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【シリーズ第13回:黒人アーティストの人生】🎵ソウル(魂)を感じたい🎵

 このシリーズでは、私の大好きな黒人アーティスト、特に、1970年代、80年代に活躍したR&B、SOULミュージシャンを紹介しています。

・・・さて、誰でしょう🎵

さて、誰でしょう🎵

ヒント

  1. R&B、ソウル、ゴスペルシンガーです。

  2. ドラマや映画に出たこともあります。

  3. メンバー(バックコーラス)は、彼女のお兄ちゃんと、いとこたち。

  4. ソウルの女帝と呼ばれています。

  5. グラミーは7回受賞しました。

  6. レストランも経営しています。

  7. 彼女の声は唯一無二、私の大好きなソウルシンガーでーす。

生い立ち

 1944年5月28日、ジョージア州アトランタで誕生した。
 歌い始めたのは4歳のとき、チャーチのクアイアだ。
 7歳のとき、ニューヨークで開催された、ナショナルテレビのアマチュアタレントショウに出演し、優勝した。
 このとき、準優勝の少女に手を差し出したけれど、握手をしてもらえなかった。
 1950年代、黒人の彼女が優勝したのだ。しかも、ナショナルテレビで。
 会場で喜んでいる人は、誰もいなかった。
 けれども、アトランタに戻ると、サプライズが待っていた。
 NWACP(全米黒人地位向上協会)は、彼女にメンバーシップを贈呈した。しかもライフタイムだ!

 帰って来てすぐに、お兄ちゃんの10歳の誕生日が開かれた。
 彼女は、姉やいとこたちと一緒に歌をうたった。
 バックヤードで子供たちの歌声を聞いたママは、この時、子供たちの才能を見抜いた!
 
 翌日、手伝いもせずに、台所の椅子に座っている彼女を見たママが言った。

 「退屈そうやな・・・ボーっとしてたらあかんよ」 

 そして子供たちを集めた。

 「あなたたち、グループを組んで歌いたいと思う?」
 
 楽しそう!と思った子供たちの答えは、もちろんイエスだ。
 ママは、甥のPip(ピップ)を呼び出した。

 「子供たちは歌うから、あなたが彼らのマネージメントをしてちょうだい!」

 子供たちの才能を伸ばし、また、子供たちを忙しくさせて、ドラッグやアルコールのトラブルから遠ざける。一石二鳥だ。

 Pipはパフォーマーではないけれど、アトランタでは有名人、実に多くの人々を知っていた。
 彼は、毎晩やってきて、彼らのリハーサルを行った。
 最初のパフォーマンスはYWCA(キリスト教女性団体)だ。 

 続いて、アトランタのタレントショウに出演した。
 会場の向かい側には、Royal Peacock(ロイヤルピーコック)があった!!
 Royal Peacockは、1930年代後半にオープンしたナイトクラブで、Bill Doggett(ビル・ドゲット)、Hank Ballard &The Midnighters(ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズ)、The "5" Royals(ザ・ファイヴ・ロイヤルズ)、Chuck Wills(チャック・ウィルス)、Louis Armstrong(ルイ・アームストロング)、Nat King Cole(ナット・キング・コール)など、歴史的アーティストがパフォーマンスをした場所だ。
 R&Bアーティストにとっては、まさに、エンターテイメントのメッカ!!

 タレントショウは勝ち抜き戦で、出場者の中には音楽学校で、本格的に音楽を学んでいる人もいた。ストリートシンガーの彼らとは大違い。
 しかし、彼らは毎回勝ち進んだ。
 彼らには学校では学ぶことができないものがあった。

 ソウルだ~~~~!!!

 ついに優勝を手に入れた彼らに贈られたものは・・・

 Royal Peacockでの、週末のパフォーマンス!!!🎉🎉🎉
 

デビュー


 彼らのパフォーマンスを気に入った、Royal Peacockのオーナーは、1週だけの契約を5週に延長した。
 同じ頃、Brunswick Records(ブランズウィック・レコーズ)から、2枚のレコードをリリースした。
 残念ながら売れなかったけれど、彼らは、James Brown(ジェイムズ・ブラウン)、Jackie Wilson(ジャッキー・ウィルソン)、Sam Cooke(サム・クック)など、売れっ子アーティストたちと、南部のツアーに参加できることになった。

 ある日、彼らのことを知ったニューヨークのレコード会社、Fury Record(フューリー・レコード)のオーナー、Bobby Robinson(ボビー・ロビンソン)が、彼らと契約したいと言ってきた。

 ママは、子供たちの意見を聞き、契約に承諾した。
 ニューヨークへ行った彼らは、アポロシアターにも出演できるようになった!
 観客も、アーティストも、皆、彼らをサポートした。Bobbyを除いては・・・。
 Bobbyは、彼らに一銭も支払わなかった。

