RRRのセリフをテルグ語で+

 「RRRで学ぶテルグ語」無事終了しました。「ディスク(まだ発表されていませんが)や配信で聞き取れたセリフを、最終日に配布する語彙リストを参照すれば、きっとこうだ、と推定できる」を目標に、詰め込んだ内容で、急ぎ足になってしまいましたが、少しでもお役に立てれば幸いです。
 最終日に、辞書を引いただけでは意味がよくわからない単語をいくつか挙げましたが、「文化の違い」に関わる、私とは少し畑違いの分野について、あれこれ考えてみました。

nuvvu cēsēdi goppa tyāgam=ani telav-akuṃḍā

「あんたのすることがすごい tyāgaṃ だとわからないで・・・」。再会したラーマから「おいこら(ūr-u=kō rā)、ビーム」と遮られる直前のセリフです。語彙リストではtyāgaṃを「(無私の)自己犠牲」と訳しましたが、講座で説明したように、バガヴァッド・ギーターでも論じられている行為のあり方に関する概念です。ラーマの「私は結果を求めない」というセリフにも呼応しますが、「結果を得られるかどうか」だけでなく、個人的な執着(父親の命や友情を失うことも含め)をすべて惜しまず投げ捨てること、というような意味だと思います。「友情か、使命か」というキャッチフレーズの答えは「使命だ」とここではっきり言っているわけです。そして、利用され、裏切られたビームは「使命」なのだからとラーマを赦すのです。「王命」により命を奪われたアマレーンドラ・バーフバリがカッタッパを赦したように。
 『バーフバリ』ではこの tyāgaṃ が、マヘーンドラ・バーフバリの「俺は誰なんだ」に対する回答としてのカッタッパのセリフ、「シヴァガーミの prāṇa tyāgaṃ (命の犠牲)の phalitaṃ (結果)がおまえだ」という形で出てきます。また、『バーフバリ 王の凱旋』の冒頭では、『伝説誕生』の冒頭のシヴァ神へのシヴァガーミの祈りの絶叫、「マヘーンドラ・バーフバリは生き延びねばならない(batak-āli)」が繰り返された後に流れる『伝説誕生』の筋を要約した歌が「oka prāṇaṃ, oka tyāgaṃ」ではじまるのです。サンスクリット由来の単語がタミル語に置き換えられることの多いタミル語版でもこの曲は「oru yāgaṃ, oru tiyāgaṃ(一つの生贄、一つのtyāgaṃ)」ですし、マラヤ―ラム語でも「oru jīvan, bahutayagaṃ (一つの生、多くのtyāgaṃ )」ですから、簡単な日本語には翻訳不能なこの単語、南インドでは共通に理解されているのかもしれません。

āśayaṃ

 「使命」にあたるのがこの語で、RRRでは4回出てきます。「使命」という訳語が使われているのは字幕ではベンカテースワルルがラーマのビーム救出を思いとどまらせるために、āśayaṃのために火の上を渡るようなtapassu(苦行)を絶え間なく続けてきただろうと言うシーンだけで、これに対してラーマが「āśayaṃのためにビームを生贄にはさせない」と言い返すのですが、バガヴァッド・ギーターの引用の後の「責務に向かって突き進むのみ」と、エンディングでのビームへの感謝「おかげで目的を果たせた」でも使われているのは同じ単語なのです。最初に聞いたときは、āśa「願い、望み」の派生語かなと漠然と思っていたのですが、よく考えてみると切るとしたら ā + śaya で、śaya は「横になること、寝ること」なのです。「行為を終えて休むところ」つまり「目的地、ゴール」であって、「願い」のような「結果として生じてほしいことへの執着」とは無縁の語でした。
 『バーフバリ』で気づいたところでは、カッタッパがマヘーンドラ・バーフバリの育て親に礼を言うところで「死んだと思った āśayaṃ を生き延びさせて」という表現を使っています。「死んだ」は中性主語なので、ここでの āśayaṃ は単にマヘーンドラその人のことを言っているわけではなく、「真の王に仕える」という使命を言っているのでしょう。ちなみに、āśayān-ni batikiṃc- 「使命を生き延びさせる」は、RRRエンディングのラーマからビームへの礼と同じ表現です。
 RRRのラーマとビームの関係は、バーフバリでのカッタッパ/シヴァガーミとアマレーンドラ・バーフバリの関係によく似ています。そのせいか、使われている単語にもけっこう共通点があります。「裏切り」vennupōṭu は直訳すると「背後の一刺し」というカッタッパ痛恨のシーンそのままです。ひょっとして日本語の「裏切り」も「裏斬り」?とか考えてしまいます。「生贄を燃やす燃料」という意味の samidha は、騙されたクマーラ・ヴァルマに向かってビッジャラ・デーヴァが暴露した「おまえはバーフバリの生贄の儀式の samidha だったのだ」で出てきます。tappu 「誤り、罪」に関するやりとりが多い点も共通です。

