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命の価値を問いかける異類恋愛譚ー笹塚心琴『ご縁があれば』評

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こちらのエントリーは
第1回透明批評会 8月度 笹塚心琴さんの『ご縁があれば』の批評となります。
先に本編をお読みいただくことをお勧めします。

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主人公、橋場詩織は「三十路を控えたにもかかわらず、恋愛のひとつも経験せず」「「生きる意味」について悩み続けて」いる。そんな彼女が、あろうことか死神に恋をするーー。
『ご縁があれば』はそのように展開する恋愛譚です。

主人公と、死神である秋野道草との出会いは「ご縁」という一語に集約されます。
本文の中で縁についてはこのように語られます。

「ご縁とは、丁寧な、より糸のようなものです」
 秋野は穏やかな口調で、こう断言してくれた。
「あなたが、自分の手で手繰り寄せてくれたんです」

このように秋野が語りますが、最初に恋に落ちたのは秋野の方だと考えられます。
それは、渡した絵の裏に名刺が貼られていたこと、その後、偶然を装い相席すること。街をダシにして好みだな、と口にすること、などなど。アプローチは常に死神である秋野から仕掛けられています。ただ、死神は恋することはできても、それを伝えることには制約があるようです。自分の正体を明け透けにする割には、縁を強調するだけで、決して踏み込もうとはしません。
しかし、詩織が行動することによって、歯車が動きます。

詩織は、秋野との出会いを求め、高尾山に向かいます。しかし簡単に出会うことは叶いません。
それで、泣きながらそばを食べる。
三日月を見てクロワッサンを思い浮かべ、麦茶を飲みながら泣く。
そんな落ち込んで顔を伏せて泣いている詩織に、ついに声がかけられます。

ふいに「その声」で話しかけられて、詩織の心拍数は跳ね上がった。ゆっくりと顔を上げると、そこには確かに、秋野の姿があった。秋野は話しかけた相手が詩織だと気づくと、「あらら」とわざとらしく両手をひらひらさせ、
「ありましたね、『ご縁』」

と笑う。
この時、ほっとしているのは秋野の方だと感じられます。
死神は、より糸を渡すことはできるけれど、自分から誘うことはできない。その制約に関する描写はないものの、それは強いものであると考えられます。
或いは、秋野自身の身を裂くようなものであるから、迂闊に恋愛することができない。

小説を読み終わった後、私は登場人物のその後のことを考えました。主人公達の行く末について、思いを馳せます。

異類であるにも関わらず、ふたりの仲むつまじい姿。それはやがて、本作のラストシーンで主人公詩織が望む願望の成就をも想像させます。その願望とは、

「……あのね。私が、しわくちゃのおばあさんになったときには」
「うん」
「おっきなキャンバスに、私の肖像画を描いてね」

その願望が叶う時、主人公は老婆となっているのに対して、死神である秋野道草はその若さを保ったままでいるでしょう。主人公はすでに予感しているので、あえて大きな作品を、と言っているように感じます。つまり、大作に取り掛かる死神の、それに挑む体力は失われないでいること。おそらく若いままの姿で、カンカン帽もかぶったままでいること。
そして、普通のカップルよりもいくらか長い時間、ふたりは寄り添うことが出来ます。死んだ後に(高尾山を通った後)どこに行くかは、この作品では描かれませんが、死神は人間よりも死後を長く見ることが出来るようです。

異類恋愛譚は、寿命の違いがドラマを生みます。

橋場詩織は、生きることについて

生きていること自体に、意味が溢れているからだ。

と、その長さに頓着しません。

寄り添うように歩くそれは、生きることをまっすぐに肯定した者たちの姿だ。

とも表現されます。

秋野道草も寿命のあり方の違いを隠しません。

「どうか僕のそばで、命を全うしてください」

彼が死神であると決定するならば、これは非常に重い意味を持つプロポーズに他なりません。老いてゆく詩織のそばを離れないこと。それに加え、死神という立場は、彼女の死期をいち早く知るということでもあるからです。

この物語では、死について多く語られます。

橋場詩織は『いつ死んでもいい』と考え、それを秋野に見抜かれています。
それではと、詩織は死神に「人が生きる意味って、なんなんですか」と問いかけます。
死神の答えは哲学的です。

「あまねく命に優劣がないのと同じです。意味を求めると価値の上下が生まれてしまう。すべて尊いんですから、生きることに意味なんてありません」

死神にトロッコ問題を出題したら、どのように答えるでしょう。超現実的な解決方法を示してくれるでしょうか。名簿を確認し、それは事故だと言うでしょうか。すべてを尊いと言う死神の答えがとても気になります(これは思考実験なので意味のないことではありますが、興味があります)。

それとは、別の問題として、自殺に関するやり取りも展開されます。
秋野がこのように語ります。

「自ら命を手放すというのは、悲しいことです。命は、どんな理由があっても奪われてはならない。命とは、全うするものです」

この言葉によって、秋野自身が苦しむでしょう。橋場詩織亡き後も、ずっと長い時間を生きる彼でしょうから、火傷の傷は、むしろその時に痛み出すのではないのか、と想像します。

このような困難が想像される中でも、恋をする決断をしたふたり。
そんな彼らに祝福が多いことを願います。
物語の最後で、二人は山の中へ静かに消えていくことから、詩織は死神の住まいへ向かったものと思われます。変わった人生を歩む決意は、そのライフスタイルの変化も当然、含まれます。

大往生した男性を見送った

詩織は、人ならざるものの世界にすでに属しているのでしょう。

もしかしたら、死神は、人間の何世代もに対して(つまり何人もの人間に対して)このようにして生きているのかもしれません。ロマンチックさをやや欠いてしまいますが、死が二人を別つまでだとしたら、それはそれで美しいことかもしれません。

『ご縁があれば』は、命の価値について、考えさせられる短編です。

生きることに意味はないが、生きていること自体に、意味が溢れている

本文のこの文章を、私は、生きることに意味はないが、生きようとすることには意味があると読みました。それは、高尾山の場面で、つらいながらも食べることを考える詩織のバイタリティが、秋野を呼んだと読み取れるからです。

生きようとする力が縁を結ぶ、そのようにメッセージされている物語であると思います。

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