【あの街 この建物】第二話:海と風に向かう集住の地 出雲崎とその界隈
北陸地方の魅力を反芻している今日この頃。
今から18年前の春(2006年3月末)。
私は、新潟県から石川県の間に散在する集落に立ち寄りながら、最終目的地である岐阜県の白川郷を目指し、日本海沿いの道をひた走りました。
本稿では、この旅路の中にあって、私の心を捕らえて放さなかった出雲崎の街並みを主として、彼の地ならではの話を交えながら、ゆっくりと回顧していこうと思います。お時間の許す方は、どうぞお付き合い下さい。
第二話:海と風に向かう集住の地 出雲崎とその界隈
1:国上山から出雲崎へ
出雲崎と言えば、良寛を思い出される方も少なくないはずです。
歴史の教科書に名を連ねている高名な僧には無い「人間臭いお人柄」が世に伝えられている良寛ではありますが、彼の心の様は「書と歌」で表現されてきたと言えるでしょう。
因みに、私が心の拠り所にしている良寛の言葉は、文政11年の三条地震の折に、山田杜皐宛の手紙に綴られていた「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という一節です。
かねてから、この一節を心の中で諳んじることで、負の感情と折り合いをつけてきたことから、去る東日本大震災の折にも、幾度となく救われてきたと感じています。それは、単なる「言葉」としてではなく、良寛の「書」として脳裏に刻まれていたことが功を奏したのだと思われてなりません。
いずれにしても、良寛の嫋やかな筆さばきで綴られた言葉には、私の理想とする観念が込められており、「柳の様にしなやかな心境で常ならぬ日常を過ごしなさい。」と諭されている様な心持ちになるから不思議です。
さてと、感傷染みた話はここまでにしましょう。
この旅の起点を弥彦神社に据えた私は、弥彦山の南に聳える国上山へ赴き、良寛が世話になっていた国上寺や五合庵を訪ね歩いた後に、本稿の主役である出雲崎の集落を目指すことにしたのでした。
2:出雲崎を俯瞰する
国上山を下りた私を待っていたのは、延べ一千万人の労力によって完成した大河津分水でした。想像していた以上のスケール感に、暫し絶句。
そんな興奮さめやらぬ心持ちのまま出雲崎の町に入った私は、一旦心を落ち着かせるべく、尊敬してやまない建築家 谷口吉郎 が、1965年に設計した良寛記念館へ向かうことにしました。
良寛記念館を訪れることは、この旅の主眼でもあり、非常に有意義な一時を過ごせました。それと同時に、急峻な崖地の僅かな平地に建てられた良寛記念館の慎ましい姿から、公共性の高い建築物に対する先達の設計思想(当世にはない)に思いを致す機会となりました。
※近年のコンセプチュアルな建築物と比較すれば、さもない建築物に見えるかもしれませんが、その当時の時代背景や技術力、施工能力、そして予算や維持管理能力等を、地方の水準に照合して設計している点が素晴らしいのです。だからこそ長期供用を果たせたと言えるでしょう。
そんな感慨に浸りながら記念館の前に設けられた広場に向かって歩いていくと、それは素晴らしい光景が目の前に広がりました。
「これが出雲崎の街並みか・・・。」
流石にリンドバーグの「あれがパリの灯か!」には遠く及びませんが、それは静かな感動が湧いてきました。
日本海の海原と急峻な崖地に挟まれた細長い平地に設けられた集住地・・・その全てが視野の範囲に入る感じもまた奥ゆかしく、そしてまた、人々の営みの様子を窺い知ることができた喜びを感じました。
3:街道は「道の歴史」であり「歴史の道」でもある
さて、今となっては日本海に面した漁村のような印象を放つ出雲崎ではありますが、江戸時代には天領として名を馳せていました。それは、佐渡島で産出される金がもたらした繁栄の姿であったと言えるでしょう。
それが為に、中山道の追分宿(軽井沢)から出雲崎宿を北国街道で結んだわけですから、幕府の飽くなきモチベーションと消費したカロリーの膨大さたるや・・・なにをか況やです。
そもそも、労力の全てを人力+牛馬で賄っていた時代ですからね・・・。
