自分が「書きたいもの」と「読みたいもの」の違いを考える。

先日、箕輪厚介さんの「死ぬこと以外かすり傷」を読みました。


本当に良い本で、「熱い思い」という言葉では生ぬるい「激情」を感じたのですが、本の感想や内容とちょっと離れたところで思ったのが「自分が書きたいもの」と「自分が読みたいもの」は大きくちがうんだなあという事。


そして、もしかして「自分が読みたいもの」を作った方が結果的に多くの人に響くのではないかと。


たとえば、僕が失恋したとする。


まあ、本当にしたのだけど。


その時の自分が『書きたいもの』は、

「失恋したよー。切ないよー。」とか、

「あの子に恋した、この気持ちはきっと無駄じゃないんだ…」とか、

なんか割と、きもちわるいことだったりするじゃないですか。


けど、これがその時に自分が『読みたいもの』となると、

「今後どうやったら振り向いてもらえるか?その戦略を考えよう」

「失恋から立ち直るにはどうすればいい?」

「大丈夫。女の人は星の数ほどいるよ♪」

とかに、なったりする。(3つ目は、ちょっときもちわるいかも)


そして、この場合、後者の方がより多くの人に共感されるんじゃないかと思うわけですよ。


これだけツールがたくさんある現代。

創作というのは一部の限られた人のモノではなくなりました。

日々たくさんのものが生まれて消費されてく現代で、息が長かったり、多くの人に響くものって、もしかしたら「作者がこんなのを読みたい」っていう思いをベースにつくられてるのかもしれない。


箕輪氏も著書の中で、「今こういう装丁が売れてるとかはいい。自分がこの人のこういう姿が見たい、という思いから作った」というような事を書かれてました。

そういえばガラスの仮面の作者、美内すずえさんも「読みたい漫画を自分が描いて、それを読めばいいんだ!」という思いからマンガを描き始めたんだとか。


もちろん、自分の「書きたい」気持ちを否定するつもりはないんです。

「書きたい」ように書くことで救われる思いは間違いなくあるし、それが「ガチャン!」とまるで交通事故のように、自分以外の誰かの心にクリティカルヒットすることもある。


ただ、もし自分の作ったものを多くの人に見てほしいのなら、自分が「読みたいもの」と「書きたいもの」の違いを考える必要があるな、とそんなことを『死ぬこと以外かすり傷』を読んで思ったのですよ。

それに「自分が読みたいもの」を作れば、最低でも1人はファンがいるわけですからね。それだけで幸せなんじゃないかな、と。

とりあえず自分くらいは、自分の書いた文章のファンでありたいな、とそう思うのです。

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yozacchi

思ったこと

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