Screenshot_2019-08-12_映画_ドラゴンクエスト_ユア_ストーリー_公式サイト

そこに「ゲーマーへの愛」はあったのか 「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」に感じた怒り

 将来の終わりさんがだいたい言いたかったことを代弁してくれて、だいぶ魂が浄化された。「ゲームを、フィクションを、人生をここまで愚弄する作品を私は他に知らない」。この一文が全てで、この映画を作った人たちは、ゲームを題材に扱っておきながら、ゲームへの理解・敬意が圧倒的に足りていない、と自分も感じた。それで最後だけ「ゲームは無駄なんかじゃない、もう一つの現実だ」みたいなことを言われても何の説得力もない、というのが僕の素直な感想だった。

 あえて最大級の強い言葉を使うが、自分はこの映画に、ゲームを「冒涜された」と感じてしまった。「ONE PIECE」しか読んだことがない人に、「漫画って本当にすばらしいですよね!」と言われる苦しみを想像してみてほしい(※ONE PIECEが悪いと言っているわけではない)。スタッフに悪意があったとは思わないが、それくらい無神経なことをしたという自覚は持っていただきたい。

※以下、「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」のネタバレを含みます。あと「moon」と「ゼルダの伝説 夢をみる島」のラストに関する言及もちょっとだけあります

そこに「ゲーマーへの愛」はあったのか

 あちこちのインタビューを読むと、数年前から映画化のオファーはあったものの、山崎貴総監督は当初「ゲームと映画は相性が良くない」という理由で断っていたという。しかし、ある時ラストのアイデアを「思いついて」しまい、それで引き受けることにしたそうだ。つまり、順番としては「オチ」がまずあって、そこに向かってストーリーを作っていったということになる。そしてこれこそが、この映画最大の欺瞞だと自分は感じている。「ゲームはすばらしい」というメッセージは出発点ではなく、オチを成立させるために後からくっつけられたものだ。山崎貴総監督はこの作品で「ゲーマーに対する愛を伝えたかった」と語っているが、果たして山崎総監督自身に「ゲームへの愛」はあったのだろうか。あちこちのインタビューを見たが、少なくとも山崎総監督が自身の「ゲーム愛」について語っているようなくだりは見つけられなかった。

 将来の終わりさんのレビューでも触れられているが、「ゲームは無駄なんかじゃない、もう一つの現実だ」というメッセージの伝え方も「雑」の一語につきる。

ゲーマーに対する肯定を伝える方法として、文字通りゲームを否定するだけのコンピュータ・ウイルスなどという到底理解に苦しむ仮想敵を登場させなければ表現できない時点で、彼はこのテーマに挑む域に全く達していない。

 それまでの展開を全部ぶん投げて、「プレイ中は現実の記憶を失い、完全にゲームの世界に没頭できるVRアトラクション」という雑な舞台をでっちあげ、そのうえでさらに雑にゲームを否定する敵を登場させ、それを雑に主人公に倒させることで、雑にゲームを肯定したことにして終わる。これで「ゲームは無駄なんかじゃない、もう一つの現実だ」というメッセージが伝わると思っているのなら、ゲーム云々以前に、映画としても観客を馬鹿にしている。「ドラクエV」のすばらしさをいつのまにか「ゲーム」のすばらしさに履き替えているのも詭弁的だ。既にさんざん指摘されているが、ラストにドラクエVである必然性がまったくなく、あらゆるゲーム、あらゆるフィクションに置き換えても成立してしまう。

 似たようなテーマを持った作品として、レビューでは「レゴムービー」や「勇者特急マイトガイン」を挙げているが、僕は同じゲームから、ラブデリックの「moon」を推したい。ラストのネタバレは控えるが、あれもゲーム好きからは賛否両論あって、それでもこれだけ評価されているのは、あの作品全体が「ゲーム」に対する優れた批評になっていたからだ。他方、この映画にそういう批評性は一切なく、ただ漠然とした「大人になれよ」「ゲームは無駄なんかじゃない」といったメッセージだけがぽっかりと提示される。「メッセージをセリフでそのまま言って何かを語ったつもりになる」というのは山崎総監督がよくやる悪いクセで、この映画ではそれがもっとも悪い形で出てしまっている。

 こういう、他の映画だったら到底許されないような「雑さ」が、なぜこの映画では許されてしまったのか。そこにはやはり「ゲームなんてその程度のもの」という、無意識の「侮り」があったのでは――と考えずにはいられない。そもそも「ゲームは無駄なんかじゃない」というメッセージも、ファミコンの時代ならまだしも、これだけゲームが広く浸透し受け入れられている今では周回遅れもいいところだ。