街道を敷設するとなれば、周辺地域の農民たちも人足として駆り出されていたであろうし、更には、人跡のない地域に宿場を設けることが決まれば、周辺の村落から強制的に移住することを命じられたケースもあるようですから・・・。この理不尽たるや・・・なにをか況やです(再)。
とまぁ、この時代の名も無き民の苦渋を思えば、毎年の決算・確定申告程度の義務に閉口している場合ではないと猛省している伝吉小父でした。
4:風に悩まされ続けた集落
かくして、北国街道 終点の宿場として、その趣を今に伝える出雲崎の町は「雁木付きの妻入りの街並み」として知られていました。しかし、私が訪れた2006年の段階では、既に雁木を設えた住家は殆ど見られませんでした。
西側に荒れ狂う日本海、そして東側には急峻な崖地という地勢の影響により大火やがけ崩れが幾度となく起きていた様子が伝えられています。もっとも、こうした傾向は、出雲崎に因らず、新潟県の海岸線に面する集落ではよく耳にする話ではあります。
大火と言えば、去る2016年12月22日に同県の糸魚川(新潟県最西端の市)を襲った大火を思い起こします。職業柄、火災としては初となる被災者生活再建支援法(風害の扱い)が適用された災害として記憶に留めています。何しろ近年の消防技術を要しても、鎮火までに30時間余りかかっており、風を伴った火炎の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。
そう言えば、過去記事(下リンク先)で取り上げた角海浜も風と波で消えた村の話です。昭和期まで残った角海浜の村も、風波の影響から免れることはなかったと・・・。人間の英知の限界を思い知らされますね。
こうした古今の例からも、日本海沿岸に近接している集落の多くが、冬場の季節風に長らく悩まされ続けてきたことが窺われます。
5:二つの出雲崎 それぞれの顔
出雲崎の宿場は、上町(尼瀬地区)と下町(旧出雲崎町)の2つに大別されています。(※当然のことながら、京都に近い地域に「上」がつく。)
街道に面した住家の多くは、基本的に住家の間口は2〜3間(1.82m×3=5.46m)程度で、奥行きが長い短冊状(ウナギの寝床:昔の税金対策)であることに違いはありませんが、これら2つの地域では、住家の有様が若干異なるように感じられました。それは、かつての宿場内における役割や職業等の影響もあったのでしょう。
ただ、住家の様相の異なりとは別に、現在の出雲崎を一旅行者の目で眺めれば、「良寛の足跡が残る下町」と「宿場町ならではの旧跡が遺っている上町」という大別ができるかと思います。
実際、上町には、一般公開している旧家(新津邸)や出雲崎代官所跡といった旧跡の類が散在しており、地域の葬祭を担う寺院も多いことから、宿場町を統括するための機能の多くが、上町に集中していたことは明らかです。
それから、下町(尼瀬)と言えば、日本における石油採掘発祥の地「尼瀬油田」を忘れてはなりません。何しろ、日本書紀に「越の国から 燃ゆる水 と 燃ゆる土 が献上された」と記されているくらい、古い時代からその存在が知られていたのだから驚きです。
この旅の前年(2005年)に、遠藤ケイ著「男の民俗学」によって尼瀬油田が昭和の末期まで稼働していたことを知った私は、実際に自分の目で確認してみたいと考えていました。
幸いなことに、直ぐに油井櫓は見つかったのですが・・・。目の前にぽつねんと立っている油井櫓からは、採掘現場というエネルギッシュな姿を想像することはできませんでした。櫓を構成している鉄骨は錆が目立ち、件の本に書かれている通り「日に一升瓶9本分の産出量」という数字を如実に表しているように思われました。
※写真を撮影したかったのですが、いいようのない躊躇を覚えたためカメラを向けることはしませんでした。その様なわけで、油井櫓の写真が一枚も残っていません。
この様に、出雲崎は海と崖に挟まれた小さな宿場町ですが、他の地域にはない特徴を多く感じさせてくれることから、様々な視点で眺め、そして楽しむことができる懐を持っている地域だと感じました。
それが少しでも伝わってくれたなら幸いです。
6:出雲崎界隈の「働く家」
それでは、出雲崎から少しだけ範囲を広げてみたいと思います。
