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鬼舞辻無惨という『生物』

以前書いた「鬼殺隊はなぜブラックなのか?」という記事で「無惨は合理性の化け物である」と述べた件の掘り下げ記事となる。
世間での多くの無惨評を見るにつけ、この件は掘り下げなければ理解されにくいと思うので書いてしまった以上は宿題的なテーマになってしまった。故に書かざるを得なくなってしまった。
確かに無惨は癇癪をすぐ起こす。計画性が低い。だがそれでも合理性の化け物なのだ。
だから怖い。

無惨は本当に恐ろしい。その恐ろしさの追求をするのが今回の主旨である。

【限りなく完璧に近い生物】


「違う違う違う違う」
「私は限りなく完璧に近い生物だ」

無惨は千年も前に人間を辞めている。
【鬼の首領】というのが鬼殺隊側の見方でありそれは間違っていないのだが、無惨は最早人でも鬼でもない別次元の生物の領域に到達している。
実際、無惨自身が自負するようにその生命力は凄まじい。弱点は日光を浴びたら死ぬという点以外はほぼ見当たらない。完全な生き物というのは間違った見方ではない。
生物というのは死ぬから子孫を残す。死なない生物はその「個」だけで完結しており、それ以上の発展も変化も必要がない。
ジョジョの奇妙な冒険第二部のラスボスである究極生命カーズの誕生したコマに書かれている

「SEX 必要なし。下等な生物ほど子供の数は多い。死の危険が大きいからだ。したがって完全な生物に子孫や仲間はいらない。頂点は常に一つ」

ジョジョの奇妙な冒険 第二部 戦闘潮流より

というテキストがそのまま無惨理論を証左している。まぁ無惨様は赤石入手する前のカーズに近い存在のまま終わったが。

※※※

完璧な生物である無惨にとって、ありとあらゆるものは必要なく関係がない。
仮に「利害が一致しているから協力関係を結びたい」とされても、無惨は好きな時に好きなだけ人を喰える。それを止められる生物は(縁壱を覗けば)この世に存在しない。よって、無惨側にとって利となる要素はこの世にほとんど存在しない。利があるとすれば昼間歩ける体を入手できる術だけである。
無惨は人間社会に多少混乱が起ころうと知ったことではない。戦や病や天変地異で大勢死んだとしても、百年もすれば元通りである。悠久の時を生きる無惨にとって、百年二百年と一秒二秒の差は大したものではない。

完璧というのは孤立して孤高であり、そして無惨はそれを全く気にしない精神性を保有している。先に挙げた究極生命カーズの末路は「死のうと思っても死ねなかったので―そのうちカーズは考えるをやめた」だが、たぶん無惨の精神性から考えるに無惨はきっとこれはこれで満足するだろう。
そう、無惨は誰かや何かに影響を与えたいという欲求すらない。

※※※

「とるにたらぬ人間どもよ! 支配してやるぞッ!!
我が「知」と「力」のもとにひれ伏すがいいぞッ!!」

ジョジョの奇妙な冒険第三部 スターダストクルセイダーズ DIOより

DIOというよりディオらしさが出ていて、私的に大変好きな台詞である。
愚民を「とるにたらぬ」と見下しつつ、それを支配することに固執する低俗さから逃れられないのがディオという少年だ。
「酒!飲まずにはいられないッ!」などのように、ディオは彼自身が憎悪するものの呪縛からどこまでも離れられない。そういったところに、プッチ神父もまた共感を得たのかもしれない。
閑話休題。

ともかく「自分自身」というものは自分だけでは完成しない。というより、本当は「自分」というものがなくてもいい。他者からの評価のみでアイデンティティは形成可能である。評価が大きく変動した時にエラいことになるのでオススメはしないが。
他者からの評価や扱いがあるからこそ、人間は社会を築き維持し守り恐れ疎み破壊する。他者からの観測なくしてヒトはヒト足り得ない。もし世俗から離れ、霞や雲を食って生きていける人がいるとすればそれは仙人ではない。それは霞や雲である。
つまり「他者からの評価」「他者からの扱い」も何もかも必要としない無惨は、何度も言うし誰もが言わずもがなわかっているだろうが、人ではない。鬼ですらない。ただの生物だ。ほぼほぼ完成されたただ一個の生物である。

私はこの点をして「お前は存在してはいけない生物だ」というのなら理解する。というより「この世界では共存できない生物だ」とするべきか。
炭治郎理論では賛同しない。

【生物としての本能】


人間はしょせんこの地球に生きる動物の一種に過ぎない。
単純な個体数で言えば昆虫に劣り、繁栄した長さで言うならワニ(亜峠呼世晴先生のことではない)に劣り、寿命で言えばカメに劣る。そんな生物種だ。特別でもなんでもない。仮に核爆弾で明日地表が全部吹っ飛ぼうと、地球は滅びない。なんか別の生物ががんばって明後日も生き続けるだろう。

