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大切だと思っていたものをなくして、途方に暮れた先にあったもの

*この話はフィクションです。

「ごめん。やっぱり、結婚できない……」
直樹は、頭を下げて、テーブルを見ながら、そう言っていた。
一瞬、私は、何が起こったのか、わからなかった。
直樹は、頭を下げたまま、上目遣いで、私の顔を一瞥し、
「本当にごめんなさい」
今度は、テーブルに、頭をつけてそう言った。

直樹と私は同じ年だったけれど、短大卒業の私の方が、会社では先輩だった。
新人で入ってきた直樹の教育係が私だったのだ。
初めは、仕事のことだけ話していたけれど、そのうちにプライベートな話もするようになり、打ち解けた。
直樹は、育ちがよく、優しくて、仕事もよくできた。
直樹に仕事に教えることが楽しくなってきたころ、
「もしよかったら、いつものお礼に、ご飯をごちそうさせてもらえませんか?」
と、誘われた。
その後、今度は、私がごちそうするからと言って、ご飯に行き、何度か、それを繰り返した。
敬語の中に、タメ口が増えてきて、呼び方も、“里美さん”から“里美ちゃん”に変わって、私たちは付き合うようになった。
きっと、この人とずっと一緒に過ごしていくんだろうなと思ったころ
「結婚してほしい」
と、言ってくれた直樹。
私は、本当に嬉しくて、直樹と、何度も、抱きしめ合った。
そして、私の両親に会いに、茨城の実家に、来てくれた直樹を、両親は、気に入ってくれて、父は、怒鳴るどころか、涙を流しながら
「ありがとう。娘をよろしくお願いします」
と、言ったのだ。
私は、その姿を見て、幸せを噛みしめた。
「里美ちゃんのご両親にお許しをいただいたから、もう、大丈夫だ。里美ちゃんのことは、うちの親にも、時々、話していたし、気に入っていたからさ」
そう言って笑う直樹の横顔を、私は、なんの疑いもなく、見上げていた。
それなのに、あんなことが起きるなんて……。

直樹の両親に、翌週、挨拶にいくという日に、私は、突然、発熱した。
初めは、風邪だと思っていた。
だけど、なかなか熱が下がらなかったから、近くの病院へ行って、検査をしたけれど、インフルエンザではなかった。
一週間、熱が下がらず、会社を休んだ。
忙しい直樹の両親との大事な約束を延期してもらうのは、申し訳なかったけれど、体調不良のまま、会うわけにもいかず、会社帰りに、様子を見に来てくれた直樹に、私は、延期してほしいと頼んだ。
「もちろんだよ。元気になってから、いこう。今は、ゆっくり休んで」
そう言って、優しく、頭を撫でてくれた直樹を、私は信じていた。

翌週になっても、熱が下がらなかったので、実家の母に来てもらい、一緒に総合病院へ行き検査をすると、原因はよくわからないけれど、免疫力が下がっていると言われた。
そして、即入院することになった。
一週間、ろくに食べていなかったから、体重も減った。
点滴をし、二週間ほど入院をすると、徐々に回復してきた。
何度も検査をしたけれど、結局、はっきりとした診断はつかなかった。
様子を見ましょうということで、退院し、まもなく仕事にも復帰した。
病院にも、何度かお見舞いに来てくれた直樹だったけれど、仕事が忙しくなったようで、後半の一週間は、来てくれなかった。
退院しても、家にも来てくれず、メールと電話だけだったから、私は少し寂しかった。

久しぶりに会社で会った直樹は、少しやつれているように見えた。
廊下ですれ違った時、
「おはよう。すっかり元気になったよ。いろいろありがとうね」
と言ったら
「おはよう。よかった」
と、直樹は、静かに笑って頷いた。
そこに、少しの憂いがあるように見えたけれど、きっと仕事で疲れているからだと、私は思った。
「今日の帰り、ちょっと時間ある?」
「いいよ。じゃあ、家に来てよ」
「いや、外で会おう。今日は」
「いいけど……」

