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わたしは子どもが欲しくないのか問題番外編1 あの歌

先週くらいに「 #あたしおかあさんだから 」という 歌がtwitterを中心に大炎上し、TLは核の炎に包まれた(某世紀末)。
鎮静化した今更ながらわたしの感じたことを書いていこうと思う。

まず、わたしが初めてその歌を知ることになったのは漫画家の #瀧波ユカリ先生 のユーモア交えたツイートだった。

この意見に、わたしは子どものいない立場ながら共感したし、もし子どもを産むならばこういうスタンスで子育てをしたいなと思った。
上の意見に続いて、様々な意見がたくさん流れ込んできたけど、どれも批判的な立場をとったもので、ふむふむと思いながら読んでいた。

つぎによく見かけたのは #はるかぜちゃん の意見で、「あたしおかあさんだけど系」とは違って、おかあさんが抱えきれない自己犠牲の羅列を、まだ母子分離できていない幼い子どもに聞かせることについての罪を語ったもので、それも興味深く読んでいた。


一方、同じ中学校に通っていた同級生で現在二児の母である子のFBには、この歌詞炎上しているけど何が悪いの?わたしまさしくこの通りだよ?むしろこの歌詞いいと思う!っていう意見が書いてあり、そのポストには同意のコメントがズラッと並んでいた。

Twitterにもおそらく同様の意見は少なくない数あったと思うけど、わたしの目に入ってきたのは炎上中、リプやタグを見に行った時に見かけた3〜4件ほどだったので、考え方とか価値観を軸にフォローしたわけではないのに、似たような意見が集まるTLになっていたと言うことにちょっぴり驚いた事件でもあった。

話は戻るが、確かに歌詞には現実味のある母親あるあるが並んでるから、現在形で自己犠牲支払い中の一部の方々には共感を得やすいと思う。辛い時もあるけど皆もそうなんだと思うと、頑張れる気持ちになるだろう。
わたしはそういうエピソードを個人から聞くと素直にお母さんってすごいなあって思うし、尊敬もする。

ただ、「あたしおかあさんだから」をこれからの子や今の社会が受け入れるということは、どんなに自己犠牲を払って育てたとしても「それは母親だし当たり前」っていう価値観を根付かせてしまい、世の中のスタンダードであると言うことを認めてしまうことになってしまうとわたしは感じたので、子ども番組で子どもに聞かせる歌として流すのは、なんだかなあと思った。

この歌が当然のものだと受け入れられる社会って、「母親だから当たり前」から少しても外れたら、世間からも子からも「お前母親のくせに」って叩かれるんでしょ。それってとっても窮屈だし、苦しい。

”この歌が当然のものだと受け入れられる社会って”と書いたけど、
その社会は”ちょっと昔の日本の社会”そのものことだ。

現在もその名残を盛大に引きずっているせいで、時代の流れとかみ合わず、いろんなところで傷ついてる人や受け止めきれないほどの負荷をかけられている人、孤独な人がこの世の中には膨大にいて、それを変えていこう!って流れだったと思うのだけど、
ここでこの歌が受け止められてしまったら、変えていきたい”前時代の価値観”をこれからも引きずり続けることになる。

母親だって父親だって子どもだって男だって女だって、どの立場でも自分の幸せを追求していいし、これまで母親に強いてきた過度な自己犠牲は社会の仕組みや理解によって取り除かれていくべきで、そういう社会を作るためには大勢の意識を変えていって国(政治)を動かす圧倒的な数のパワーを作らなきゃで

(壮大になってきた)
(政治の話をするつもりはなかった…)

だから多くの人がこの歌にNOを出すのは、表現規制でも多様性の否定でも無駄な炎上でも、敏感すぎる過保護な反応でもなく、むしろ多様な人々が多様な価値を持ち多様な幸せを感じ、誰も無意味な消耗をしない、持続的で平和な社会になるための大切なNOであるとわたしは思った。

結局のところ、作詞家本人はなぜ歌詞が受け入れられなかったのかもわからないまま番組からは歌が削除されたようだけど。

今回のような表現を作品として発表することを規制することはいいことだとは思わないけど、無闇にネットで叩かれたという受け止め方で終わらないといいな。

※先に書いた通り、こんなに自己犠牲払えてしまう自分を、お母さんになるまであたし知らなかった。たくさん我慢をすることもあるけど、それを乗り越えられるのはあなたが好きだからよ!っていう気持ちを持つのは果てしなくすごいなあと思うし、歌詞に共感する気持ちは全く持って否定する気はない。



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