我々は本能に従って生きている。こいつからはどうやっても逃れられない。カロリーの高いものが美味しいと感じるのも、美人のねーちゃんのお尻を追っかけるのも、ムキムキの大胸筋に見とれるのも、全部本能だ。抑制はできるが、それは他の生物だってやるので別に人間だけの特別な能力ではない。
この本能というヤツは、我慢も抑制もできる。だが除去することはできない。生物にとって絶対必要不可欠な不文律だからである。人間は人間である以前に生物なのだ。
だが、だからこそこの本能というものは社会や文化において悪しきものとなることが多い。
食欲に負けてお金を払わずに吉野家で牛丼食ったら食い逃げである。性欲に負けて同意を得ないセックスを強要すれば強姦罪だ。睡眠欲に負けて会社に遅刻するのは残念ながら……。
モーセの十戒は、要するに社会を平穏円満にするため本能に負けないようにしましょうというルールだ。そして現代の法律もそうである。我々人間は、社会の恩恵を得て生きていくならばその代償として必ず本能を抑制し、制御して生きていかねばならない。

全てがそうとは言わないが、キリスト教や仏教でいう悪魔とは、要はこういう本能的欲求であることが多い。
悪魔の誘惑とは、社会からの抑圧に対する本能の正統な抗議である。

※※※

私は園児だった頃、節分で豆を投げる時に保母さんに聞いたことがある。
「鬼に向かって豆を投げたいが、鬼がどこにいるかわからない」
保母さんはこう返してくれた。
「鬼はね。本当は君の心の中にいる。やっちゃいけないこと、悪いとわかっていることをやらせようとするのが、鬼なんだよ。だから豆を投げる時には、心の中の鬼を追い出すつもりで投げるんだよ」
私はこの保母さんの教えは、節分の追儺というものの本質を突いた答えだと思っている。
鬼も魔も、目には見えない。退治などできない。滅ぼすことなどもっての他だ。
我々が生物である限り、生き続ける限り本能という名の鬼や魔とはずっと戦い続けなければいけない。

※※※

大分話が長くなったが、無惨の恐ろしさの本質とはここである。
無惨は完成された一個の生物だ。
社会を必要としない完璧な生き物だ。
本能に依ってのみ生存することが許される生き物なのである。
したがって、無惨は架空の人物だが私たちの心の中には必ず無惨的な、社会を省みない自己中心的な生物的本能や欲求が存在する。

無惨はたしかにすぐ癇癪を起こし、自分の戦力を自分から削いでしまうなど愚かな振る舞いをする。
だが我が身を振り返れば、そのような愚かな振る舞いをあなたはしたことがないと言えるだろうか?
ましてや無惨は悠久の永い年月を生きられる。ここ十年百年で育った部下など、瑣末事だ。あと百年五百年もかければもっといいのが育つだろう。
だがあなたが過去に犯した愚行は、取り返しがつくものだっただろうか?
私が自身を糾弾するならば、過去にただ「面倒だから」という理由だけできちんと見守ることをせずに仔犬や仔猫を死なせてしまったことがある。これはどうやっても取り返しがきかないことで、十年以上も前のことなのに未だに悔やむことがある。

※※※

無惨を嘲笑うのは簡単だ。というより、他者の本能的欲求による失敗を観察すると思えば、大変な娯楽である。他人の不幸や失敗ほど美味いものはない。
だが無惨は生物的本能の権化と言える存在だ。必ず、あなたの中にも無惨はいる。それを制御できるかどうかに過ぎない。
無惨の恐ろしさとは、その圧倒的な強さではない。生物としての正しさと、人間としての誤ちを同時に体現することこそが恐ろしいのである。

【無惨が存在してはいけない理由】


無惨は正直、悪役やラスボスとして考えると人間に対する被害が呆れ返るほど小さい。
彼が鬼を増やしていたのは、ひなたぼっこできる身体が欲しいからだ。これさえ叶えばできることならば鬼を増やしたくないとすら思っている。
ちょっと話がズレるが、無惨からしてみれば自分の血を与えて人間を鬼にしているわけなので、彼の視点で見れば鬼は全て自分の力を貸与している存在である。
そんなもんが、自分の力と貸与された力を混同して成果をいつまでたっても挙げようとしないのであればキレるのも当然だろう。あれはパワハラ会議やリストラ処分などではない。借金の取りたてに近い。

