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ヴェネツィア病

ヴェネツィア病、この重い病にかかってからずいぶん長い歳月が
流れました。
私が最初にヴェネツィアを訪れたのは、
今から35年ほど前のイタリア旅行中のことでした。

ヴェネツィアとの出会いは衝撃でした

その時の衝撃は、いつでも皮膚感覚まで伴ってリアルに脳内再生することができます。よく晴れた冬の午後、乗っていたタクシーボートがカナルグランデを抜け、サンマルコの広い水際へと放たれるように出ていった瞬間、
切るような冷たい風を受けながら私はいわゆる「ぶっとんだ」状態になり、恍惚としてしまったのです。
現実でありながら、いきなり夢の領域へスイッチの切り替えなしで突入していく圧倒的な気分。
感動といってしまうには、あまりにも強烈な一撃でした。
当時ひどく風邪をこじらせていた私の頭に、今このまま死んだら
最高に幸せだろうなという考えが閃光のようによぎる。
ここが自分にとって特別な場所だという強い思いに射抜かれたのです。
もちろん生まれて初めての体験でした。
それから約10年の後、私と夫のイサオ君は運命の糸を手繰るようにして
ヴェネツィアを再訪することになるのですが、まずその物語の序章から
お話ししましょう。

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そもそものはじまりはパリでの撮影でした

90年代半ば、バブル崩壊といわれた当時の状況も今から思えば、まだまだ
よい時代でした。
ファッションブランドのカタログの仕事で、パリでロケ撮影ができたのですから。とはいえ、潤沢に予算があるわけではなく、経費削減の折りから捻出した苦肉の策ではあったのだけれど。
それまで何度か東京で撮影をし、スタジオ代やカメラマンやヘアメークなどのスタッフ費用、それから高額な外人モデル代などそれなりの費用が
かかっていました。
ならば、どこか海外で現地スタッフを集めてオーディションをし、
撮影しても、同じくらいの費用でできるのではと思いつき、
例えばある程度勝手が分かっていて知人も多いパリで撮った方が、
ずっと面白いのではないかとプランを立てたのです。
日本からはアートディレクターとスタイリスト、クライアントの最少人数
だけで行くことにしました。
そして、撮影の現地コーディネーターをパリ在住の友人に頼んだところ、
いかなる運命の神様の采配か、彼女がたまたまブッキングしたのが
ヴェネツィア人カメラマン、ダニエレだったのです。
そして彼のパリでの業界イタリアンコネクションを通じて、ヘアメークは
フリウリ出身のキアラへとつながりました。

私は表向きアシスタントディレクターでしたが、コーディネーターの手伝いの連絡係や食事の手配、つまりは雑用係みたいなもの。
我々日本人クルーはホテル代節約のため、知り合いの留守中のアパルトマンをまた借りして合宿し、そのハウスキーピングと賄いも私の役目でした。
常に6〜7人分の食事を賄うのはけっこうな重労働だったけれど、ポトフ用に大きな肉の塊を買ったり、東京ではちょっと高くて手のでないフロマージュも選び放題、物珍しいシャリュキュトリーのお総菜を試したり、一度やってみたかったことをいろいろと実現でき、しばしのパリのアパルトマン暮らしは実に楽しい経験でした。
時にはイタリア人、フランス人スタッフも交えて和食を作ったり、
逆にイタリア料理を習ったり、まさに同じ釜の飯ならぬパンを分け合う仲間(COMPAGNIA=コンパニア)として、数週間を過ごしました。
このパリで結成された日伊混合チームは意気投合し、その後もパリだけで
なく各地で度々ロケ撮影をすることになったのです。


ふとしたひと言がきっかけでヴェネツィアへ

撮影を終えたある時、別れ際にダニエレが何気なく「今度一緒に
ヴェネツィアの実家へ行かないか」と言ってきたことがありました。
後から思えば、それはまさかそんなにすぐ実現するとも思わず軽い気持ちで口にしたリップサービスだったのでしょう。
もしかすると、日本人は遠慮深いから、一度誘ったくらいで乗ってくるはずはない、とたかをくくっていたのかもしれません。
事実、(全然遠慮などしない)私たち夫婦がすぐにその気になり、
半ば強引にヴェネツィア行きのスケジュールを決めようと迫ると、今度はヴェネツィアの実家は狭くて客を泊めるような余分な部屋はないし、
両親は年をとっているし、英語は話せないし、とダニエレはぐずぐずと
及び腰になり、なかなかはっきり返事をしてこないのでした。

でもまあ結局なんとかなるさと思っていたところへ、さらなる偶然が重なります。都合よいことに、ダニエレにヴェネツィアの写真を撮る雑誌の仕事が舞い込んだのです。
そこからは話はどんどんすすみ、仕事の予定をすり合わせて、まずパリで
落ち合い、一緒に夜行列車でヴェネツィアへ向かうことに決まりました。
しばらくの間、このパリ〜ヴェネツィアという旅のルートが固定化することになり、そして物語は第1章を迎えます。

〈ヴェネツィアの玄関、サンタ・ルチア駅〉
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〈グーリエ橋から運河と河岸をのぞむ〉
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〈懐かしいマンマとパパのいるヴェネツィアの家の台所:2001年撮影〉
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#ヴェネツィアのパパとマンマとの出会い

最初にヴェネツィアの家を訪ねた時、戸口でパパとマンマは
まず息子であるダニエレを抱きしめ、それから同じように私たち二人を
迎え入れてくれました。
初めての家なのに、そこは不思議と懐かしい空気に満ちていて、
我が家に戻ってきたような気がしたのです。
後に、本当の家族のように長い時間を一緒に過ごすことになる、
パパ・ヴィットリオとマンマ・ロージィとの出会いは、はじめから驚くほど自然で、予め約束されていたかのようでした。
寝食を共にするという言葉通り、毎日同じ食卓につくことが人の結びつきを深くするのは本当です。旨い料理とヴィーノがあればみんな幸せになり、
心もやさしく通じあう。イタリアの人たちが家庭の食事をとても大切にするのは、その効能をよく心得ているからでしょう。


以来、毎年のように通って時々ヴェネツィアの空気を吸わないと、
自分らしさを保てないような気になり、前世はきっとヴェネツィアに居たに違いないと思い込むまでに病は重症化していきます。
あの時ボートの上で射抜かれた強い衝撃は、正しく私をヴェネツィアに呼び寄せるサインだったのかもしれません。



〈ヴェネツィアの家の中庭。駐車ならぬボートが置いてある〉
〈ヴェネツィアの路地裏にあるトンネルのようなソットポルテゴ〉
〈ヴェネツィアの家のふだんの食卓〉

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デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。