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『言葉』を許すという慈愛

少し前の職場のことを,ふいに何となく思い出しました。きっかけは何だったかな…思い出したら,ちょっと笑えてきました…相当無理していた自分に,です。

ある日,ちょっとしたことが起きたんです。まさに,本当にそれがきっかけで,雪崩のようにすべてがダメになったのですけど。私は,そういうきっかけが,『言葉』のことが多いのです。特に,「誰かに何か,メールやメッセージで書かれて,私が相手を拒絶する」というパターン(笑)

その時も,親しくしていた男性に口頭で,後輩の女の子いぢめちゃダメよ,的に…まぁ,何ですかね,その後輩の子とあまり親しくされると,寂しいなぁと思ったことから…突っ込んだというか…大人げなく。

そうしたら,その後,クライアントにいる最中に,その人から,「何で,そんなことに口を挟むんだ」的な,一方的なメッセージが届いて,もうそれで『その人でもそんな言い方をするんだ』と…すごく驚いてトラウマになってしまい,その後,その人には謝罪したのですが,それ以降,話も出来ない,メールも出来ない,メッセージも無理…という状態に。その上,その人が見聞きした私のことを,上司に告げ口したりしていたこともあり…もうめちゃくちゃになりました(笑)仕事どころの話ではなくなってしまったのです。

その後知ったことですが,本当に,その人が後輩と揉めて,辞める辞めないというところまで,問題が発展したこともあったそうなんです。私はその情報を知らなかったのですが,その件で言われたのだと勘違いされたのかもしれません。

とにかく,私が,この『言葉』を流せていたら良かったのでしょうけど,真に受けたというか,親しさの分だけ,受け止めてしまったんでしょうね。よく考えると,『言葉』に私が傷ついて,関係を遮断することは,やはり多いようです(笑)

逆を返せば,私は?女性は?『言葉』にとても意味を求めたがる。特に,私は法学系の血が流れているので(笑)文理解釈をとても大事にする。それなのでしょうね。その対応策としては,忘れる,言い返す,他人に愚痴る(笑),等なんでしょうけど,この件に関しては,やはり,男女差があるように感じます。

「気にしなければ良い」と言う人は多いです。言うのは簡単かもしれませんが,実際のところ,それは問題解決にはなっていないんですよね。「~しないように」と考え続けることになるからです。それは自分に「耐えろ」と言い続けているようなものです。何事も耐え続けられる人なんていないと思います。

そこで,その頃から?私がずっと手にし始めたものは,マリア様の絵です。どうやっても,相手も人です。自分と気は合わないかもしれない,でもそれがその人自身なのです。一緒に仕事をしてはいけないけれども,人格否定までする必要があるでしょうか?自分がその人の何を知っているでしょう?

『言葉』に傷ついたのであれば,その人が言葉の使い方が分かっていなかったというだけなのでしょう。それは,イタリア語を学んでいない人が,聞きかじった簡単なイタリア語で失礼なことを言ってしまったようなものです。それが,その人の本心ならば,それは許せないかもしれませんが,『言葉』ならば,その場は許して,その後の対応で様子を見ても良いのかもしれません。

それでもダメだと判断したら,拒絶すれば良いだけのこと。

『言葉』を許す。それならば,可能なような気になりませんか。慈愛の瞑想と同じです。その人の『言葉』に許しを与える。それが出来れば,きっと,いつか自分もマリア様のような人になれるかもしれない。そう考えれば,トライしてみる価値はありそうですよね。

おそらく,人を嫌うのは簡単です。ですが,それが自分の心と,未来に出会う人達にまで,悪い影響を及ぼすのだとしたら,嫌うほどの意味があるでしょうか。人はみな,それぞれ懸命に生きているからこそ,状態の悪い時もあります。だから,自分が耐えるとは思わずに,助けてあげる,許してあげる,そういう視線で接することができれば,世界の見え方は変わるのかもしれません。回顧録のようなものです(笑)


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