フィクションをフィクションであるとバラす無粋さ

 もう一つ、とても共感したレビューの1つを貼っておく。僕が感じた「ゲームをゲームとバラすことの無粋さ」をうまく表現してくれていて大変スッキリした。特にここのくだり、「CG」を「ゲーム」に置き換えると、ほぼそのまま僕が感じた不快感の代弁になる。

我々CGクリエイターは自分たちの作るCGを「CGとして」見られたいのではなく「なにかワクワクしたり感動させたり喜んでもらえたりする表現」のためにCGという手法を選んでいるはずじゃなかったのかなと思います。
最終的に見る人達にとって、それがCGかどうかなんて本来どうだっていいはずなんです。なのにこの映画ではわざわざCGアピールをしてしまった。はい、ぜ〜〜んぶCG。こんな気持ちになった映画は本当に初めてでした。

 「ドラクエって『ゲームだけど』、面白いんですよ」なんて、遊んでいるプレイヤーにとっては心底どうでもいいことで、作品はやはり作品の中身そのもので評価されるべきだ。「ゲームであること」がことさら特別扱いされている時点で、まだまだゲームは他のエンタテインメントと同じテーブルにはつかせてもらえていないんだな、と自分は感じてしまった。あと、もっと言えば例の「バラす」くだりは、ゲームのみならずあらゆるフィクションに対し全方位の失礼をやらかしていると思う。

ラストで描いてほしかったもの

 山崎総監督作品にしばしば見られる「おどけ」演出や、軽すぎる主人公像、手抜きとしか思えない原作要素のオミット、雑すぎる序曲の使い方などなど、ラスト以外でも気になる点は山ほどあるが、オチの不誠実さに比べればどれも些細なことだし、どうせ最後で全部ひっくり返されるのでここでは省略する(この「どうせ最後で全部ひっくり返される」という構造がまた腹立たしい)。一応自分のスタンスだけ表明しておくと、自分は「ラスト以外もダメだった派」だ。ただ、酔っ払ったビアンカのかわいさとか、「ザラキ」をうまく映像で表現していたのはよかった。

 メタフィクションという構造自体がダメとは言わないが、もしどうしてもメタフィクションをやりたかったのなら、個人的に絶対に入れてほしかったシーンがある。「主人公がゲームをクリアし、現実に戻るくだり」だ。ゲームも、フィクションも、いつかは終わり、現実に戻る時が必ずやってくる。しかし、それでゲームの世界が消えてしまうわけではない。現実とゲームは地続きであり、ゲーム内での体験を持ち帰り、プレイヤーの人生はこれからも続いていく。だからこそゲームに費やした時間は「無駄ではなかった」といえるのではないか。

 映画ではウイルス太郎a.k.a.ミルドラースを倒し、主人公たちがサンタローズに戻ったところでそのまま終わってしまう。「実はこの世界はゲームでした」をやったからには、ちゃんと現実に戻るくだりまで描かなければ、テーマとしては片手落ちだ。同じテーマを扱った「moon」や、それからもうすぐSwitch版が発売される「ゼルダの伝説 夢をみる島」なんかは、ちゃんとそこまで描いている(ゼルダはかなり比喩的だけど)。そもそもウイルス太郎を倒した後のあのシーン、もはや作り物でしかないと分かった世界やキャラクターを、観客は一体どういう感情で見たらいいのか……?(あと仮にウイルス太郎が出てこずに普通にクリアした場合、現実に戻った時のショックがとんでもないことにならないか?) 順調に行けばあと数分でゲームも終わり、この世界や、愛する妻子とも別れなければならない。せめてそういう「ゲームが終わってしまう寂しさ」のような描写が少しでもあれば、同作のラストはまた違った印象になっていたかもしれない。

最後に告知、ゲーキャスさんでラジオやります

 だいたい言いたいことは言ったので最後にちょっと告知を。ゲームキャストのトシさんに誘われて、ゲームキャストのDiscordで8月12日21時から、「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」について語るチャットイベントをやることになりました。

 参加者はゲームキャストのトシさんと、「moon」作者の1人・木村祥朗さん、あと僕の3人です(トシさんは肯定派、木村さんは「怒るほどではないけど面白くもなかった派」)。Discordの参加方法は上記ゲームキャストの記事から。僕としては、やっぱり「moon」を作った木村さんに、エンディングのオチのアリナシについてはぜひ聞きたいですね。


※記事はこれで全部ですが、ゲームライターマガジン用ということで形だけ有料(100円)に設定しています。購入しても特に続きはないので投げ銭代わりにどうぞ。よかったらゲームライターマガジンの方の購読もぜひ。



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