職業欄は著述業―こんな風にライターになりました(1)

ライターをはじめてもうすぐ19年になります。最初はバイトしながらでしたが、ここ15年くらいは幸い、専業でやれてます。ときどき「ライターになりたい」という人に会うのだけど、その方法を一般化するのは難しくて、いつも口ごもってしまいます。キャッチーな言葉でまとめるとウソが混じりそうだし、時代によって書く媒体や環境は変わるし、そもそもどう考えても「こうやれば誰でもなれる」なんて方法は、ほとんどの職業でありえない(あったら「職業」とはいえなくなる)でしょう。でも、何かちょっとは言ってみたい。そういうわけで、この19年間どうやって来たかをnoteをつかって少しずつ書いてみることにします。もしかしたら誰かのヒント、いやいや反面教師、せめて暇つぶしの読み物くらいにはなる。はず。かな。といいなあ。ま、気楽にぼちぼちよろしくお願いします。(全文公開で少しずつ書いていくつもりですが、投げ銭orスキボタンは大歓迎です。モチベーションとビールの糧にします)

そういう職業があることを知る(1995年)

ライターという職業を知ったのは1995年春。太田出版から出た「だからこそライターになって欲しい人のためのブックガイド」という本を読んだのがきっかけでした。著者は田村章さん、中森明夫さん、山崎浩一さんの3人。中森さん、山崎さんは80年代宝島周辺のヒーロー的な存在だったんだけど、田村さんのことは当時まったく知りませんでした。それもそのはずで、複数のペンネームをつかうだけでなく、無署名、ゴーストなど、状況に応じて色々なカタチで文章を各媒体に発表している方だったからです。内容や文体、一人称などは、すべて発注に合わせて変えてしまう。だから読み手からは、田村さんがどこにいるのか分からないことも多いのです。この仕事のあり方に何やらグッと来て、カッコいいじゃんと思ったのが25歳のぼくでした。大学を中退して、バイトをしながらズルズル名古屋で素人芝居で続けていたしょうもない男に、これはひどくおもしろそうな仕事に見えちゃったのです。

ライターの定義はすごく難しいと思うのですが、当時のぼくが考えていた「ライター」像は、作家とかクリエイターとかとは違う、プロっぽさというか、文章の職人的なものでした。この本に登場する山崎さんも雑誌のアンカーをしていたそうで、例えばXXXという雑誌の地の文を書くときは、「XXXくん(さん)ならどう言うだろうか」を考えながら書いていたそうです。言われてみれば当たり前で、ブルータスくん、宝島くん、ナンバーくんは、明らかに別人格です。誰かに定義されたわけでもないのに、読者の多くが当たり前のようにそう受け取っている。読者だったぼくもそうで、それはデザインや編集方針、そして無署名の地の文をつかって、形作られているのだと気づきました。ライターはそこを作っている。作家とかコラムニストとは違って、個人とは切り離された「文章」だけでそれをやっている。これが当たっているのかどうかは分かりませんが、少なくとも、当時はそう思っちゃったのでした。かっけー、と。

ちなみに田村章さんは小説もいくつかの名前で書かれているとこの本の対談で話していて、その1つが「重松清」でした。それを知ったのはずいぶん後で、すごい人に憧れちゃったのだなあと冷や汗をかいたのは内緒です。

勝手に原稿を書いて、手当たり次第送ってみた。

この本を読んだのが1995年冒頭だったということも、たぶん大きかったんだろうなあと、今になって思います。これは阪神淡路大震災(1月)とオウム真理教事件(おもに3月から)があった年で、メディアは連日大騒ぎでした。名古屋に住むぼくは雑誌(「宝島30」とか「噂の真相」とか)を読みあさって、「なるほど」と思ったり「そうじゃないだろう」とか思っていたのです。インターネットはまだ黎明期で、自分の意見を広く共有したり、表現するツールはまだありませんでした。ライターになれば、そういうことができるんじゃないかと思ったのです。(これが2014年だったらブログかnoteやってたでしょうね)

というわけでライターになろうと思いました。でも、なり方が分からない。紹介してもらおうにも出版業界の知人なんていません。大学は6年通って中退しちゃったし、小劇場芝居やコントにうつつを抜かしているうちにバブルはすっかりはじけて、就職難が始まっていました。そもそも工学部電気学科だったから、出版社に入るのは無理そうです。今なら「雇ってくれる編集プロダクションを探して、そこで経験とコネをつくる」というルートが多いとか知っていますが、んなこと誰も教えてくれません。

それで勝手に原稿を書くことにしました。最初に送ったのはたぶん「宝島30」だったと思います。オウム事件について思うことを原稿用紙に手書きで数千字書いて、奥付にあった編集部の住所に送付。便箋にはライターになりたいのだとか書いたと思います。いきなり上手くいくと思ってたわけではないものの、返事が来なかったときはやっぱり凹みました。電話もしたけど「必要だったらこちらから連絡しますので」とつれない返事。