港町(漁村)でありながら、宿場町の機能を兼ね備えていた出雲崎の街並みと表情を異にする建物が、出雲崎界隈には沢山存在しています。それもかなり長い時を経ていると思われる建物で、それらの多くは、所謂「働く建物」と言ってもよいでしょう。
例えば、国上山から出雲崎へ向かう途上で立ち寄った寺泊の山田(出雲崎から北へ7㎞程)という小さな漁村では、上写真の様な様式の建物を数多く見ました。(※北陸地方で海に直接面した地域の建物としては、極めてオーソドックスなスタイルだと言える。)
一瞥して分かる通り、街道に面した側に2階建て相当の住家を建築し、それに付随する形でダシダナと呼ばれる細長い小屋(漁具等を収納・仕事場)を海の方へ伸ばしています。
この単純で明解な姿が、板張りの外装と相まって、何とも言えない風情を醸しています。それらは「さびれた」と言うよりもむしろ「寂び」に近似した趣を滲み出しているように思われてなりません。
また、海岸線を富山へ向けて移動している間にも、太平洋側の集落では見かけることが少ない特徴を発見することができました。
その特長とは、敷地を囲むように設けられた板柵(一部には竹や葦なども使用されていた模様)のことです。現代の言葉で言えば「外構」の範疇に入るのでしょうけれど、その趣は砦そのもの。
特に、海岸線に直接面した場所に建てられた住家で見受けられました。
出雲崎から10キロ程の所にある柏崎の机立観音堂の傍で、他の住家よりも「砦感」が際立っている住家を見つけた私は、路肩に車を止めて撮影することにしました。
この住家では、板塀の一部に竹を束ねた箒状のものを立てかけており、非常に野趣あふれる雰囲気を放っていたので、鮮明に記憶しています。
試しにグーグルアースで調べてみたところ、今現在も板塀が現存していることが分かりました。入口の配置が変わっていることから、板塀を刷新していることが窺われます。(家も建て替えされた模様。)
周辺を確認してみると、板塀を外してしまった住家も多いようです。人様の家ではありますが、こうして地域的な特徴が失われずに遺っているという事実を知り、手前勝手ながら喜ばしく思うのでした。
7:最後に
宿駅制を推進した幕藩体制の崩壊や、その後の交通網の発展によって寂れていった宿場町は少なくありません。
けれども、この小さな出雲崎の宿場は遺りました。誰もが知る五街道の規模には及ばない脇街道(北国街道)の終点の地でありながら、今もなお、人々の営みと共に街並みが維持されているのです。
それは、明らかに出雲崎に暮らす人々の意志と努力の賜物でありましょう。更に、「天領」「佐渡島の金」「北前船の寄港先」や「良寛」そして「石油採掘」といった、他に類をみない有形無形の歴史的価値も大きく影響したに違いありません。
そして今、彼の地が長い時をかけて培ってきた歴史的価値は、観光資源という呼び名に変わり、かつての宿場町を支えていることが分かります。
さわさりながら、昨今の観光地の有様を眺めていると、観光事業による経済効果を優先するあまり、観光資源の界隈に暮らす人々の生活が、なおざりになってしまっているように思われてなりません。
こうした宿場町とて、普通の人々の穏やかな営みがあるからこそ、前向きに継続維持されているという事実に思いを致したいものです。
私は、観光客の「客」ではなく、旅人の「人」でありたいと思います。
あとがき
これまで過去の自分の行為を回顧することに余り意味を感じていなかった私ですが、こうして省みる機会を持つことで、かけがえのない愉しみが存在することを知りました。
それは「答え合わせ」です。
あの時点で棚上げしていた事柄に白黒つける・・・といった物騒な話ではなく、若い時分には言葉にできなかった事や、見い出せなかった事などを、歳嵩を増した今の自分が、それまでの経験とネットワークの力を借りて、朧気になりつつある記憶の解像度を少しだけ上げるという、そんな答え合わせに醍醐味を感じ始めているところです。
今後とも、他愛もない「少し昔の話」が続くと思いますが、興味のあるかたはお付き合い下さいませ。最後まで読んで頂き、有難うございました。
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