直樹の指定した場所は、何度も、ふたりで愛を語り合った、喫茶店だった。
約束の時間に、少し遅れて来た直樹は
「遅くなってごめんね」
と、息を切らせながら言った。
「ブレンド」
「じゃあ、私も、もう一杯ブレンドを」
店員が、テーブルから去ると、直樹は、ハーッと大きく息を吐いた。
「最近、仕事が忙しいみたいだね。頑張ってるね」
「あ、うん」
「入院中は、来てくれてありがとうね。心強かったよ」
「あ、うん……あまり、お見舞いに行けなくてごめんね」
「いいよ。しょうがないよ、仕事忙しいだろうしさ」
笑顔で、私がそう言うと、直樹も笑顔になったけれど、やっぱり、少し疲れているようだった。
ブレンドコーヒーが、テーブルに運ばれると
「あのさ……」
と、直樹が思い切ったように言った。
「ん?」
「ごめん。やっぱり、結婚できない……」
直樹が、頭を下げて、テーブルを見ながら、そう言った。
一瞬、私は、何が起こったのか、わからなかった。
私の目は、大きく見開いていたと思う。
直樹は、頭を下げたまま、上目遣いで、私の顔を一瞥し、
「本当にごめんなさい」
今度は、テーブルに、頭をつけてそう言った。
「え? どういうこと?」
事態が把握できずに、私は、半笑いで、そう聞いた。
この前、私の両親に、結婚を許してもらってから、まだ三週間と少ししか経っていない。
その間に何があったというの?
思い巡らしてみても、体調を崩して入院したことしか思いつかない。
あとは……そうか! 直樹のご両親への挨拶を延期したことか! それが原因?
「挨拶を延期したから? でも、それは、申し訳なかったけれど、熱出してたし、直樹にも納得してもらったと思ってたんだよ」
「そうじゃないんだ」
「だったら、なんで? じゃあ、私が、体調を崩したから?」
そんなことが理由のはずがないと思ったけれど、それ以外、思い当たらないから、私がそう聞くと、直樹は、静かに頷いた。
「え? 体調不良なんて、誰にもあるものじゃない?」
「そうだけど……その……原因不明だったじゃん」
直樹は、今度は、しっかりと私の目を見て、言った。
「はあ……」
「母がさ、健康な人じゃないとって……。結婚するなら、健康な人じゃないとダメだって言うんだ」
「元気だよ! 私、元気になったよ!」
「そうなんだけどさ、原因不明ってことは、また、体調崩すかもしれないってことじゃん」
「そんな……」
「だからさ、ごめん。本当に、ごめんなさい」
そう言って、直樹は、もう一度、頭をテーブルにつけていた。
そんなことって、あるんだ……
私は、もっと、詳しく理由を聞きたかった。だけど、これ以上聞けば、聞くほど空しくなる気がしてやめた。
だけど、ひとつだけ、どうしても言いたくなって
「いいよ、もう。結局、直樹は、私じゃなくて、お母さんが大事なんだね」
と、直樹を見据えて言った。
「……」
「信じてたのに……」
「里美さんも、母も、両方大事だと、今でも言いたいけれど……、だけど……、俺の出した結論からは、その資格はないと思ってる。本当に、ごめんなさい。あ、それから、これからも、会社の先輩として、どうぞよろしくお願いします」
椅子の前に立ち、深々と、礼をして、直樹は、伝票を持ってレジに向かって行った。

あっけなかった。
「里美さんだって……」
呼び方も変わっていた。
こんなに、短い間に、人の気持ちって変わってしまうんだな。
ショックだった。
ああ、もう、いっそのこと、会わなければいいけれど、明日から、またずっと顔を合わせるんだ……。
ふぅっと、息を吐いたら、涙が、溢れてきた。
ああ、さっき、直樹の前で泣けていたら、結論は変わっていたのかな……。
「おかわり、いかがですか?」
店員の女性が、私たちの会話を知ってか知らずか、笑顔で、話しかけてきた。
「いえ、大丈夫です」
私は、涙を拭いながら、そう言ってお店を出た。
すると、見慣れた街並みのはずなのに、私は、全然知らない街に迷い込んでしまったような気がした。
そして、知っている人に会わないことを祈りながら、街を後にした。

それから、私にとって、本当につらい日々だった。
あれだけ、偶然、すれ違うことを心待ちにしていたのに、絶対にすれ違わないように祈る毎日に変わった。
運悪く、すれ違えば、挨拶ぐらいはかわすけれど、なるべく関わらないようにしていた。

そして、ひと月後、直樹の転勤の知らせを聞いた。
栄転だった。
最終日、直樹は、私の机のそばまで挨拶に来た。
「大変お世話になりました」
「うん。ご栄転おめでとう。元気でね」
「はい。里美さんも」
久しぶりに、正面から見た直樹は、スッキリした顔をしていた。
なんだか、とても悔しかった。
だけど、精一杯、笑顔でお別れした。

