見出し画像

読書感想文を書いていたら、アンパンマンについて6000文字書いてしまった。 #天才を殺す凡人


「天才を殺す凡人」という本が出版される。

昨年2018/2/23にあるブログが公開から数日で約40万PVと超バズった。

これだ。

天才という言葉は誰もが知っているが、天才の解釈について議論されたことはあまりないように感じる。天才とは何に対して天才なのか、才能とは何なのか、自分は何者なのか、それはすべて知っているようで実は知らない。

そして、おそらくほとんどの人が


知らないことすら、知らない。


結果、他人に自分の定規を勝手に押し付け、それは違うとか、それはダメだとか、理解できないものを遠ざけたい、時には消去、排斥したいという自衛本能から、多くの無意味な争いや、同じことを言いながら争うという、なんともまぁ、命の無駄遣いが日々起きていることは、いっぺん気づいてしまうとどんどんこの世の中がとてもチープなものに見えてくる。

せっかく生まれてきたこの世界に絶望するか、自分に絶望するか、その二択の中でこれからも生きていかなければならないと感じると、時たま吐きそうになる。


みんなでなかよく、たのしくやる


みんなちがってみんないい


文字にするととても簡単だ。

小学校でならうこのシンプルなことが、みんな大人になって、ある人はアスリート、ある人は政治家、ある人は年収1000万のサラリーマン、ある人は国民的アイドル、どんなに素晴らしい知識を持っていても、どんなにお金を持っていても、どんなに人気者になっても、このみんなでなかよくたのしくやるということは、どうもみんな苦手らしい。

なんで一見こんな簡単そうにみえることができないのか。

なぜ争うのか。

日々の生活で、これらの理由を考えることはあまりない。

きっと才能の正体や、それらを理解しようとすることが、争いばかりのこの世の中を、少しでもみんながすごしやすいものになったらいいなと思うのだ。

ちなみに、著者の北野唯我とは近くで話をすることが多いので、よく知っているつもりだが、彼は争いが好きではない。よく平和について話をする。とても優しい人だ。

なので、この天才を殺す凡人という本は、非常に刺激的なタイトルとは逆説的に、個人的には、平和を近づけるための本だと理解している。

そういえば、正月に父親と話していて、「そもそも、みんなが持続的な成長を望むから争いが絶えないんじゃないか」と言われた。「それは違うと思う」と答えた。価値のパイが増えない前提では限られた価値を取り合うことにより争いが生じる。一方で、価値のパイ自体を持続的に増やすことができれば、価値をつくり、分配し、その分配された価値をそれぞれが育てて分配する。

価値との付き合い方はひとそれぞれで、それは、価値を生産するとき、価値を育成するとき、価値を消費するときに大別され、仕事というものはきっと、生産と育成に寄った行動を指す。

今、目の前に何気なくあるものは誰かが作ったもので、誰かが育てたものなのだが、価値の「生産」「育成」プロセスに関わったことがないと、そのプロセスに対してのリスペクトを感じることすらできない。これはとても悲しいことだ。


アンコンシャス・バイアス・オブ・ザ・イヤー2018


価値を消費したことしかない人は、生産者、育成者の気持ちを理解できずに、「自分は価値の消費専門人間です」と、すなわち「生産童貞」「育成童貞」だということを簡単に自己紹介してくれる。

個人的には、2018年のアンコンシャス・バイアス・オブ・ザ・イヤーはブラジル・ワールドカップに出場した川島選手に対する、想像力とリスペクトを欠いた言動だった。

確かに不調だったかもしれない。

けど、なんでリフティングが一回もできない人たちに、死ねとか言われないといけないのだろう。少年のときから毎日毎日練習頑張って、ほとんどの人が行きたくても行けないJリーグで頑張って、海外でもゴールキーパー頑張って、ほとんどの人ができないことを、ずっとやり続けてきた。彼にしか見えない世界があるはずだ。