āvēśaṃ

 「ビームの āvēśaṃ は人々を武器に変えた。その āvēśaṃ を人々に届ける。」字幕は日本語で「感情」、英語字幕でも emotion です。1991年に出た Gwynnの辞書でも最初に上がっている訳語は emotion, inspiration ですから、問題はないように思えます。でも、エモーションとインスピレーションが並んでいる、ってどういうこと?さらにわからなくなるのが19世紀から20世紀前半に編まれた辞書だと emotion なんていう訳語はないこと。多くの辞書の訳語で使われているのが possession 「憑りつかれること」。inspiration が出てくるのは神に憑りつかれた場合で、魔性のものなら fury 「激怒」なのです。元のサンスクリットだと、ā + vēśaṃ で vēśa は「入ること、住み着くこと(女郎屋なんて意味もあるようですが)」なので、こちらが原義でしょう。
 講座では、「理性でコントロールできない状態」のことかもしれないと言いましたが、それを「伝える」というのも変です。ひょっとすると、ビームは憑りつかれているんではなくて、憑りつく側じゃないのか、という線で考えてみました。ラージャマウリ監督をはじめ、南インド映画の監督のインタビューでは emotion という表現がよく出てくるのですが、ひょっとすると「感情」よりは「感動」に近い意味で使っているんじゃないかという場合が多いと思います。そもそも emotion も motion からわかる通り、もともとは「扇動、興奮」という意味だったようですし。外から働きかけるというよりは、見ている側の「共感」の力で人々を動かす「感動」とでもいいましょうか。講座をやって思ったことですが、RRRを見たためにラーマやビームに入りこまれてしまった日本人もたくさんいそうです。

amāyakulu

ヴェンカタアワダーニ顧問のゴーンド族評価「素朴な部族」です。māya 「まやかし、ごまかし、悪知恵」のない人々、ということですが、神々すら手練手管の māya を競う世界のこと、無知・無芸という意味にもなります。『バーフバリ』では、デーヴァセーナに芝居を見破られそうになったアマレーンドラ・バーフバリを、タッカッパが vaṭṭi amāyakuḍu 「まったくの能無し」と誤魔化そうとします。
 ヴェンカタアワダーニはさらに「踏みつけにしても声を上げない」と続けるのですが、この声を上げないの部分、 ad=ēṃṭ=an=aḍaga-ru. 「『何だそれ』と問わない」という表現、インド経験のある人ならピンと来るのではないでしょうか。『何だそれ』と言いたくなるような無茶な要求を聞いたことはありませんか?腹が立つというよりは、まず呆れてしまうのですが、外国人だから甘く見られているというわけではなく、「私は結果を求めない」と言わんばかりにとにかく要求してみる、というのはインド人同士でもよくやっています。言われた側のそのときの表現が ad=ēṃṭi? で、片手を持ち上げて垂らした手のひらを相手に向ける仕草を伴っていることがよくあります。指差すのではなく手のひらを向けるというアクションは、ほかの意味合いでもよく使う動作です。
 RRRが日本で異例のヒットとなったのは、インド映画には珍しくヒーローを amāyakuḍu が演じていることが、世界に冠たる amāyakulu に受けたからだ、というのは深読みが過ぎるでしょうか。