無惨と鬼が跋扈していた中世から近代までの、京の貴族から武士が政権を奪い天皇家に返すまでの千年間で天変地異も戦も病も飢饉も色々あったが、日本人はとくに滅びなかった。鬼が人喰っていても全然平気だったのである。ネズミはネコに食われるより速く多く繁殖するのだ。
そして無惨が行う人間社会への悪影響とはこのたった二つである。
そう、無惨とは生物的にはなんら咎がない生き物であり、人間という種で考えてもさして悪影響が大きいわけでもない存在なのである。
だが、彼が存在してはいけない理由はちゃんとある。

※※※

無惨は人間社会に紛れこんで生きている。
そして人を喰って生きている。というより、人しか喰えないようである。
人間は無惨がいようがいまいがどうでもいいが、無惨は人間がいないと生きていけないのだ。
無惨は確かに限りなく完璧に近い生物だが「日光を浴びると死ぬ」という弱点よりこの「人間しか喰えない」方が生物としては致命的であり、そして個人としては「人間社会の恩恵を受けて生きている」ということが問題なのである。

無惨は人間に依存してその生を繋いでいる。
であるならば、それを自覚して人間という種の繁栄に貢献するのが彼の役割だ。
人間が滅びたならば餓えて無惨は死んでしまうのだから、一蓮托生持ちつ持たれつギブアンドテイク平等な関係である。
この一点を理解していなかった、どこまでも自己中心的であったことが無惨の断罪されるべき罪である。

【最後に個人的な無惨評】


私は、連載が終了近くになってからようやく鬼滅という作品に触れたのでリアルタイムで無惨の軌跡を追えなかった。
そのため、無惨は元々非常に病弱な身体で生を受けたので、死を何よりも恐れているという事実を先に知ってしまった。
だから彼が健康で健全な身体に産まれた者たちに対してコンプレックスを抱くのは仕方ないだろう……と勘違いしていた

実際読むとわかるのだが、無惨は驚異的なことに他者に対してコンプレックスは抱いていない。
「今にも死にそうな弱い奴」という点についてキレはするが、それは「健康な奴にバカにされてキレた」ではなく「自分は元来弱い生き物なのだと看破された」という図星でキレているのである。
これは似て否なる感情であり、どこまでも自己完結している。私はこれに気づいて無惨に感情移入ができず、怖くなった。

無惨は他人の評価など心底どうでもいい。だから追い詰められるとすぐ逃げる。戦わずして勝てるならどこまでも逃げて、危険な役目は全て部下に丸投げする。どこの誰に罵られ怨まれ蔑まれようと一顧だにしない。
人間の倫理やルールが通用しない存在なのだ。なのに、どこまでも人間臭い。
無惨にはカリスマも悪の矜持も何もない。だが、だからこそ恐ろしい。

※※※

ただ思う点があり、ネット上での無惨に対する無惨な評価は正直な所あまりいい気分はしない。
というのも、無惨をバカにすればバカにするほど相対的に、そんな卑小で浅薄で頭の悪い存在に千年も振り回されてきた鬼殺隊もまた同じかそれ以上に無能だと暗に物語ることになるからである。
それを念頭に入れたうえで無惨を語るのは構わないが、一方的に片方だけ悪し様に嘲笑するのはアンフェアであると私は思う。

無惨の生の執着の背景を虚弱児として生まれたという点においたのは多大な説得力があるが、先に挙げたファンたちからの評価もあって私にとっては二重にもやもやとした感情を抱く要因になっている。

無惨とて、健康な身体に産まれたかったであろう。彼は平安時代においては大変裕福な家に生まれたのでそういう意味では恵まれているが、逆に言えば彼を生かす余裕のない家に産まれていれば、千年も罪を重ねずすぐ死ねたとも言えこれを幸福か不幸と取るかはなんとも言えない。
無惨はある意味では持てる者でもあり、持たざる者としても生まれついている。
比較的平和で豊かであった明治、大正の日本に健康な身体で生まれついた鬼殺隊の剣士たちとはあらゆる点で観点が違うのは致し方ない。

問題なのは、まるで無惨の悪の根幹が「虚弱児に産まれたこと」と誤解されかねない作中描写である。
そもそも鬼滅の刃という作品の鬼たちは、その多くが元は社会的弱者たちであるという点も気にかかってしまう。
妓夫太郎兄妹や狛治は貧しく生まれつき、童摩だって情動が理解できないのはある種の障害とも見える。
益魚儀(玉壺)に至っては現代に生まれていたらたぶん強烈な個性のアーティストで済んでいただろう。
彼らは何かが食い違って身も心も鬼になってしまっただけであり、我々読者とてそれは他人事ではない。

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