ちょっと考えてみると、30人くらいの前で1時間半、プレゼンするってだけでも緊張する。お腹が痛くなる人もいる。あれだけのオーディエンスの前にまず入場するだけで、その勇気と緊張がどれだけ大きなものなのか想像しようとしてもできない。

だって、やったことないから。

でも少なくとも、気を抜けば気絶しそうなくらいの雰囲気だ。


ちょっとミスっただけで、死ねとか辞めろとか、いっちゃいけない。


アンコンシャス・バイアスはこわい。違ったものを見るときは、無意識に定規を当ててしまうけど、無意識に定規を当ててしまう前に一呼吸おいて、寸法や角度を変えたほうがいいのだろうし、まぁそもそも、寸法や角度どころで自分のこのちっぽけな経験と比較しちゃっていいのだろうかという違和感は、きっと大切にしたほうがいい。


そんなことを思い出しながら読んでいた。


冒頭の50ページがFacebookで公開されているので、ここからは、読んだ感想を、気になったキーワードと共に書こうと思う。


天才は創造性、秀才は再現性、凡人は共感性で評価される説


天才は創造性、秀才は再現性、凡人は共感性で評価されると書いてある。社会も、組織も、教室も同じ構造だと、しかもその最小単位は個人で、その3つの才能は一人の中に共存することもあると。それぞれの特徴は以下だ。

天才

独創的な考えや着眼点を持ち、人々が思いつかないプロセスで物事を進められる人

秀才

論理的に物事を考え、システムや数字、秩序を大事にし、堅実に物事を進められる人

凡人

感情やその場の空気を敏感に読み、相手の反応を予測しながら動ける人


創造性を測るKPIがない説


ビジネスにおけるバリューチェーン(創造し、拡大させ、金にする)において、創造を評価する適切なKPIが存在しないということが書かれてある。これは主に大企業の中でイノベーションが起きにくくなっていることの原因であるとも。

たしかにそうかもしれない。定型化されていない仕事や、数字で測りにくい仕事を経験したことがあるひとはその面白さとともに、定量的に自身のバリューを証明することの難しさを知っているはずだ。営業で数字を出している人は口をそろえて言う。「営業は楽だ。だってやったことがわかりやすいから」と。きっと楽ではないのだろうが、なんとなくわかる気がする。

つくるフェーズの仕事をどれだけ自由にやらせるかというのは、経営やマネージャの器量の大きさを本当に映し出すと思う。ロジックが機能するところと、しないところの区分けを、管理者と当人が一定の信頼関係を持って対話しなければきっと成り立たないことがたくさんある。


3者間の感情のベクトル、天才は割に合わない説


これは、先程貼ったweb記事の中に書いてあるもので、特に多く話題に上がった図がある。詳しくは見てほしいのだが、天才は秀才からも凡人からもマイナスの感情のベクトルを向けられている可能性があるということだ。

たしかに、世界を大きく前進させる「きっかけ」をつくった人は、そのとき当事者からは評価されないことが多い。自殺することも多い。死んだり、引退したり、いなくなってから一気に神格化される。彼らがもっと早く応援してもらいたかったと思っているかはわからないが、きっと理解されることはどこかで望んでいたんじゃないかなと思うことがある。


と、読みやすい一方で、乱暴に言えば全ページキーワードな感じでおもしろい。続きを読むのが楽しみだ。


せっかく書き始めたので、この本を読んでしきりに頭に出てきたアンパンマンのことを、書けるだけ書いてみたい。


人間はもともと「違い」に向いていない。


この3者間のコミュニケーション断絶の仕組みを知ることは、あなたが日々無意識的に恐れている「違い」と折り合いをつけることに役に立つと思う。

特に、多様化を促進することが絶対に良い!となんとなくでダイバーシティ推進を押し付けているダイバーシティフリークに、読んで欲しい。

話は少し飛躍するが。

ほとんどの悲劇や違和感は、前提を忘れたHowの押し付けから生まれる気がしている。日々は違和感で溢れている。

「その映画見てないの?え、絶対人生損してるよ!」っていう、バイアス満点のアドバイスとか。
「人生を成功させるためのたった一つの方法」っていう、どんだけたったひとつの方法生み出すねんっていう、人を馬鹿にした記事タイトルとか。
人の感情の吐露つまり排泄物(うんこ)に勝手に自分の定規を当てて測り、このうんこはいいうんこだ、わるいうんこだとギャーギャーしつこく言ってくる顔も知らないネットの向こう側の人たちとか。