どうすれば目に留まるのか分からず、どの編集部が入りやすいかも知らず、求められている原稿がどんなものかも想像するしかありません。そもそもこういうやり方が正しいのかアリなのかさえ判断できない。でも他の方法なんて思いつかなかったので、別の雑誌にも送ることにしました。電話をしたときに「誰が受け取ったか分からないけど、届いた原稿は編集部員が必ず読んでいるはず」と言われたので、宛先を編集部ではなく、奥付に入っている編集人か発行人の個人名に変更。もちろん1995年なので、郵便です。ただし途中から原稿用紙は止めて、ワープロ原稿にしました。深い意味があったわけじゃなくて、その方が「ぽい」かな、と思ったからです。

名古屋の鶴舞図書館で、普段読んでいる雑誌(カルチャー誌が多かった)はもちろん、文芸誌、音楽誌、スポーツ誌、女性誌もチェックして、そこに乗りそうな分量・内容・文体の原稿を勝手につくりました。エロ雑誌は本屋さんで買ってきて、どんな記事がいいか想像する。文章が掲載されているページの文字数を数えて、そこにピッタリはまるように書きました。2〜3ヶ月くらいかけて30誌近く送ったころ、なんと電話がかかってきたのです。「ひとまず会いませんか」と、しかも2誌から立て続けに。そのためにやっていたんだけど、びっくりしました。うれしかった。もちろんすぐに夜行電車に乗って東京に行きました。

原稿が雑誌に載る。よし引っ越そう

当時、名古屋から東京までもっとも安く行く方法は、JRの最終電車でした。(今はバスとかもっと安い方法があるのかも)大垣発の東京行き。名古屋駅を23時過ぎに出る電車に乗って、日付が変わる駅から先は青春18切符をつかうのですが、ちょう混みます。しかも午前5時前とかに着いてしまう。山手線で渋谷に行って(中央線なんて知らなかった)、ファストフードでご飯を食べ、公園で昼寝をしたりしてつぶし、午後、飯田橋で、月刊マンガ誌の編集長に会いました。何を話したのかはぜんぜん覚えてませんが、珈琲館だったことと、コーヒーをごちそうになったことだけは、なぜかはっきり覚えています。たぶん相当生意気なことを言ったんじゃないかな。雑談のようなやりとりを30分ほどしたところ、最後に「じゃあ1ページのコラム連載をしましょうか。来月から書いてみてください」と言われました。うひゃあ!と飛び上がりそうな気分で「ありがとうございます」と答えると「ライターだけで食べるのは大変だよ」と何度も念を押されました。「はい」と言ったんだけど、まあ、当然、どんな世界かなんて分かってなかったです。(この連載もあっという間に終わるのですが、それについては後ほど)

もう1つの訪問先は市ヶ谷の月刊GON!編集部。(すでに休刊してしまった雑誌ですが「実話ナックルズ」の前身で、ライバルが「BUBKA」だったといえば、なんとなく分かりますか?)こちらは送った原稿をそのまま掲載してくれることになりました。ただの読者投稿ページなんだけど、ぼくがライター志望であることを加味して、原稿料も支払うとのこと。「原稿料」という言葉に天にも登る気持ちになりました。「いつでも企画持ってきてください」と言ってもらい、またもや有頂天になりましたが、ここでもやっぱり「ライターで食べるのは大変だよ」と言われたのでした。

帰りの夜行バスは、まったく眠れませんでした。「自分の書いた文章が本に載る」ということに興奮していたのです。そんなの中学生時代に「糸井重里の萬流コピー塾」(週刊文春にそういう連載があったのです。ちなみに3回載って弟子までいきました)以来でした。しかも今回は原稿料がもらえるうえに、連載までできる。両親は口は出さんがカネも出さんという方針でしたが、「これはチャンスだ」と思い込んでいる、26歳になったばかりの生意気な若造は止まりません。すぐに引っ越すつもりでした。彼女にお金を借り、芝居友だちの軽トラに荷物を積んで1号線を走り、ものすごく家賃が安かった神奈川県大和市のアパートに移っちゃいました。(家賃はたしか3万円台で、その理由は入居すぐに分かりました。米軍基地が近くて、飛行機の爆音がものすごいのです。離発着時には目の前にいる人の大声すら聴き取れないレベル)

「ライターになれた」のか?

ちょっと話が飛びますが、この年の暮れに国勢調査がありました。5年に一度、日本国民全員が、10月1日時点での自分の家族について答えたり、記入したりするアレです。そのアレがぼくの大和市のアパートにもやってきた。「職業」「職種」を記入しようとして、ハタと迷ったのでした。ライターは職業なのか、職種なのか分からない。詳しい説明を読んでみると、どうやら「著述業」が当てはまりそう。「著述業」なかなかいい響きです。ところが、さらに詳しく見ると、その欄に記すのは、収入の大半を占める仕事だと書かれていたのです。つまり1995年のぼくにとっては、コンビニ深夜アルバイトと郵便局配達バイトのどちらかを記入せよということでした。

