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3.11前に振り返る。

体当たりNPO運営記(10) 2016年2月記事
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東日本大震災と原発事故から間もなく5年。
わたしがNPOを設立する決意を固めたのは、間違いなく、3.11が大きな契機となっています。

幼い頃から原発のリスクとおそろしさを母に聞いていました。大学時代に起こった東海村での臨界事故を知り、大学のゼミの仲間たちと原子力エネルギーについて調べました。この狭い日本で原発事故が起こること、それがわたしにとっては長年、最も大きな不安のタネでした。

震災後、津波に飲み込まれる東北の沿岸部をテレビで見ながら、2歳になったばかりの娘を抱えて震え、涙しました。そして原発が次々に爆発する映像に、これまでの当たり前がガラガラと崩れていきました。わたしが考えうる最悪の事態が起こったのだと思いました。水が汚れ空気が汚れて、窓を開けられない日々が何週間か続き、家の中の空気が淀み部屋にカビが生えました。
桜が咲き、少し外に出てみようという気になった時に、わたしはやっぱり、この地域が好きだ、ここで生きていこう、と心に誓いました。

3.11直後、誰もが、このままではいけない、何かしなければならない、そんな気持ちで奮い立っていたと思います。
わたしに関して言えば、2010年に始めていた「顔の見えるエネルギー」という連載をしていたおかげで、日本や自治体のエネルギー政策や各地の自然エネルギーの取り組みについてある程度、知識がありました。「30代、エネルギーのことをちょっと知っている女子」という特性で地域の役に立てないかと考えて、いてもたってもいられずに始めたのが「地域の女性たちがエネルギーについて学び、主体的に新しいエネルギー社会を創る」活動で、「あざみ野ぶんぶんプロジェクト」と名付けました。
化石燃料や原発に頼らざるを得なかった日本のエネルギー事情を知ることから始め、対立軸を生まないことを唯一のルールとして、勉強会を続けていきました。ぶんぶんを始めるまで、わたしは「編集者はあくまでも裏方。黒子に徹する」という信条をひるがえし、自分の名前と顔を出して積極的に発信するようになりました。人前でしゃべる経験も、ワークショップを運営するのも、ぶんぶんがスタートです。ともかく、本気で世の中を変えたいと思って活動していたので、恥ずかしいとか経験がないからと、言い訳を言っていられませんでした。わたしはその時、肝を据えた、確実に橋を渡ってしまったのです。

震災から1年経ち、2年経ち、5年経ち、あの時一緒にやっていた仲間も、それぞれの事情から離れていった人、森ノオトのNPO会員として応援し続けてくれる人、事業を立ち上げた人など、いろいろなグラデーションがあります。あざみ野ぶんぶんプロジェクトは、たまプラーザぶんぶん電力で発電事業を、森ノオトで発信と啓発事業を引き継ぐ形で、いまでも続いています。

エネルギーシフトへの活動を持続し、思いを実現に持っていくためには、仕組みをつくっていかなければ難しいことも痛感しました。「気持ち」「思い」だけでは、震災から時が経つにつれ、気持ちが薄まっていった時に、活動自体が存続しなくなります。だから、わたしは森ノオトをNPOとして設立して事業化し、梅原さんや青木さんと一緒に、たまプラーザぶんぶん電力を会社として立ち上げました(こちらも昨年1年間は我慢が続きましたが、ようやく様々な芽吹きがありそうな春先です)。

「気持ちはあるけれど、時間の制約や家族の事情で活動できない」人のために、NPOは存在するのだと思います。直接時間を費やさなくても、会員として活動を応援することで、わたしたちの活動の後押しになります。それは、立派な「活動」だと言えるのです。

そして、3.11を原点としたエネルギーシフトへの思いを絶ち切らずに、NPO会員として応援しこのメルマガを受け取ってくれているなかまたちに感謝して、森ノオトはますますパワフルに活動を続けていこうと心を新たにするのです。

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