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七草にちかの半年を振り返りたい

はじめに 

シャニマスの話をします。

 私は七草にちかさんのコミュを大別して、WING及び【♡まっクろはムウサぎ♡】【OO-ct.――ノー・カラット】を春にちか三部作、【ヴぇりべりいかしたサマー】【アイムベリーベリーソーリー】【一億回めくらいの、その夏】の3つを夏にちか三部作と勝手に呼んでいます(ノーカラは時期的にはヴぇりべりと同じだけど内容的にははムウサと連携していると思います)。その上で、前者は自分自身とその願いの解体・再構築の物語・16年の堆積を見つめなおして再出発するための序章、後者を自分を自分として進んでいくための物語・幸せになるための器を形作る第一章と捉えています。そしてこれらは「あい」という言葉を道筋として幸せという行き先に辿り着く一連の流れであると考えています。そういう話をします。考察というよりか自分なりの理解と願いを整理したものです(というか、考察という表現がしっくりきていない)。当然ながらこれらのコミュのネタバレを大いに含みますのでご注意ください。
 追記:シーズ感謝祭及び浪漫キャメラ1号についても多少触れます。画像1枚だけですが恋鐘GRADと円香GRADからの引用もあります。

にちかを取り巻く3つの「あい」

 3つの「あい」だとか愛とは何ぞやとかそういう話を大真面目にするのは結構照れちゃうんですが、当のシャニマスがそんな感じの話をしている以上ちゃんと向き合ってみようと思います。
 「あい」とはイベントコミュのアイムベリーベリーソーリーにおけるキーワードでした。そして、このコミュ自体がにちかさんにとって重要な話をしていたように、この言葉も重要なものだと考えています。それも、このイベコミュの枠を超えて、にちかコミュの根幹の一つとすら言えると思っています(あるいは、シャニマス自体がそういう話であるとすら)。

あい→Eye

 目、視覚、見るという行為の話。これはSHHisというユニット名にも関係してくると考えています。すなわち、SHHisが植物モチーフのユニットで種を意味するseedsにかかっているというのは各所で言われていますが、見るを意味するseeの三人称単数現在形seesにもかかっているのではないかと。これは語呂合わせのために無理くり三単現にしたというわけでもなく、"誰か"に見つけてもらいたい、"評論家"の目に留まりたい、"プロデューサー"に、"美琴さん"に見てほしいと願う彼女にとって、見る、見つける、視界に入るという行為の主語は大抵の場合三人称単数現在形を取ってきました。つまり、目、見る、視界といったモチーフを他者からの承認の象徴として理解しているというわけです。

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 一例。思い出アピール成功時の台詞が「見て!」なのも示唆的ですね。


 視界というモチーフに関連して、立ち絵が画面端に配置されたり上の空でにちかさんが視界に入っていなかったりといった描写から、WING編におけるシャニPはにちかさんを見ていなかったという言説があります。これについては私もある程度同意しています。しかし、シャニPのこういった姿勢はこれまたしばしば言われるようなにちかさんの無能・つまらなさによるものでもなければ、シャニPの無関心・無責任・失望によるものでもないと思います。

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 全てWING内の描写です。プロデューサーはにちかさんの凡庸さを認識しながらも彼女なりの良さをしっかりと捉えていることは忘れたくありません。


 シャニPという人物は元々、個人の輝き・各々の個性・その人の内にある心の底からの願い・直感的な感情といった、個人そのもの、あるいは純粋さ・刹那さのようなものに敏感です。そしてこれらは報われ、十分に発揮されるべきだ、されてほしいという信仰にも近い願いを抱えています。以下は恋鐘GRAD及び円香GRADの引用。

