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去年見つけた雨の日の楽しみ方。

昨日、沖縄が梅雨入りした。

ただでさえ湿度が高い沖縄なのに、これから雨の日が続くのかと思うと、もうすでにうんざりしている。

雨が必要なのは重々承知している。しかし、沖縄の梅雨は油断したら自分にカビが生えるんじゃないかってくらいにジメジメベトベトするので嫌いだ。

早く梅雨明けして夏が来ないものか。出来ることなら一気にドバッと降って、サラッと梅雨が明けてほしい。

まあ、そんなことは無理なので、甘んじて受け入れるしかないのだが。

ただ、そんな雨の季節の楽しみ方を去年見つけた。

それが以前も紹介した「雨の名前を知る」こと。

日本語には400を越える雨の呼び名があるそう。

同じ降り方でも何種類も呼び名があったり、また季節や地域によって呼び名が変わるから不思議だ。

人間は自分の生活に深くかかわるものに対して、より多くの言葉を持つという。古代エジプト人は砂を表す言葉を50種類、エスキモーは雪を表す言葉を100種類ももっていたそうだ。

名前を付けるという行為は、そのものと他のものと区別するために行うわけで。

俺からしたら「雪」や「砂」なんて、せいぜい数種類しか違いを感じられないが、彼ら彼女らはその言葉の数だけ「砂」や「雪」の違いを感じていたことになる。これは凄い事じゃないだろうか。

このことを踏まえた上で日本語の雨の表現の数を見ると、雨の呼び名だけで400種類近く、さらに雨にまつわる表現まで加えるとその数は1000近いとも言われていて、ハッキリ言ってその数は異常だ。

畑仕事など昔の人はそれだけ雨に対して敏感だったのだろうが、残念ながら俺にはその雨の違いを明確に感じる感性はない。

だけど、その呼び名を知ることで、その恩恵にあずかることはできる。

「この雨は叢雨だな」とか「この雨は小ぶりだけど、いつまでも止まないから漫ろ雨だな」と、降る雨に名前が付くことによって、ただの雨がちょっとしたクイズだったり、イベントになったりする。

自分の目の前の世界をより明確に描いてくれる。こんなことが地味に面白かったりする。

調べてみたら、雨そのもの状態じゃなくて「見た人間の心情」を雨に反映して名付けられた呼び名もある。となると、今の自分の心情を元に雨に勝手に名前をつけたりしても面白いかもしれない。

こういう風に、今まで見ていた世界の「名も無きもの」に名前がついて、より精緻に世界が描かれていく様は時として新しい世界を見る以上の面白さがあると思う。

俺はまだまだ世界を知らないなぁと思う。

世界というと今いる場所の外、例えば俺だったら県外や海外にだけ目を向けてしまうけど、今自分がいる世界のことをより詳しく知るのも存外面白い。

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