今に始まったことじゃない。

本来「違い」というものに、そもそも人間は向いていないんじゃないかと思うことがよくある。

昔を思い出してみても。

小学生の時はメガネをかけている子のあだなが「メガネ」になることがよくあった。理由は学校の教室ではメガネが珍しかったからだ。茶髪の子のあだなは「ヤンキー」だったし、太ってる子のあだなは「デブ」だった。

幼稚で直接的でセンスがない、、と思うかもしれないが、まぁ大人になってもそれはあんまり変わらない。

なぜテレビが面白くなくなったかという話はよくされるけれど、誰が見ていようとも視聴率は変わらない。じゃあ最大公約数をとろうという「視聴者想い」の番組に寄っていった。ラーメン、クイズ、イケメン〇〇。

最大公約数を取れるコンテンツはある程度決まっている。最大公約数のターゲットになる人たちは、恐らく、アンパンマンを見ながら、バイキンマンがなぜ悪戯をするのかについては然程考えず、無心でアンパンマンを応援し、アンパンマンがバイキンマンを殴りつける瞬間を楽しみにしている、ある意味純粋な子供であり、そのままあまり進化せずに大人になった、純粋な人間。彼らはもしかすると今頃スカッとジャパンを見てスカッとしているのかもしれないが、あれはまぁ、言ってみれば大枠はアンパンマンと同じだ。


大人になってなお、アンパンマンを観ていちいち逆鱗に触れている。


アンパンマンという番組のサステナビリティについて


そもそも、なぜ毎回アンパンマンという番組が持続的に放送されるか。当たり前だけどバイキンマンが毎回いたずらを思いつくし、しかもそのたびに謎のロボットをつくって来るからだし、あの番組自体はバイキンマンなしには成り立たない。毎回事件を創造しているのはバイキンマンだ。そんなことは当たり前かもしれない。が、認知しているのといないのとでは、明らかに日々の言動に差が生まれる。

先日ゾッとしたことがあった。

近所でアンパンマンショーがやっていたので観に行った。会場のアンパンマンとバイキンマンの登場前の反応がぜんぜん違うのだ。子どもたちも含めて。まだ登場もしていないし今日は悪いこともしていないのに、バイキンマンは歓迎されない。彼が、その日の勝負で応援されないことは登場前に既に決まっていた。主張も聞かれることはなかった。毎回悪いことをやっているとそうなるかもしれない。けれど、なんか排他的な宗教の会合みたいで恐かったのだ。

どっちが悪いとかどっちがいいとかそういう議論はどうでもよくて、その正解に違和感を感じないままにそれが正解だと(己の思考を挟まずに)信じ、おまけにそれを人に押し付けるようであれば、もうそれは、自分がそこにいる意味はあんまりないんじゃないかなぁと思うのだ。

アンパンマンという番組を、アンパンマンもバイキンマンもジャムおじさんもドキンちゃんもカバオくんも、登場人物がみんなでつくってくれているということに対して、いつ気づくかどうかはとても重要な気がしている。

もちろん自分の中に正義があることは素敵だと思う。それ自体は問題ではない。問題なのは、蟻の目鷹の目の蟻に終始したまま、自分は鷹の目でも物事を見ているという勘違いなのだと思う。

