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スロウアンドマイナー〜緊急追記

同時多発テロ事件の9.11から19年あまりの歳月が流れました。
あの時、私たちの世界に対する価値は大きく揺らいだのではなかったか。
そして9年前の3.11の大震災と原発事故を経験した私たちは
変わることができたのでしょうか。
そして今また私たちは新型コロナウィルスのパンデミックの
脅威にさらされています。

日々刻々と変わる世界の中で、私たちの価値観はもう一度
大きく変わろうとしている。


以下の文章は2001年の12月にHPにアップしたものです。
19年前のあの時の警告からもっと学ばなければならなかったのでは
ないかと悔やむ気持ちでここに掲載します。
19年前と現在のITテクノロジー、情報社会の差に驚きながらも、
当時の危機感はまだまだ十分に牧歌的にさえ思えます。
ちなみにその後MACは3回買い換え、10年前に携帯電話を手に入れました。
未だに最後のガラケー携帯ユーザーですが、近いうちに電波が終了するので、スマホとやらにしなければいけないらしい。

スロウアンドマイナー 2001年12月


この間の獅子座流星群には感動した。我が家のマンションは新宿の灯も
近いし、3年前の時はいささか期待外れだったので、あんなに見えるとは思っていなかった。
屋上で視野を確保するため、ずっと上を向いていたので首が疲れたけれど、火球というらしい強い光を放つのや、流れた痕が残像になって残るのも
はっきりと見えた。
ひゅうっと長い尾をひいていく様は、ジオットなどのキリスト降誕図に描き込まれた通り。もっと大気の澄んだ場所に行ったら、降るような大群が
見られただろうけれど、流星が飛び交う東京の空は不思議なコントラストで、かえって神秘的だったかもしれない。

それにしてもさらに不思議なのは、そうやって我々夫婦が流星に興奮して
いる小一時間もの間、他に誰も屋上にやって来なかったこと。
テレビでは各地からの中継映像をさかんにやってたけど、そんなの見るより自分の頭上を見たほうがいいのに。インターネットでも流星映像を流し、
凄いアクセス数だったそうだ。いったいどうなってるのだ。
まさかダイレクトな体験よりも、メディアを通しての疑似体験のほうが
面白いなんてことないよね。

流星に限らず、多くの人は空を見上げたりしない。
先日も日比谷の方へ出かけたら、夕焼けがあんまりきれいだったので、
歩道の端でしばし陽が落ちるのを眺めていた。
通りがかりの人やタクシーの運転手が、私の眺めているのがただの空だと
分かって、妙な顔をしていた。UFOでも発見したと思われたのかな。
月だってそうだ。別に中秋の名月なんかじゃなくても、ぴかぴかのお月さまが見えたら、ちょっとうれしい。
まあ気楽でけっこう、こっちは空なんか見上げてるほど暇じゃないんだよという声も聞こえてきそうだが、なに何十分もぼーっとしてるわけじゃない。ものの数十秒でかまわない。
自然は遠くに行かなくたって、いつも頭の上や足下にあるのだ。
せせこましいビルの隙間に雑草がはっとするほどけなげな花をつけている。山に行って、野草ハンティングしなくたって充分季節のうつりかわりや自然の大きさを実感できるものだ。

3頭目の狂牛病の牛が発見されたそうだ。
これから、きっと続々と発見されて、そのうち何頭目なんてことも報道されなくなるだろう。与えれば危険であると分かっている飼料を、効率や目先の利益を優先して、きちんと規制しない人間の感覚とはどんなものか。
いや、感覚というものすら欠如しているに違いない。(血液製剤のときと、まったく同じだ。役人には学習能力というものもないらしい)
牛肉だけではなく、生存のために他の生命を殺して食わなければならないというのは、食の根源にかかわる問題だ。
だからといって、センチメンタルな菜食主義者になるつもりはないが、
美食とは違った意味での食へのこだわり、真摯な態度を持ちたいものだ。
食べることは人生の基本、よりよく食べることはよりよく生きること。
以前から外食は少ないほうだけれど、このごろますます外で食事をしなくなった。飲食店には、どうしたって利益をあげなければならないという命題があるのだから、初めからそれほどの満足は期待していない。
家で寛ぐ食事の時間は年齢とともに貴重に感じられるようになっている。
別に贅沢なものを食べなくたっていい、皆で囲む食卓以上に確実に幸せになれる方法はないのではないかと思う。