直樹が、職場から姿を消して、私は、気が楽になったけれど、それと同時に、喪失感を味わった。
ひと月前に、直樹に振られた後も、職場で、平気な顔をしないといけないと、気を張っていたのかもしれない。
直樹の背中に「なぜ?」という思いを送りながら、苦しかったけれど、それでも、まだ、先輩、後輩として繋がっていることに、すがっていたのかもしれない。
それもなくなり、私は、この後、どうしたらいいか? と不安になった。
そんな時
「里美、飲みに行かない?」
同期のしおりが誘ってくれて、ふたりで飲みに行った。
「しおり、誘ってくれてありがとうね」
「里美、今日はさ、全部吐き出しちゃいなよ。里美、いいんだよ。直樹の悪口言ったって!」
私は、しおりにだけは、今までのことを全部話していた。
しおりにそう言われて、私は、心がほどけるのを感じた。
「私が言うのもよくないかもしれないけどさ、直樹、本当に酷いよね! 私、悔しくってさ!」
しおりはそう言って、ビールをジョッキ半分くらい、一気に飲んだ。
「しおり、ありがとう」
私は、気持ちがわかってくれる人がいるだけで、嬉しかった。
本当に、悔しいと、私は思った。
直樹が、私の言い分も全く聞かずに、親の言いなりになって、ひとりだけで結論を決めてしまったことが、悔しかった。
「多分、アレだよね。子どもが産めないと困るからなんじゃない? 直樹のお母さんが反対したのは」
今まで、思っていたけれど言えなかった言葉を、私は初めて口にした。
「そんなさ、子どもは授かりものなんだからさ、今健康だからってさ、わかんないのにね」
しおりの言うとおりだと私は思った。
だけど、それが原因で、直樹と別れたというのが現実なのだ。
「なんかさ……おかしいよね?」
私がつぶやくようにそう言った。
「え?」
「人によって、大切なことって違うんだね」
「里美……」
「もしさ、将来、私に、息子ができたとしてさ、直樹のお母さんと同じ立場だったら、どうするかなと思ってさ」
「私だったら、『助け合って、支え合って生きなさい』って言うと思うけれど……」
と、しおりは言った。
「私さ、なんか、ちょっと、お母さんの気持ちわかるかも」
「え?」
「お母さんもさ、直樹という後継ぎをさ、必死に、育ててきたんじゃない? だから、妊娠する確率の高い人と直樹と結婚させるのが、使命だったんだよ、きっと」
「里美……」
「いや、悔しいよ。悔しいけどさ、人が大切にしていることを否定することは、できないと思うからさ。結婚前に、病気になって、私、よかったかもしれない」
そうだ、もし、結婚してから、病気になったら、離婚させられて、追い出されていたかもしれない!
直樹も、もしかしたら、ある意味、被害者かもしれないな。
「しおり。なんか、すっきりしたよ! ありがとうね!」
「そう? 私、何もしてないけど?」
「こうやって、一緒に飲んでくれて、話を聞いてくれただけで、有難いんだよ!」
「だったら、よかった! 今日は、飲もう!」
「うん! 飲もう!」

翌日、私は、スッキリと、朝を迎えることができた。
仕事も、久しぶりに、集中できた。

直樹のいない生活も、それなりに楽しめるようになってきたころ、しおりに、飲み会に誘われた。
「里美にさ、会わせたい人がいるんだ!」
「え? 私に?」
「うん! 家も、里美の実家と、結構、近いみたいで、里美の話をしたらさ、会ってみたいって! あ、彼の知り合いなんだけど!」
しおりの彼は、しおりの大学時代の同期だった。
付き合いは長くて、一緒に住んでいるし、今でもラブラブだ。
なかなか結婚の話にならないのが、しおりの悩みらしいけれど……。
「しおり、ありがとう! せっかくだから、会ってみたい! 私も!」

そして、私は、圭太と出会った。
初めて顔を見たとき、ハッと息を飲んだ。
圭太の顔が、私の好きな俳優にそっくりだったからだ。
かっこよくて、優しくて、非の打ちどころがないから、最初、私は、騙されているんじゃないかと思った。
だけど、会っているうちに、人間らしい一面も見えて、安心した。
私たちは、付き合って、まもなく、結婚した。
そして、子どもも、ふたり産まれた。

今、私は、とても幸せを感じている。

この先の人生も、もちろん、決して、順風満帆というわけではないはずだ。
だけど、また、目の前に、つらく感じる出来事が現れて、もしも、立ち止まったとしても、その出来事に、なんらかの意味を見出せて、受け止めることができたら、止まってしまった時間は再び流れ出すんだろうと思う。
こんな風に思えるのは、きっと、あのつらさを乗り越えてきたからだ。
だから、きっと、これからもどうにかなると、信じられる。

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