見出し画像

【戦争回顧録】厳格なようで、陽気、気さくにお話しされるのが好きだった印象の、KS 氏の自分史③『マンダレーヒル(丘)死守』『敗亡・終戦時の思い出』

仲の良かった幼馴染みは、町民を愛し市民のためと議員職を全うされたKS氏のご家族と自治会の組が一緒だったことから、とても親しかったです。私が親しくさせていただいたきっかけは彼女でした。
それにしても、自由に遊ばせて頂き、本当によくかわいがってくださったなぁ、と。すぐに当時のみんなの笑顔が浮かびます。


平成5年 記 続き

マンダレーヒル(丘)死守

 印緬国境インパールの戦いに敗れた日本軍は、ビルマ、マンダレーを死守して反撃の砦にする作戦がたてられ、我が67連隊に「マンダレーを死守せよ」の命下る。しかし、英印軍の空爆と機甲隊の猛攻に手が出せない。爆薬、食糧なく敵のなせるまま。マンダレーの市街地に続き王城があり、その東隣りにマンダレーヒル(丘)約200mの高さ、私も連隊長と共に階段を数十人で身体を伏せながら一歩一歩登りはじめる。英軍はゴウゴウと戦車を先頭にこのヒルを包囲している。ヒルの屋上に登りつめた頃、空から爆音けたたましく機銃掃射を浴びせてくる。小隊長より「S、S`2名は前方(10m下)の建物に入り前方の敵を狙撃せよ」両名は建物に滑り込む。10坪ほどの倉庫のようである。窓に銃を据え両名は、下の方より戦車を盾に我が方に機銃掃射する敵兵めがけて狙撃を開始するや、この建物にも敵の掃射を浴び始めるや、相棒のS`君の耳が飛ぶ。S`君を励まし「これまで」と建物を引き揚げる。このヒルの頂上の建物は約1m程の壁に閉ざされて、戦車砲を受けるとぐらぐら。低い天井に砲撃をくらうと2~3人の死傷者。その中で連隊長は抜刀されて、グルカ兵であろう手榴弾を投げ込む兵に応戦されている。「衛生兵アルコールを」誰かが叫ぶ。K衛生兵がアルコールを軍旗が横にしてある下に置いた。何時でも点呼ができ、軍旗を一瞬に焼けるよう準備がなされた。
 連隊長も最早、最後と決断されたのであろう。このヒルの周囲を完全に包囲した英軍の戦車からは、「ドンガン」「ドンガン」と打ち込んでくる。私は耳をつんざくような、この「ドンガン」にはへきえきする。
 時、将に昭和20年3月10日陸軍記念日であった。私には終生忘れない日であろうとその時感じ、今日もあの戦場は忘れられない。
 しかし、日没になると砲火は静まった。負傷者のうめき声のみする。手当を済ますと「マンダレー王城内に進撃せよ」との命が下った。ヒルから降りるのには階段を軍靴を脱いで静かに降りねばならない。綿のように疲れた身体に鉄砲他荷物もあり、負傷者を抱えながら交代で降りる1000段の階段には、私は負傷した戦友、戦死した友のことを思えば、つらさは、、足一歩一歩階段を降りる。患者は痛みを訴える。「声が高いぞ」と注意が伝達される。漸くヒルより降りて王城内に入る。兵舎らしい処に腰をおろし一息つくや、負傷した戦友が腕をだし、「ありがとう」と握手のしぐさで涙をぬぐう。やっと城内警備についたら、転進の命が出て城外に無事脱出できる。