正義という言葉が苦手なのは、この物差しの押し付けとセットで語られることが多いから。相対的なものを、無意識に絶対的に捉えてしまうという罪とセットだから。

もし、それを構成するうちの誰がいなかったらどうなるのか、それを想像するとしないのとではそのキャラに対する感謝がぜんぜん違うし、接し方も変わってくる。

アンパンマンは、みんなでつくっている。

アンパンマンの気持ちにどっぷり浸かると、果たしてその毎週繰り出しているアンパンチは本当に問題解決のためのソリューションとして最適なのか不安になることもあるだろう。

登場シーンで「やめるんだバイキンマン!」とアンパンマンに言われて、毎回「ドキンちゃんもいまーす」と元気に主張するドキンちゃんの存在を認知してもらえない寂しさを感じることもあるだろう。

「僕はパトロールに行ってきます」というアンパンマンをどこかで「ほんとかよ、空アポじゃねぇか」と思った自分に悲しくなるバタコの憂鬱を感じることもあるだろう。

このように、ときにはその構成要素に移入して浸かることも必要かもしれないし、ときにはその構成要素の役割や関係性、要素としての価値を考える時間も必要かもしれない。

それをアンパンマンでやるかどうかは自由だけど、個への移入と全体への俯瞰は相互補完の関係にあるだろうし、アンパンマンの味方しかしたことがないと、全体の俯瞰は難しい。

これだけアンパンマンの話が続くと、自分でもめんどくせぇな、と思うのだが、きっと人の立場にたったり、俯瞰的に物事をみたりすることはとても脳みそを消費するし、つかれることなのだ。実際つかれた。

自分と違ったものを理解しようとすることは大変だ。

だから、きっと楽な方へ楽な方へ、と無意識に自分を誘導させ、違いを理解しようとする代わりに排斥し、否定し、相対的に自分を肯定するという楽勝ステップを踏みたくなる。

誤解を恐れず言えば、個体をディスるという行為は、「私は、本件に関して脳みそを使うことを諦めました」という敗北宣言と同じなのかもしれない。


話を戻すと


いろいろ話が飛んでしまったのだが、

ほとんどの争いの肝は

「理解していないことを理解していないこと」

にあると考えている。

構造においても、社会においても、自分においても、才能においても。

この争いごっこというか、少しでも自分を賢く見せたいがやり方が分からなくて違った個体をとにかく否定しまくるというの知性のないコミュニケーションの応酬にそろそろ辟易としているし、もう少しスカッとしたところで、スカッと気持ちよく穏やかに生きたいと切に望んでいる。

まずは、自分がその構造や才能を理解できるようになりたいし、理解できていないことを理解できているひとたちと、やさしい世界を手繰り寄せたいなぁと思います。

この本をきっかけに、人を理解しようとすることの難しさや楽しさを知り、「理解していないことを理解している」人たちが増えれば、無意味な争いや、いじめ、ネットの暴言、有名人の上げ下げ手のひら返し、挑戦者に対するリスペクトを欠いた言動が減って、暮らしやすい平穏な世の中になると思うのです。

最後になりましたが、勝手にではありますが、僕はこの本は転職の思考法とセットだと思っています。転職の思考法が個人の思考法なのであれば、天才を殺す凡人は組織の思考法だと。

実際に、多くの経営者の方や人事の方など、組織をよくしたいと思う人、また人間関係の悩みの原因を解き明かしたい人たちが集まって、みんなのストーリーをシェアしながら理解への第一歩を踏み出しています。

このコミュニティは違ったものや世の中の構造を理解したいという優しい人たちの集まりなので、とても優しい空間です。おもしろいひとたちが思う存分に羽根を伸ばしています。

何かを晒したところで、傷口に塩を塗られるようなことはありません。

心理的な安全性の中で、違った考えに向き合ってみたいと思う方。才能の正体に興味がある方。世の中の構造を捉えてみたいと思う方。本の試し読みをしたいと思った方。

よかったらご連絡ください。ご招待します。楽しいですよ。



2019年が、優しい年になりますように。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?