今年の春、我が家の愛車がついに動かなくなった。
ここに至るまでの長い道のりは、涙なくしては語れない。
数年前にかなり根本的な壊れ方をした際、すわ買い替えか?となったが、
夫婦して車はさっぱり無趣味であり、「新しい車」のイメージが
どうひっくり返っても湧かない。しばらく探してみたが
「特にこだわりはないが、ふつうの美意識を持ち合わせた人が情緒不安定にならずに乗れる丈夫でリーズナブルな車」
というのが世の中に存在しないという現実にぶちあたり、おそろしく高い
修理代を払って延命させ、びくびくしながら乗っていたのだ。
だから、今年その時がやって来たときはついにこれまでと諦めた。
廃車になるのは、さすがにかわいそうだったけれど、
長年介護してきた老人を看取ったような安堵感もあった。

さて、車がなくなりどうなったか。これが実に快適なのだ。
夫はもともと運転が好きではない。車があるゆえに、ついついかってでて
いた頼まれ事にも立派なエクスキューズができた。
何より、駐車場代をはじめとする多大な維持費もかからない。
唯一まとめ買いの買い出しに必要だが、これもどうしてもという時だけ
仲の良い隣人宅のをちゃっかり拝借して解決。
遠出も電車なので、渋滞のストレスからも解放された。
読書の時間も増え、車窓の風景を眺めるのも楽しい。
車が壊れたらすぐに買い替えねばならない、という強迫観念はなんだったのだろうか。
まあ、車がなくても問題のない都会ぐらしだから出来るのだろうけど。
地球温暖化防止のために何ができるかと、シンポジウムを開いて余計な
エネルギーを使わなくても、今すぐできることが日常に転がっている。

一年前、まだ携帯電話を持たないので珍しがられたが、現在となっては
化石扱いだ。とくに持たない主義でもないと思っていたが、今はもう
はっきり持ちたくない。
最先端のものにはいつも崖っぷちの怖さと危険がつきまとう。
携帯電話を使って得られる便利さよりも、迷惑メールなどの弊害の方が
はるかに凌駕しているような気がする。
そんなに先へ先へ急いで、そこに何があるのだろう。
かくいう私もついに今年、コンピューターを新しくしたけれど、
バリバリ最新システムではない。もはやこの機械なくして仕事なんて
できないが、逆に言えば仕事ができるくらいのものであればオッケー。
これで、映画を見たり音楽を聴いたりしようとは思わない。
自分に相応のものでいい。これ以上コンピューターとつきあう時間を増やしたくはない。

最近コンピューターウィルスの被害が頻繁に起きている。
サイバーテロなんていう怖い言葉も耳にする。ウィルスを作る人間が
何を考えているか分からないが、やはりせっかく作るのなら、なるべく
大きなダメージを与えたい、つまり最新のメジャーなシステムを破壊したいと思うだろう。ボリュームの大きなシステムほど壊れたときの修復が困難なのは自明の理。
私は仕事柄、図らずもマイナーのマックユーザーなので標的にされる確率は低い。生活をバージョンアップするのはよいことだけれど、スピードや効率を手に入れるとき、ひきかえに何かを失うことになりはしないか、ちょっと考えてみることも必要なのではないだろうか。
こんな予測不能の時だからこそ、少し立ち止まってふつうの暮らしの大切さを確認したい。世界中で起きている悲惨な出来事が、何故今起きているのか考えると、あとまわしにはできない。

デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。