最初にもらった原稿料はGON!に掲載されたコラムで、たしか1万円でした。1割が源泉徴収されるので振り込まれたのは9000円。マンガ誌の連載は8月から始めましたが、振込は発行の3ヶ月後とのこと。(これは標準的なスケジュールだと思います。ぼくの知っている最速は、休刊した「噂の真相」編集部で、発行された1〜2週間後でした)ひとまずバイトをしようと、コンビニと郵便局で働き始めました。午前中郵便配達をして、午後から寝て、夜はレジ打ちみたいな感じです。近所のカメラ屋でライターの名刺をつくりました。肩書は迷った末に「フリーライター」として、住所・電話はもちろん自宅。彼女に借りたお金でFAX付きの固定電話を買い、加入権はローンで購入しました。(電話加入権のことをご存じない世代の方は、ググってください。加入権、返して欲しいぞ!)3ヶ月後に銀行に行って、振り込まれていたのは5400円でした。5万4000ではなく5400。6000円から1割源泉徴収して5400円です。正確にはさらに振込手数料が引かれて、消費税3%がプラスされていましたが、まあ大きくは違いません。5180円とかそんな感じだったと思います。正直、もうちょっとあるかと勝手に思いこんでいたので、銀行の通帳を見た瞬間「これはヤバイぞ」とATMで実際に口に出してつぶやいてしまいました。都内まで取材に行って、ご飯でも食べようものなら、消えちゃいます。

念のために書いておくと、この原稿料が特別安かったわけではないのです。この媒体のメインはあくまでもマンガです。そこにちょっとだけ置かれる文字コラムで、しかも1ページ。しかも素人同然の書き手なのだから、高くなくても不思議はありません。だから、ぼくは事前にギャラを聞いて、交通費や経費を別途請求できるかどうか確認しておくべきだったのです。でも、そんな知恵はまだありませんでした。苦境を訴える度胸もなかったのです。そこで、実際にどうしたかというと、バイトに力を入れちゃいました。日々の生活を維持するため、コンビニの深夜シフトを入れまくったわけです。

深夜バイトに集中すれば生活は少し楽になりますが、当然、昼は動けません。取材や企画提案にまわす時間はどんどん少なくなりました。学生バイトの友だちばかりが増えて、ひまな時間はたいてい彼らと飲んだり、麻雀したりしてました。誰が見てもダメダメな状況です。国勢調査があったのはこの時期だったと思います。GON!に持っていく企画も、採用されるのは小さなものばかり。未来はちっとも開けません。だんだん交通費が惜しくなって、編集者さんとの打ち合わせにもあまり行かなくなりました。そして、ついに連載原稿の〆切を破ってしまったのです。1996年の春でした。

生まれて初めて〆切を破った(1996年)

原稿を遅らせた理由は覚えていません。ただその前くらいから「この連載おもしろくないんじゃないかな」「自分だったらこのページ読まないよなあ」と薄々感じていました。編集者さんには「個人的な見解とか、正しい意見とかじゃなくて、おもしろい何かを探してきて」と言われて「そうだよなあ、何者だか分かんない書き手に偉そうなこと言われても、読者は戸惑うだけだよな」と納得。ならば、と誰かに取材を申し込んでも、気後れしてしまって当り障りのない言葉しか聞き出せません。それで、また中途半端な原稿になってしまう。それが嫌で、〆切をスルーしました。夜、電話が鳴りました。受話器の前でじっとしていると、留守電に切り替わった途端に切れました。

きっと催促の電話が何度もあるぞと覚悟したのに、その後も、翌日もまったく連絡はありません。怖くなって、〆切2日後に原稿をFAXしました。怒りの電話があるだろう、それだけはちゃんと出て謝ろうと身構えていたけど、それもありませんでした。発売日、コンビニでその雑誌を手に取ると、ぼくの連載はなくなっていました。

その瞬間は悔しくて、直後落ち込んで、その後しばらくは自分を納得させる、自己正当化のための言い訳をさんざん考えたのを覚えています。「〆切忘れてませんか?」とか留守電に入れてくれたって良かったじゃん、とか。内容がダメならもっと早く指摘してくれるべきだったんじゃないのか、とか。でも、自分が悪いのは明白でした。ちょう明らかです。火なんか見るまでもなく。だから、あきらめました。そして、知りました。この世界は誰からも怒ってもらえないのです。無断で遅刻をしたら、そのまま自分の席がなくなることさえある。他に書き手は山ほどいます。甘えた若造をイチイチ叱咤激励している時間があったら、さっさと見切って、他の人にチャンスを与えた方がずっといいのです。いまのぼくならそう考えます。

これ以降、今日まで無断で〆切は破っていません。(いない、はずです)勘の良い人は気づいているでしょうが、ポイントは「無断で」の部分で、すいません、遅れることはあります。でも、かならずその数日前までに先方に確認をとるようになりました。単行本のようにスケジュールが1ヶ月とかにまたがる場合には、できるだけ進行状況を知らせるようにもしています。これは、この一件があって、身体で覚えたことです。これで、ライターとしてのレベルは1つくらい上がったのかもしれません。でも、原稿の定期収入はゼロになりました。

(以上で1は終わりです。続きはページを改めて2で書きますね。最後までお読みくださり、ありがとうございました。全文公開していますが、投げ銭(続きで読めるのはヒトコトだけですが)、スキボタン、コメント大歓迎です)

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