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 彼は「なりたいアイドルになっていい」を信条としているけど、にちかさんはそのなりたいアイドル像が、肥大化した憧れとでもいうべきものでした。にちかさんのことを見たくても彼女は自分を出すことを忌んでいます。そして彼女はアイドル像に囚われ、いつしか苦しむようになっていきます。
 個人や純粋さを貴ぶ彼はにちかさんの良さを捉えると同時に「彼女の輝きを阻害する彼女自身に根付く何か」を言語化しきれずとも鋭敏に感じ取り、それゆえに戸惑い、逡巡したのでしょう。

 シャニP擁護に少し話が逸れていきました。いずれにしても彼はにちかさんについて迷い、上手く見れておらず、心の動きがどうであろうとにちか目線で「見てもらえていない」という実感に変わりはありません。【♡まっクろはムウサぎ♡】においてはそういった彼への不満が別角度から描写され、自分自身への不満と重なりながら爆発します。

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 上手くいかない自分と、既にいっぱしの大人として仕事に励むシャニPとの対比に生まれる疎外感。


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 自分のことを見てもらえていないという不安。

 にちかさんのこのような感情はノーカラットのそれと重なってくる部分があります(というより、そもそもノーカラットははムウサと共鳴し合う部分が多いコミュです。メタ的なことを言うと、はムウサは誰もがすぐ読めるわけではないが内容としては重要な話をしており、実装したてのユニットについてユーザーの理解の足並みを揃えるために誰もが読めるイベコミュ内で要旨を重ねようという判断と邪推したり、余談)。


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 ベテランに囲まれたルーキー。大人たちの間で話が進んでいる疎外感。

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 自分がパートナーたりえてないこと、美琴さんが自分を見ていないことへの不安。

 こういった理解を踏まえると、このセリフがいかに重要かというのを実感します。

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 破滅的な方法でここに至ってるのに少し不安というか、「美琴のために踊れる」をそう調理するかっていうか、何かとビビるポイントではあります。

 伝えたいことはダンスで伝えればいい。パフォーマンスで人を感動させるアイドルに憧れた2人だから、パフォーマンスを介して見合えればいい…とは言い切れません。にちかさんは八雲なみの圧巻のパフォーマンスだけでなく、そこに宿る悲しさ、付随する家族との思い出も含めた感動を抱いているので。とはいえ、それら全て含めて成り立つ2人になってほしいとも思います。

 というのも、SHHisの楽曲『OH MY GOD』にこんな歌詞があるからで。

You & I 持ち合った
Eye to eye それぞれ
視線は違えど We set the same target

 Eye、視線、人称代名詞といったキーワード。

 この「視線は違えど We set the same target」という部分は、SHHisというグループの成立の仕方を端的に表しているんだろうと思います。パフォーマーとしてのアイドルという目的を、どんな立場・能力・出自から見ているか、どんなものを通して見ているか、それぞれ視線は違っていても見据える先は同じだと。そしてそれは、Eye to eye、互いが互いの瞳の中に見出すものなのかも…しれません。

あい→愛

 現在、シーズの2人はどうにもビジネスパーソン的な側面が強く、悲観的なにちか視点がメインで描かれるために2人の間の友和すら疑ってしまうこともあるかもしれません。しかし、そういった衝突がいずれあるにせよないにせよ、私は2人の関係性についてあまり絶望していません。ノーカラット及びアイムベリーベリーソーリーを跨いで描かれた双方向性を信じているからです。

 あいは通貨ではないし、まして自分を削ってまで渡していては苦しい。だから、カモメがくれたあいは全てカモメに渡す。それを繰り返すことが自分に嬉しい。その交換、その双方向性。愛とは、無邪気で無反省な2人の「間(あいだ)」そのものを指すのでしょう。渡すという行為が要であり、2人はあいのことは省みず「相手(目の前に相対する者、あいを渡す手受け取る手)」を見る。それゆえ、その愛(あいだ)を認識して「愛だ」と言葉に出来るのは2人の双方向性の外の人物、見守る人物だけです。