bhārgavaṃ

 セリフでもなくテルグ語でもない、「ラーマム、ビーマム」の歌詞のビーマムに続く文句です。ラームもビームも中性単数主格形だから、とサンスクリット辞書の中性名詞 bhārgavaṃ 「ダイヤモンド」で訳していましたが、中性主格ではなく男性対格(「ラーマを、ビーマを」になってしまいますが)だとすると、やはりダイアモンドではなく、ラーマムの後の rāghavam に合わせた形にすべきでしょう。
 rāghavaṃ は、「raghu の一族」で、raghu はラーマーヤナでのラーマの祖先にあたるアヨードヤの王の名前です。これに対応するとしたら bhārgavaṃ は「bhṛgu の一族」、bhṛgu はインド神話に出てくる ṛṣi「リシ、聖仙」の名前ですが、マハーバーラタのビーマの祖先というわけではありません。ちょっと長い説明になります。
 まず、「リシ」とは何か。国際的に有名なインド出身の宗教家の一人、ビートルズ(というよりジョージ・ハリスン)をインドに導いたことで知られるマハリシ・ヨギ、といっても覚えている人は私より年上の人がほとんどだと思いますが、「リシ」はインドでは子供でも知っている聖人のカテゴリーです。なぜ子供でも知っていると断言できるかというと、インド系文字について調べるために、子供向けの文字学習絵本(それぞれの文字ではじまる絵と合わせて文字を学ぶ学習帳)を昔集めたことがあるのですが、母音の ṛ (テルグ文字だとఋ)のページには、ほぼすべての言語(この字がないタミル文字は除きます)で、森の中で修行している髭の老人の絵が載っているのです。母音ṛはそもそもサンスクリットにしかないので、これではじまる単語で選べるのは限られています。ṛṇaṃ 「借金」は絵で描くのは難しそうですし。(シータの「食べ物が気を悪くする」に対するビームのセリフ nī-ku runam=ayi-tim=amma「俺たちあんたに借りができた」で出てくる語ですが、語彙集では発音に合わせてrunam にしています。)~Google画像検索でrishiを調べると、今はインド系の英国現首相の画像がほとんどです。ఋషిで検索してみてください。~
 インド神話では北斗七星を saptarṣi 「七聖仙」と呼びます。古代エジプトで視力検査に使われたという伴星は、このうちの一人の奥さんです。残り6人は独身、というわけではなく、インダス印章文字解読の試みで知られるインド学者アスコ・パルポラ先生によると、残り6人の妻たちは浮気の罰として牢に入れられていて、この牢が昴(すばる)なんだそうです。
 神話以外でリシが重要なのは、バラモンのゴートラ(結婚相手を他のゴートラから探さなければいけない「外婚集団」)は、祖となるリシによって分けられている、ということです。ですから「リシ bhṛgu の一族」として名乗る bhārgava はバラモン、ということになります。bhārgava バラモンを祭司として庇護した王族(クシャトリヤ)として知られるのがアヴァンティ国。都はマーヒシュマティ(!)。ヴィンディヤ山脈の南側、ナルマダ川沿いの、ダクシナーパタ(南の道。デカン)の入り口の王国です。しかし、bhārgava としてもっとも知られるのが、アヴァンティ国に仕えて3代目のパラシュラーマで、bhārgava rāma が別名です。リシであった父や祖父と違って、武闘派のバラモンで、ヴィシュヌ神のアヴァターラ(化身)に数えられています。『マハーバーラタ』では、ビーシュマをはじめとするハスティナプラの軍師たちの師匠であり、ビーマやアルジュナらパーンダヴァ兄弟や、後にその敵として戦うカウラヴァ族ドゥリョーダナの共通の軍師となるドローナに、最終兵器ブラフマーストラを伝授したりします。この、軍師としての「パラシュラーマの一門」という意味で、bhārgavaṃ なんだろうと思います。
 「ダイヤモンド」という意味の由来はどうなっているのか。『マハーバーラタ』では、クルクシェートラの戦いで勝利をおさめたパーンダヴァ5兄弟と、クリシュナをはじめとするヤーダヴァ一族の末路として、ヤーダヴァ一族の殺し合い、クリシュナの都ドワーラカの水没、パーンダヴァ5兄弟の隠遁の途上での死と、盛者必滅のストーリーが続きます。ヤーダヴァ族(つまり、「パラシュラーマの一門」)でただ一人生き残ってパーンダヴァ族の都で王位につくのがクリシュナの孫にあたる「ヴァジュラ」、つまり、インドラ神の武器である「金剛杵」(ダイヤモンドのように固い雷)の名前をもつことと関係がありそうな気がします。(indradhanassu「インドラの弓」はテルグ語では「虹」という意味で、ラピュタの最終兵器には結びつきません。)

