初めて約束をすっぽかされた私へ

3年前の今頃だっただろうか。輪番外来(飛び込み受診)研修のときに、喘息発作を起こした3,40代のひとを診て、そのまま自分で担当することになったのだった。
何年か前までは他のクリニックにかかっていたけど、なんとなく落ち着いていたから通院を中断していたようだった。
発作はすぐにおさまったので、中断していた吸入薬を再開して、2週間後に受診予約を入れた。そのひとの予定も確認して、無理なく来れる日にした。
当時の私にしてみたら、できることを100%やったし、そう難しいことでもないと思っていた。

でも、予約の日に来なかったんだよね。焦ったよね。

前回の、自分の態度に落ち度があっただろうか。「もうここには来たくない」と思わせてしまっただろうか。いやいや、もしかしたらあの後また発作を起こして、どこかに入院してしまったのだろうか。集中治療室に入ってしまい、連絡がとれないのでは・・・。
もやもやとした不安を抱えて、指導医に泣きついたのだった。

そしたら指導医はニヤっとして、「そういうものです」と言った。
私はポカーンとした。

陰性感情があるときは、必ずその感情の源を掘り下げて見つけるようにしている。「焦り」や「ポカーン」も、陰性感情だと思う。

ではなぜ、ポカーンとしたのか。
私は、自分が割と時間に厳しい性格なので、予約したのに遅れる、という行動がインプットされないまま20代半ばを迎えていた。友達が遅刻することはよくあったけど、約束の相手が全く姿を現さないということは経験がなかった。
ああ若かりし頃のナイーブな私。

また、喘息は命に関わる病気だと大学で習った。どうすれば発作を予防できて、発作が起こったら何割が危ない目に遭って、どうやって亡くなるかも習った。
喘息患者さんはその苦しさを肌で分かっているから、通院も吸入も当然するものだと思っていた。
ああ若かりし頃のナイーブな私。

指導医は言った、「喘息患者さんは皆、誰もが『私こそが喘息マスター』だと思っています。」
つまり、病気との長い付き合いによって、服薬や受診のパターン、そもそも病気との向き合い方が自己流になっている方が少なくない、という意味だと思う。あのときはよく分からなかったけど。

当たり前だけど、病人は人間だ。
生活の中で、「自分は病気だ」と改めて考える時間がどれくらいを占めるかは人によるけど、むしろほとんどの時間その事実を忘れている方が健全だと思う。
もちろん、慢性疾患においては、高血圧のひとが塩分控えめの食事を摂るとか、日々の選択の中で病気と向き合わざるを得ないことが多い。でも習慣化すればそれは生活の一部になる。
高血圧と違って、喘息は症状が出る。だから無意識に「こうすると苦しい」「こういうときは吸入すればいい」というパターンが生活の一部になっていって、そのひと特有の「喘息観」みたいなのが形成されていくのではないだろうか。
そのひとの「喘息観」の結果として、毎日同じ時間に吸入して、通院も定期的にして、掃除もこまめにする、ということもあるだろう。でもそうでない選択をするひとだっていて当然だ。

当たり前だけど、病人は人間だ。
医療はそのひとの生活を乱すことなく、支えるためにさりげなく存在すべきものなのだ。

でも若い医師はそれを分かっているつもりで分かっていなかった。
こういうことを日々、忘れずに診療できるから、外来が好きだ。

結局、件の患者さんは数週間後に予約を取り直して私の外来に来てくれた。
なんでも、「風邪をひいて具合が悪かったので」予約の日に来れなかったらしい。
もう「ポカーン」ではなく、「まあそういうこともあるよね」と思えるようになっていた。

私に「喘息観」を教えてくれたそのひとは3年目の付き合いになった今も私の外来に来てくれている。大きい発作は今のところない。

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