 シナリオ中、「愛」という漢字を使う人はプロデューサーとトレーナーの2人のみです。

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 美琴のために危険を顧みず踊るにちか、にちかのために根気強く付き添って踊る美琴。省みることのない、衝動的な身体性の差し出しあい。2人の交換はまだまだチグハグで危なっかしくてぎこちないけれど、いずれ愛が芽吹く種がそこにあると、彼らは予感しているのではないでしょうか(余談ですがプロデューサーに関して言えば、彼もまたアイドルたちとの愛の交換と循環の中にいる人物の筈です。これは物語上の立場だけでなく、彼の傍観者としての卑下に近い自負・自意識が、愛を認識する側にいさせているという側面がありそうです)。

 にちかさんは現状美琴さんにどう見られているかという内向的な力が強く、美琴さんの言葉足らずさや沈黙の中に必要以上の意味を見出してしまっているように見えます(「聞こえないの、沈黙が、うるさすぎて」ということかもしれない)。自分から自分に向かう力ではなく、自分から相手に向かう力と相手から自分に向かう力の双方向性の中に身を置ければ。相手の愛を受け取って、I、すなわち自分自身を受け止めて、愛を返せるようになれば。そう願います。

あい→I

 そんなにちかさんがIを受け止めるための物語、Iを形作っていくための物語は、プロデュースコミュを通して少しづつ描かれています。

 破滅的な変身願望にまで肥大化した憧れを、アイドルとして苦しみ、八雲なみの心のうちを垣間見る中で、魔法が解けるように夜に溶かしていったWING編。プロデューサーからの視線を試し行動的に確認し、世界に、景色に、日常に気付き、憧れを自分のものにしたノーカラット、はムウサ。

 自分の情けなさに直面し傷つきながらも、受け止めて前に行く、確かな努力と心を培ったヴぇりべり。美琴さんの愛を受け、真乃さんの「自分の為にやることを喜ばしく思える」様を見たベリソ。

 特にヴぇりべりはこれが印象的です。

にちか

 ヴぇりべり1凸フェス衣装台詞。「見る」の話でもありますね。フェス衣装台詞がそのアイドルのどの時点の心情を表しているかは元々定かではありませんが、これはヴぇりべりtrueよりも後の台詞に思えます。美琴さんの顔色を伺い、自意識に振り回され、情けない自分を振り返っては傷ついてきた彼女が、傷つくことも含めて自分を受け止めだした末にこうも勇ましい表情で前を見据えられるようになるのなら、この上なく喜ばしいものです。誰かに見られるんじゃない、自分が見る。誰かではなく前を見る。
 ちなみに無凸台詞も含めこれらの台詞は声色も素晴らしいので、持っている方は一度聴いてみるのをオススメします。自分はこれのためにはづきさんを使いました……。


 そして、【一億回めくらいの、その夏】。
 私はこれを書きたかったんです。これの感想文をnoteに纏めたかっただけなのに、色々考えてたらここまで伸びてしまいました。長かった。良かったね~と言いたかっただけなのに、あまりに時間がかかった。

一億回めくらいの、その夏

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 にちかさんが諸々のコミュで見せた捻くれ方尖り方は、言ってしまえばありふれています。ただそういう捻くれ方にいたる自己評価・分析に深浅は関係なく、とてもシリアスなものでもある(そしてある程度的を射ている)。彼女は自分のことはどうしようもないくらい分かっている(と思っている)し、常に何らかのリミットに追われている。それゆえに自分も自分のやることなすこともいちいち許せなくなってしまう。

 だからこそ棘を出さずにはいられないんだろうと思うんですが、このコミュでは、残された時間に苛まれ続けた彼女が過ぎ去った時間を惜しむくらいの心を養えたこと、自分の過ごした夏を率直に惜しむような感動が自然と湧き出ていることが描写されていてとても嬉しかったです。私はにちかが率直になる瞬間に潤む涙腺を持っています。

 彼女の幸福は彼女自身の納得がないと生まれようがない、彼女にそんな余裕はない、そしてそれらは他人がたやすくどうこうできる範囲ではない。それでも彼女の幸福を願うシャニPが、互いに無邪気になって海で遊んで夏を惜しむ姿に報われた気がしました。
 にちかのカウントとシャニPの独白が交差するシーンの美しさは凄い!