 映画を見るまで私にとっては「RRR」といえば、カルナータカの古都マイソールの宮殿近くのバザールに今もある南インドレストランのことでした。インド諸言語研究所のあるマイソールには留学前から何度も足を運んだのですが、「アーンドラ・スタイル」という看板に惹かれて入って以来、マイソールでは食事はここと決めていたのです。たぶんオーナーのイニシャルだと思うのですが、マイソールにはもう一軒、RRというレストランもあって、こちらは今も「アーンドラ・スタイル」を看板に掲げています。
 マイソールといえば、ハイダル・アリー、ティプーの親子2代の対英抗戦で知られていますが、軍司令官がスルタンとして支配した18世紀後半も含め、ヒンドゥーのウォデヤール王朝の都で、町のシンボルも、宮殿一帯を一望するチャームンディー・ヒルの中腹にある、デカンの巨岩を削って作られたナンディ―像です。ナンディ―はシヴァ神の乗り物で、シヴァ寺院にはこの牡牛の像がつきものなのはRRRの蛇毒治療シーンで気付いた人も多いと思いますが、ここではナンディ―が主役で、シヴァ神は岩の間の小さな祠です。
 だからマイソールと言えば「牛」なのですが、不思議なのはこの町の名前が牛ではなく「水牛の町」 mahiṣa-pura に由来するということです。 水牛の形をとるアシュラ、 mahiṣāsura を成敗したドゥルガー女神の化身、チャームンディーにウォデヤ家が帰依していた、ということのようですが、成敗したのなら町の名前を変えてもいいんじゃないかと思うのですが。
 バールガヴァ一族ゆかりの都マーヒシュマティも、実は「水牛持ち王の(都)」という意味です。こちらもやはり、水牛ではなく牛にまつわる説話の舞台になっていますが、牡牛ではなく牝牛、それもすべての牝牛の母なる聖牛、カーマデーヌです。カーマデーヌの所有者はパラシュラーマの父であるジャマダグニというリシ。千の腕をもつ(sahasrabāhu)マーヒシュマティの王アルジュナがこのカーマデーヌを欲し、森のリシを訪ねて1千万頭の牝牛や王国の半分で譲るように持ち掛けるのですが、ジャマダグニが拒んだので、カーマデーヌを盗んで連れ去ります。追いすがるジャマダグニを殺してしまったので、息子のパラシュラーマがマーヒシュマティを攻めてアルジュナを倒し、囚われのデーヴァセーナカーマデーヌを取り戻すのです。
 マハーバーラタの時代にはこのマーヒシュマティも、ガンジス河水系から分水嶺ヴィンディヤ山脈を越えた辺境だったと思われ、蛇神族ナーガやニシャーダといった非アーリヤ人の記述が多いエリアになります。マーヒシュマティの王家はヤーダヴァ族で、この地をナーガから奪ったアーリヤ系王家ということになります。
 片や聖なる牝牛、片や成敗されるアシュラ。牛と水牛でなぜかくも扱いが違うのか。現代の遺伝子分析によると、牛(コブウシ)も水牛も、インドの北西部で家畜化された動物で、インダス文明期にはすでに家畜として定着していたと考えられます。その後やってきたアーリヤ人は、西アジアでかなり早く家畜化された牛は知っていたけれど、水牛はインドに来るまで馴染みがなかったのではないかと思われます。サンスクリットで牛を表わす go- は、英語の cow とも同起源のインド・ヨーロッパ祖語からの継承語彙ですが、水牛 mahiṣa のほうは maha- 「大きい」の派生語で、「大きい(牛,獣)」と呼ばれたことに因むようです。象 hastin- が、hasta- 「手」をもつ動物と呼ばれたように。インド神話ではアスラ(スラ「神」でないもの)などダイトヤも神から生まれていたりして、異族が必ずしも悪役ではないのですが、アーリヤ人がインドに入った当初には水牛を飼う人々との戦いもあったんだろうと考えられるのです。
 マーヒシュマティと、はるか南のマイソールはどういう関係なのか。マハーバーラタの時代だと主要な舞台はほぼガンジス川水系で、南インドは地名としてしか出てこないのですが、draviḍa などと並んで māhiṣaka が出てきてマイソールのエリアに比定されているようです。この内陸エリアの西海岸側には mūṣika と呼ばれる地域があって、後世にはマーヒシュマティの王家の血筋を名乗る支配者が出たりしています。西ガーツ山脈が海岸まで迫る西海岸各地には、パラシュラーマが斧(戦斧)を投げて届いたところまでが陸地になってそこに住み着いたという起源伝承をもつコミュニティーも多いですし、ことによると水牛を連れて北西インドから南へ向かった人々が多かったのかもしれません。海岸伝いだけでなく、マーヒシュマティからナルマダ川上流に向かえばゴーダワリ水系もすぐ隣です。
 水牛と言えば、冥界の王ヤマの乗り物でもあります。「双子」という意味もあるヤマは、マヌと並んでインド・ヨーロッパ族共通の創世神話に遡るとされる由緒正しいキャラクターで、たとえばローマ建国神話の双子のうちの殺される方(レムス)との関連が指摘されたりしていますが、インドに入ってインド土着の水牛と組み合わされたのでしょう。ギリシャ神話のゼウスや北欧神話のトールと同じく雷神であるインドラの武器がインド特産のダイアモンド(金剛)と組み合わせられたように。