敗亡・終戦時の思い出

 マンダレーヒル死守する1ヶ月前に私は、第8中隊を離れ連隊本部の暗号班付きになり、連隊長の近くで行動を共にした。
 ビルマ王城を3月11日早朝脱出後、我が67連隊本部と共に行動し泰国にむかって転進(撤退)をした。シャン州のサルウィン河を渡河、ジャングルを2㎞程入った頃、英軍の爆撃機に襲われ爆弾を投下され塊がバタバタ落ちてくる。一寸先が土煙で見えない。ジャングル内の木々が折れて落ちてくる。珍しくない光景であるが気が落ち着くと自分の五体を調べるが本能である。いつの間にか手が身体をなめている。べっとりついたのは山土で血はついていない。神仏のご加護、手を合わせ、何時か自然に南無阿弥陀仏を唱えていた。
 連隊長はご無事かな、5m右に木に抱き付いている一本足案山子兵がいる。連隊長の当番兵が私を呼んでいる。聞けば「歩けない。連隊長の書類鞄頼む、連隊長を探してくれ」と叫ぶ。書類鞄を肩にかけ20分程右往左往すると、ご無事な姿の連隊長に接し胸をなでおろす。
 2日後にマラリアで高熱に襲われた私は隊長の後を追求しますと、部落の入口にいた、確か列師団の30名ばかりの隊に世話になる。5日程たって私一人で連隊本部の向かった方向にスタコラサで追求する。大変3日目には食料皆無、軍服はオンボロ、栄養失調の敗残兵よろしき姿で野良犬のように食えるものはなんでもと・・・
 部落に入れば土人を探し残飯あれば黒い手でかき集めて貰う。日本兵に会えば少ない中から少し貰う。飢えを凌ぐためには案外と知恵がでるものだ。
 竹薮が道路ぞいにある処に河がある。水腹で時間も一時保つ、夜も河淵に眠る。三三五五に撤退する日本兵に会い話すうち、もう少し先の川淵には気を付けろ、虎が居る、と土民の情報だと言う。右手1km向こうにウォーと重い動物の吠える集団、よく見れば親子交わる象が一団となって歩いている。”くわばら、くわばら”このように私は進む方向と道は多くないし、他部隊の兵も後から来ても先に行くし、日本兵の屍も少なくない。此の道を白骨街道と呼ばれているらしい。敗残兵の立派な一人旅の私は、8月10日頃に大木のある広場100名近い日本兵の駐屯地に着いた。嬉しくて涙する。通信隊と衛生隊が駐留して衛生隊は我々のような個々の撤退兵の処理と手当している。私は部隊名、官、姓名を名乗り救助方を依頼する。「患者は多く居るなぁ-」と思ったが、夜が白々と明るくなる頃、担架を持った衛生兵が死亡した患者を担架で集め広場の西側の大穴にころがし、土砂をバラバラまく程度、毎日4~5名は捨てられると言う。2,3日過ぎた日に歩ける者は広場に集まってくれと伝達が来る。不吉に感じたが、通信隊の班長から、先程この情報を得たと話す。
「この戦争は終りました。」戦争に日本は勝ったとは言わない。衛生兵は、「患者諸君、穴には埋めたくない、元気だせ、日本に帰れるぞ」ハッパを掛ける。私は咄嗟に次のことが脳裏にひらめく。「日本に帰る時、ジャワに立ち寄って、たくさん持てるだけの白砂糖を背負って帰ろう。お母さんに、ぼた餅をたくさん作って貰って、みんなで食べよう」と食い気の欲望に満ちる。
 この日より4日後より、患者で象の背に乗せた籠に左、右に2名乗り高原地帯で徒歩も困難な処は、象を操る土民に運んで貰う事になる。一日3里である。道は険しく谷底には大河につながる河があり、私も像の背よりワニの親子を眺めた。象はその中をとぼとぼと抜ける。象の一本足の巾あれば谷底かまわず道を行く。乗せて貰ってるのが患者であり、象の歩く振動大きく長時間の長距離は無理でした。辛うじて、その日暮らしの栄養失調の身体敗残の身である。一兵卒がその頃の実状など、わかろう筈がない。日本に21年秋復員船にて送還されて、初めてわかったのであるが、幸いにして泰国で終戦を迎えたために捕虜として収容される事もなく、投降兵として扱われたので、又復員船に揺られても無事帰還できるように体調の回復療養に配慮された、暖かな取扱いに感謝せずにはおられません。復員を目前にして共に寝起きしていた九州の友が死亡され、誠にお気の毒でありました。復員列車で稲枝駅の木製のあの改札口に立った時、暫く駅舎を眺め確認した時の感激は終生忘れる事の出来ない嬉しい一瞬であり、祖国再建の誓いを亡き戦友に捧げた一瞬でもあった。



お立ち寄り、ありがとうございます🍀
読んでくださって感謝します。



サポート大歓迎です!創作活動等に使わせて頂きます。