人はそんなに言葉で考えていない。

例えば食器を洗う時、我々は「まず右手を動かしてそれから左手で掴んで・・・」なんてことは考えておらず「めんどくせ〜」くらいしか考えていない。

運動については脳を複雑に使っているので、言語を仲介すると邪魔になるからだ。
もっと深刻なことを考えよう。例えば「結婚願望」これは生殖し子孫を残したいという本能からくるものだ、言語的思考は結婚という成果の為に使われるが、根拠ではない。食事・睡眠もそうだ、自分の本能によるもの。

私にはこれが不安な気がしてならない。自分の中の「人間」の部分が人生や行動を決定しすぎている。やっぱり俺はこの文章を書いている俺が俺だと思っている。というか、思いたいのだ。

そう考えると、この「俺」という自己認識は言語由来なのか?もし言語を獲得しなかったら「俺」は存在しない?
この文章というのは生きるために何も必要のないことだ。将棋だってそう。しかし大事なものだ、なぜなのだろう。多分俺は人間であることを認めたくないのかもしれない。もしくは本当に俺は人間ではないのかもしれない。「俺」は人間ではなく、脳の一機能に過ぎないのかもしれない。


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