 ラージャマウリ監督作品に限らず、インド映画の中にはインド神話のモチーフが色濃く反映されていて、マーヒシュマティという地名のように、細かいエピソード部分が出てくる場合もよくあります。昔のように村芝居がやってきて夜通しハリカタ(クリシュナ説話)を演じ続ける時代ならいざ知らず、現代の都市部で育った監督たちがなぜこんなに博識なのか。
 1990年代以降の目覚ましい社会変化で今後どうなっていくのかはわかりませんが、ラージャマウリ監督の世代についてはいくつか思い当たることがあります。一つはテレビです。放送自由化前、テレビと言えば国営放送1チャンネルしかなく、テレビ放送も日中はお休みだった1987年に放送を開始し、80パーセント以上という視聴率を獲得したヒンディー語ドラマ『ラーマーヤナ』。その後はすぐ『マハーバーラタ』が続きました。私のハイダラーバード留学はほぼこのドラマの放映時期に重なるのですが、日曜午前中の放送時間帯は、テルグ語圏でもテレビの前に人が集まり、ヒンディー語がわからなくても、次はこうなる、という解説付きで老若男女が見入っていました。1990年代に入ると、衛星チャンネル乱立の時代で、番組制作が追いつかないため南インドではどのチャンネルもほとんどの時間帯が昔の映画の放映で時間帯を埋めていて、往年の神話映画が再び脚光を浴びたのです。
 もう一つ、細かいエピソードということになると、ほとんど唯一と言ってもいい子供向け絵入り月刊誌『caṃdamāma(お月さんおじさん)』が大きいと思います。本屋に行かなくても近所の雑貨屋で買える定番商品でしたが、漫画の多くがインド神話に由来するストーリーでした。1947年にマドラスで創刊。発行者はチャクラパーニとナーギ・レッディ。マドラスに巨大スタジオをもっていたテルグ映画界の大物プロデューサーでもあります。テルグ語版とタミル語版で出発し、最盛期には英語を含め12言語版が発行されていました。21世紀に入り、オンライン雑誌化したのですが、休刊後、復活の見込みは立っていないようです。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?