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生活者としての普通

紅谷浩之さんのnoteを読ませてもらっている。この方をnoteで知れて良かった。非常勤のお仕事をもらってなかったら出会えなかった。お仕事頂けて良かった。

仕事上,人の死には数えきれないほど立ち会ってきたけど、それはすべて病院内でのこと。だから、死は「ご臨終です。」と医者が言うその瞬間なのだ。そう思っていた、今の今まで。

紅谷さんのnoteをいくつか読み漁ってこの年にしてそれは間違いだったと気づいた。死は瞬間じゃない。生きている人が死ぬということは生から死にだんだんと向かっていく長い時間軸のグラデーションのことなのだ。

生活の中にある死は考えてみればそうだ。家でぽっくり死んだばあちゃんなんてそうで。縁側にちょこんとおっちゃんこしてインゲンマメの筋を取っていたと思ってたら、いつまでも立ち上がって持って来てくれない。丸まった背中に「ばあちゃん、どした~?」って暢気に声かけた。返事なし。動かない。おや?と思い近づいて、背中をトンとして前に廻って顔を覗き込んでみたら、そのままふわっと前かがみになって突っ伏した。それで初めて異常に気付き「ばあちゃん!ばあちゃん!」て呼んでみたがもう息をしてなかった。

田舎のひいばあちゃんはそんなふうに逝ったそうだ。

さあ、このばあちゃんの死亡時刻は何時何分?家族が気づいたその時?慌てて町医者に来てもらって死亡を確認した時?真偽のほどは誰もわからない。


思い出したことがある。

医者が「ご臨終です。」と言ったその間合いで患者さんが大きく深くゆっくりひとつ息を吐いたことがあった。新人だった私は『あっ』と出そうになった声をごくんと飲み込んだ直後、その場が凍り付くかと思った。家族から「死んでないじゃないですか!」と怒号が飛んでくるのを覚悟した。ところが、そうはならなかった。看取りに立ち会っていた家族のひとりが「あ~おばあちゃん、苦しかったか?そうか…。」と言ってそっとおばあちゃんの頬をなでてあげたのだった。『へ?』って思った。家族はなにごともないように普通にそう言って、そして、それきり本当にもうおばあちゃんは息をしなかった。

実は臨終を宣言するのは結構難易度が高い。今はの綴じ目の呼吸はかなり間があいて次の呼吸をするので、それが正真正銘人生最後の呼吸なのかどうかを見極めるのは、ベテラン医師であってもときに難しい。

だけど、だから?

死とは本当はそういうものなのかもしれない。


人間が生活者であることをだいたい忘れている医療者は,とかく普通の感覚からずれている。どんな人にも生活があると頭では承知している。だが,病衣を着て病室のベッドが生活場所になっている人を目の前にすると,それを忘れる。病院という超特殊状況の中でしか人を見てない。そのわりに医療者はなんだかいつも偉そうだ。

医療関係者になろうとする学生さんたちに、そういう自覚を是非にも忘れないでほしい。病院で場馴れした医療者よりも、普通の人に近い感覚を残す彼らにこそ、もっと生活者側から疑問を投げかけてみてほしい。当然,いまやプロフェッショナルとなった医療者たちが、投げかけられた疑問に素直に立ち止まってくれるかどうかはわからない。

それでも,ちらっとでも目の前をかすめた自分の違和感は見逃さずキャッチしてほしい。それを口に出して言う勇気はなかったとしても,愚直に自問自答し何度でも考えあぐねる不器用さを持ってほしい。答えはきっと出ないかもしれないが。

現場には,答えの出ない大中小,種々のテーマが河原の石ころのようにごろごろ落ちている。全部はムリでも,その石のひとつかふたつを拾っていつまでも懐に入れて温め続ける持続性は,スピード感重視の今では貴重な能力に違いない。

学生だってチームの一員。それを蚊帳の外にするような「自称プロ」に媚び諂うことなんてないさ。

そんなことを伝えてあげたい。

https://note.com/orange_be_happy/n/n2ab25006c949


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