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観る将歴30年のつぶやき「勝負飯」

 最近では、棋士の公式戦が中継されることも多くなったので、棋士が指した棋譜だけでなく棋士の人格や行動にスポットがあたることも多くなった。

 その最たるものが、
「勝負飯」
と呼ばれる、対局中の棋士の食事であろう。


 知っている人も多いと思うが、引退した元A級棋士の橋本氏が、ここのところその勝負飯を批判して話題になっている。

 話題……、と書いたが、まあ、ほぼ炎上していると言って差し支えが無いほど、批判が多い。


 橋本氏の主張は、概ねこんな感じだ。

「棋士が食べているメニューの画像を観て、何が楽しいのだろう?」
「そんなところにスポットを当ててないで、棋士が一生懸命素晴らしい棋譜を紡いでいるのだから、そちらの魅力を伝える方が尊い」
「棋士の紡ぐ棋譜を理解できない人は、棋士の素晴らしさを分からない人だ」
「棋士の素晴らしさを本当に理解できない人は、可哀想な人だと思う」
「勝負飯なんてものは、棋士の素晴らしさを視聴者に伝えられない関係者の誤魔化しや怠慢だ」

 と、まあ、勝負飯に対する批判と、棋士の本分を橋本氏的に解釈した主張が並んでいる。


 橋本氏の主張に対して、私が思うことは三つある。


 一つ目は、
「橋本氏が言うところの棋士の本当の素晴らしさを、一般の人が理解するのは無理」
だと……。

 これは当然のことだと思うのだ。
 例えば、
「熱烈な阪神ファンのどの程度の人が、野球の技術論をプロ野球選手並みに知識を持って応援しているのか?」
というのと同じことだからだ。

 プロ並みの知識を持った野球ファン……。
 コンマ数%もいれば御の字だろう。

 それがなければ=可哀想な人……。
 まあ、暴論としか言いようがない(笑)。

 橋本氏は幼少の頃から将棋に勤しんできた人だ。
 だから、当然のように理解できる部分が多いのだが、一般の人はその百分の一も理解できない。

 分かっている人には、分からない人がどれくらい分からないのかは、分からない。
 幼少期に分からない時期が過ぎ去ってしまったプロ棋士の方々は特にそうだろう。
 分からないことに実感がないので、伝えれば伝わるという錯覚を起こすのだと思う。


 二つ目は、
「棋士の素晴らしさにある程度触れられるくらいの人でも、勝負飯には興味があるよ」
ってことだ。

 私は、勝負飯なんて言葉が出来るずっと前から、棋士の対局時の食事には興味があった。

 長い付き合いのあるY七段なんかはデビュー当時は昼飯を食べない派であったし、羽生九段がタイトルを独占していた頃から思っていたのは、
「羽生先生って、対局時に揚げ物を食べてる時の勝率が悪いんだよなあ……」
ってことだった。

 Y七段の方は、しばらくするとちゃんと昼食をとるようになったが、羽生先生が揚げ物を食べた時の勝率が悪い方は、長年観てきたが、未だにその理由が謎のままだ。
 そして、その傾向は今でも続いているように思える。

 私は、そこそこはプロの棋譜が理解できる方だ。
 アマチュアの指す将の中でも、上から数%の部類には入っているとは思う。

 それでも、勝負飯に興味があったりするのだ。
 一般の指し手の意味が分からないような方々が、勝負飯に興味を持っても何ら不思議はないと思うのだが……?

 ……って、まあ、私は観る将歴も長いから、あまり参考にはならないか(笑)。


 三つめは、
「橋本さんの言いたいことも、部分的には分かる」
ということ……。

 部分的には分かると書いたが、具体的には、
「棋士の素晴らしさを視聴者に伝えられない関係者の誤魔化しや怠慢だ」
が、これに該当する。

 何が言いたいかというと、あまりにも観る人向けの配慮が足りないってことが言いたいのだ。


 今季、メジャーリーグの大谷選手は投打ともに活躍したが、そのプレイぶりを紹介するために数限りないデータが引用されていたことを多くの人が目にしただろう。

 大谷選手打った打球の速度や、長打率、打撃の貢献率、どのコースを打っているか、三振の個数の増減、などなど……。
 それこそあらゆる角度から打撃や投球の分析を行い、過去の他選手と比較して、いかに大谷選手が凄いプレイをしていたかを毎日のように報道していた。

 これが、観る人向けの配慮だ。
 技術理論や難しい理屈が分からなくても、データの比較をすることで選手の活躍ぶりを誰にでも分かるように示している。


 では、将棋界にこの観る人向けの配慮があるだろうか?

 例えば、藤井五冠は終盤が特別強いと言われているが、それを具体的に示す指標を発表した人がいるだろうか?

 もし、私が終盤の強さを指標にするのなら、勝った将棋の投了図で詰みや必死を掛けた手数の長さの各対局のデータをとり、その平均値を出して各棋士で比較することをやると思う。
 この平均値が大きいほど、終盤でよく読んでいるという証になるので、=終盤力の指標になるのではないだろうか?


 将棋の対局をすると棋譜が残る。
 棋譜はデータの塊みたいなものだ。

 しかし、棋士は棋譜を勝負の観点からしか活用しない(まあ、棋士は勝つか負けるかが重要なので、それはある意味当然なんですが……)。
 決して観る人向けに棋譜からデータの抽出をしたりはしないのだ。

 だったら、誰がこういうデータを示すか?
 それは、対局を観る側に紹介する人の役割でしょ。

 つまり、対局の番組を制作する側であったり、観戦記を書く観戦記者の役割なのではないだろうか?


「そんなデータを出して、誰が観て喜ぶの?」
と、こういう反論も出てくるだろう。

 しかし、そういう人には、こう言いたい。

「勝負飯のような、将棋の盤上のことではないことでさえ興味が持たれるんだよ? だったら、盤上のことをデータ化して、興味をひかないと何故言い切れるの?」
と……。


 正直、橋本氏の言い分は一方的過ぎて全面的には頷けない。
 しかし、その主張の中には、たしかに指摘通りの部分もあるとは思うのだ。


 炎上したから、否定して終わりで良いのだろうか?

 私はそうは思わない。

 今よりもっともっと棋士と、棋士が紡いだ棋譜の魅力を伝える方法があるだろうと思うから……。


 ……と、橋本氏の一連のツイートを見て思っていた。

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