 思い出アピールの名前もニクい。
 TRUEコミュで彼女は最初に1、2、3…とカウントアップしていき、その後10、9、8…とカウントダウンしていきます。

 これを見ると、思い出アピール名の「1、2、3」は最初のカウントアップのことかとまず思います。

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 しかし思い出レベルマックスにすると[3、2、1]というカウントダウンがアピール名の前につきます。

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 これによって、「1、2、3」という名前は最初のカウントアップのものではなく、少なくとも3回目以降のものじゃないだろうか。彼女は、カウントダウンの後にまた数え始めたのかもしれない。といった想像が膨らんでこないでしょうか?
 このシステムが「思い出」の名を冠することも相まって、まったくもってニクい!

 
 カードタイトルは、カウントが一億回めくらいまで続くような、続けていたいような夏だったってことでしょうか。

 あるいは、特別や変化に憧れながらも日常に追われていた彼女にとって、いかにも何かが起こりそうな夏も大して変わり映えの無い日常の一部だったかもしれない。

 いつもの夏を繰り返して、一億回めくらいの夏はようやく、彼女の憧れと日常が堆積し続けた今がようやく、
 そんなニュアンスかもしれない。

感謝祭・キャメラ

 執筆に時間をかけすぎて、書いてるうちに実装されてしまいました。この記事の名目は「七草にちかの半年を振り返ること」ですし、この2つに関しては次のイベコミュを待ちたい気持ちも強いので、箇条書き的に軽い所感を投げます。

・感謝祭
 長いスパンで描くねぇ……。「できない」と言えたことはヴぇりべりで得た一歩を感じさせます。ただ、その一歩は確かに前進してはいるけれど、あくまで小さく、直ちに"正解"を導きはしない……という崩し方は苦しいが真摯。
 コミュタイトルの「0 0 0」が次で1000カラットの物語になるという読みを巷で聞きますが、「わたし(she)がわたし(she)になるための」も次で利いてきそうですね。
・目指すアイドル像が似ていること
・そこに至るには生半可な努力ではいけないこと(同じステージに立てる存在でなければいけないこと)
が2人を組ます大枠の理由なんだと思いますが、今回は主観客観の別はあれど互いが互いの台になることでこれを達成してしまっていました。これが、自分が自分であることが彼女が彼女であることに並列するような輝きに至っていくのがシャニPが望んでいる未来、なんでしょうか。

・キャメラ
 これも「見る」の話の一つでした。着地点と言うには心許なく苦しさもあるものの、被写体・アイドル・見られる側として同じ場に立っていることとその意義を確認したのは進歩……でしょうか。重要な一歩ではあると思います。にしてもここで「そうか」なんて超重要なタイトルを使うんだ……とも。

終わりに

 ここまでにちかコミュを纏め、願望をつらつらと語ってきました。とはいえ、この願いが裏切られたとてそれでいいと思っている気がします。シャニマスに対してはもう「お前のしたいことをしてくれ」「ただ在れ」という姿勢が染みついているから……というのもあるんですが。願うというのもある種身勝手なことだよな……と思うのです。新曲のこともあって、斑鳩ルカに関しては特に強く感じます。救いたいとか救われて欲しいとか思うことの身勝手さ、そう思われることの苦しさ、そう思えてしまえる権力勾配に心を惹き寄せられる(ここで「うるせぇ!行こう!」と言いたくなるかもしれない、でもそれこそがまさしく暴力なのかもしれないという話)。誰かの今の形、なりゆく形、あるべき形を言葉にしてしまえる力。

 何故私は語っているんでしょう。

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