女装を愛するわたし(まおまお/女装と思想 Vol.9)

筆者紹介

まおまお 
女装している人が好きな筑波大学の大学生。

(『女装と思想』Vol.9 pp.28-33 より一部修正の上転載)

最初に、『女装と思想』において自分が書かせていただくことになったきっかけと自己紹介を行う。きっかけはあしやまさんに「女装をしている人が好きなんです」と女装している人への愛を熱弁したことから始まる。確かに女装に関する論考において、女装をしている人の内面を明らかにした研究はあるが、女装している人を愛する人の内面を明らかにした論考は少ない。ここでは女装をしている人を愛する人の一事例として述べさせていただく。

まずは私のセクシュアリティについて明らかにしておきたい。ここで明らかにする理由は、女装している人を愛する理由が、自分のセクシュアリティと関連するからという仮定に基づいているからである。私の性自認はAジェンダー(男性や女性という意識がそもそもないこと。無性のことである)である。自覚は幼稚園のときからで、そのときから男性や女性になりたいと意識することはなかった。むしろ「無」である自分を誇らしく思っていたようだ。

そんな私であるが、ひとえに女装している人が好きだとは言っても、もちろん好みがある。私は女装において完璧な女性性というのを求めていない。むしろ男性性がそこはかとなく入り交じっているのが好きだ。このような指向が何をきっかけとして構築されたのか、女装している人に対する感情がどのようなものなのか考えてみたい。

一.セクシュアリティを語ること

そもそも性別の認知はどのように形成されるのであろうか。まず、自己の性別の認知については、生物学的・発生学的要因から捉えるか、文化的・環境的要因から捉えるかという議論がフロイトを始め行われていたようである。生物学的・発生学的視点から見れば、「男女の態度は根本的に本能的で、発生学的に「自主的なもの」として形成されるのだが、文化的要因によって結局筋道をつけられたり、歪められたり、影響を受ける」(コールバーグ、一九七九、一三五頁)ということになる。そして文化的・環境的視点では、社会的学習論を踏まえながら「男女それぞれが、いわゆる「正常に」性に応じて自己を形成していくことは、賞罰や観察学習を通して、文化的役割パターンを素直に学習していく結果であり、一方、いわゆる異常な形成というのは、教育の失敗とか、社会化を促進する人々が強化しそこねたとかして、正常なパターンを学習しそこねたり、歪んだモデルの行動を学習した結果」(コールバーグ、一九七九、一三六頁)ということになる。

Aジェンダーで女装している人を愛する私は、「正常な」性からはかけ離れた存在であるということが言えよう。ローレンスは認知論の立場で、性別の認知について、双方の視点を「相互作用的」に見ていくことが必要だとしている。マネーとハンプソン(Money, Hampson, Hampson, 一九五七)の研究によると、子供は五歳までに安定した自己の性別を身に付けるのだという。自己の性別を固定化させ、「男性に対する価値、女性に対する価値は、自分と似ている人や、同じような人を良く評価したいという欲求」(コールバーグ、一九七九、二五〇頁)に基づき、「類似性を基にして対象を分類し始め、年齢に関係なく同性を彼らの分類に加え」(コールバーグ、一九七九、二〇九頁)、それぞれの性別に対する価値観を発展させていくのである。

幼稚園児で男の子にも女の子にも馴染めず、無性であることに満足していた場合、類似性に基づく分類は、同じように無性か、性性別が一見わからない人、あるいは性別というカテゴリー以外で行われるようになるということが言える。

性別の認知の形成については以上の通りである。次にセクシュアリティについて語るとはどういうことなのかについても述べておきたい。筆者は普段、フィールドワークに基づいた研究を行っており、様々な背景や価値観を抱えた人々と出会い、話を聞くことが多い。その中で、人々の内面にあるセクシュアリティや、生に対する試行錯誤や選択をどのように捉えていくかということについて考える機会が多い。その捉え方を従来の方法論を踏まえてごちゃごちゃしているのが、今の筆者の状態である。

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