起承転結の結まで書いたら前編中編後編になりそう」と思い「ノートの更新が滞る=また書くことを辞める」という悪循環を断つ為、手遊びで何となく夢について語ってみている。ま、これは繋ぎの雑記だわな。


はい、では。
夢。わたしは色々な夢をみる。先に述べた様に七割五分が自分の好きな様に動ける夢。夢に出て欲しい存在や夢で観たい内容を選ぶことも出来る。二割五分で好きな様に動けない夢もあるが、どちらにせよ起きても内容をはっきりと憶えているので『うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと』という言葉が好きだ。

わたしは今、私がこの文章を打っている現実とされる世界が「一つしか存在しない絶対の世界」だとは思わない。同じ形の生命体でも様々な理由や条件で世界の感じ方は違うし、多種多様に変化するからこそ己の感情を伝達しようと試行錯誤する。
そうでないなら我々は産まれた時から意思統一を完了させ他者へ何の興味も感情も抱かない生命体として存在した方が生き易い、シュビラシステムの監視下なら叶いそう。

きっと私達が遠い星へ送ったボイジャーが彷徨いながら今通信している我々の世界と、人類が滅びても尚漂い続け宇宙からみる世界は全く違うものになるだろう。
今のところ、わたしは私達が滅んだ後にボイジャーが眺める世界をみることは出来ない。
しかし、夢の世界をみることは出来る。

わたしは夢を"観る"。

観たい映画を選ぶ様に観ている。
特に嫌なことや怖いことや辛いことがあった時は、さっさと夢の世界へ逃げる。苛々とした表情や怯えた仕草、それを通り越して虚無みたいな姿で周りの人間と接している自分を好きだとは思えず起きている間は"自分に対しては何をされても微笑んで許し悪意には善意を返し存分に眠ること"にした。
素の根性が「ポッター経由で靴下を貰う前のドビーより下」という話は、その内書くかもしれないし書かないかもしれない。
ゆっくりふわふわ、なにもしないを優先し森にいるクマさんと友達になるのが人生の目標の一つ。
そんな理由で、それでもどうにか死なない為、見るだけだった夢を観て感じ楽しむ夢に変えた。
つまりこの文章を書いている世界を諦め、誰も何も傷付けない代わりに傷付けられもしない、凡ゆる物事や人物を遮断した眠りの世界を現実と嘯いた。

だから『うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと』という言葉に一目惚れしたのだ。
初めて読んだ時「遠い昔、似た様な感覚を持った人が他にも存在したのだ」と安心して少しだけ泣いた。
泣いた割に、即忘れた。憶えることと忘れることのバランスが極端で、忘れる時は鶏より早く三歩分も待たずに忘れる。
このノートを書こうと思いついた時も肝心の言葉が浮かばず、直ぐにぐーぐる先生に尋ねた。こういう時「スマホって便利」と思っちゃうから視力がマイナスへ天元突破したのだろう、自分が信じる自分を信じ過ぎた。
そんな十七文字の言葉を探すため近そうな単語を検索に打ち込んだら、余り関係がない夢に関する名言や逸話が多数出た。


これでやっとタイトルの「骨と肉と皮」に繋がる。


普通に生きる上で知りたいことは、簡単に知れてしまう。順序立てて少しずつ知り学び感じるべきことの殆どをすっ飛ばし最深部に安易に飛び込めてしまう。
本来は皮の中に肉があり、肉の中に骨がある。フルーツを食べる時、種を取り出してから果実を食べ皮を剥くことは出来ない。
でも今この世界は、それを可能にしてしまった。
私が「これじゃない」と読み流した名言や逸話の中にも何百頁もある物語を読んだ末に辿り着けばこころに残るものがあったかもしれない。
本の表紙という皮、物語という肉、その中心部で作者の代わりに読者へ何かを伝える為に削り出された骨。
その骨だけを先に覗きみてしまう、なんだかなという感じ。
皮だけみて肉と骨を知りもせず話をする、剰え批評することは個人的には好んでいないが、調べれば大体のことが誰かや何かによって利便的に纏められているおかげで、全く知らないこともある程度は把握出来る。これにより、

知らない情報は減るかもしれないが、
知らない感情は増えるかもしれない。


数日でゲーム攻略が判明する世界。同じ面を試行錯誤しつつ何度もチャレンジしたり、詳しそうな友達に聞くより調べた方が手っ取り早い。何かあれば直ぐネットで送受信する世界。自分の感情や感覚で現実を喰らって処理したり、自分で言葉を考えるより探した方が手っ取り早い。ドキドキやワクワクやドクドクやザワザワ、そんなことを感じている暇があるならさっさと調べれば時間を何かしら有効に使える。
平均寿命が伸びても時間の無駄を嫌い、何に追われているのかも分からぬまま何かに追われ怯え続けるのは根本的に自分が知覚し難いものが怖いままの人間らしい。そうやって、

便利さを手に入れる代償に、

何かを失ってゆく気がする。

それが何だったのか分かるのは、もう少し未来の話だろう。
そんな私達を、いつか遠い宇宙から観測するボイジャーは何を思うのだろうか。




ねぇ、モモ。
時間どろぼうに時間を預けたままで、貴女に助けられない世界は、どうなってしまうのだろうね。

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