 空腹を抱えた彼らを救ったのが、Maxx Record(マックス・レコード)のマネージャーだった。
 
 彼女は、彼らに暮らす場所と、パフォーマンスをする場所を与えた。
 彼らは再び、音楽で稼げるようになり、リリースしたシングルも、少しずつビルボードで記録されるようになった。
 Maxxは、小さなレコード会社で、社長のLarry(ラリー)は、彼ら子供たちを家族のように大切にした。
 しかし、彼らの将来のためには、大きなステップが必要だ。
 
 Larryは、Motownへの移籍を勧めた。
 移籍にあたり、Larryは契約書の内容をすべて確認、不利益な内容は改正させ、彼ら子供たちを送り出した。
 
 1967年、Motown(モータウン)へ移籍してから、5年後のことだ。
 ついに、彼らのシングル、”I Heard It Through the Grapevine”がヒットする!!!

その人物とは・・・








 Gladys Knight (グラディス・ナイト)で~す。

 Gladys Knight &The Pipsのメンバーは、大学進学、結婚などで入れ替わるけれど、1959年以降は、Gladys、彼女の兄のMerald ”Bubba”Knight(メラルド”バッバ”ナイト)、いとこのEdward Patten(エドワード・パトゥン)と、William Guest(ウィリアム・ゲスト)だ。
 The Pipsの名前の由来は、彼らをマネージメントした、Pipおじさん🎵

Motown

 Motownといえば、黒人アーティストであれば、誰もが契約したいレコード会社!! と思うけれど、実は、Gladysは、Motownとの契約を最後まで拒み続けた。
 これまでに、いくつかのレコード会社と契約し、長い間活動してきた彼女は、ビジネスを理解していた。
 Motownのように大きな会社に入ることで、自分らしさ、グループらしさを失う可能性がある。
 また、この業界は男社会だ。女性の彼女にとって、厳しくなることは目に見えていた。
 しかも、彼らは自分たちの稼ぎで、すでに4軒の家を購入していた。自分たちのスタイルを確立し、独立した彼らが、Motownへ行く理由は見つからない。

 けれどもグループで何かを決定するときは、多数決だ。
 1対3で、Gladysは負け、7年間という約束でMotownと契約した。

 残念なことに、Gladysの考えは正しかった。
 移籍した時点で、彼らの扱いは二軍だった。売れる曲は、すべて一軍のアーティストに与えられた。
 Motownから与えられる家、車はもちろん、レコーディングに必要なスタジオ、アーティスト、楽器、そのすべてがレンタルで、後に返済させられるシステムだ。
 
 Motownのアーティストは、すでに家や車を購入している彼らに驚いた。
 観客と対話しながらショウを進行する、Gladysのパフォーマンにも興味を持った。
 多くのアーティストが、彼女と話しをしたがった。
 けれどもMotownにとったら、他のアーティストに、彼らが与える影響は、好ましいものではない。
 社長のBerry Gordy(ベリー・ゴーディ)は、彼らのことを”トラブルメーカー”と呼んでいた。

 ”I Heard It Through the Grapevine”はヒットした。
 けれども、後に収録された、Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)のヴァージョンが、彼らのセールスを上回る結果となった。

 「すでに売れた曲を、別のアーティストのヴァージョンでリリースする。
 ビジネスだから当然よね。
 私たちの問題は、Marvinじゃなくて、この曲を売るために、長い間がんばってきた私たちのことを、会社がリスペクトするかどうかってことよ」

 どうやら、彼らに対するリスペクトはなかったようだ。 

 彼らは、Motown在籍中に、11枚のアルバムをリリースした。
 ヒット曲もいくつかある。

 1970年にリリースされた、”If I Were Your Woman”は、私の大好きな一曲。 

 そして1972年、Motownとの契約が終了する直前にリリースされた、”Neither One of Us(Wants to Be the First to Say Goodbye)は、グラミーを受賞した!!

 Gladys のソウルフルでパワフルな歌はもちろん、画像は悪いけれど、The Pipsのスムーズなムーヴ!!

 ん~・・・たまらんっ!!!

 そして彼らの掛け合いだ。
 これが、Gladys Knight &The Pipsのステージだ~~~!!!。

さらばMotown・・・そして、大ヒット!!!

 Motownは、彼らのTaxを払っていなかった。
 会社は契約更新か、返済かの選択を迫ったけれど、彼らは前進することを選んだ。

 「Motownは、俺たちのおる場所じゃなかったんや。これまでにも負債は抱えたことあるし、今回も返せばええやん。できるできる~」

 と言って、彼らがBudda Records(ブッダ・レコーズ)に移籍すると、 

 ど~~~~~~っん!!!!!!
 大ヒット~~~~~!!!!!

  Midnight Train To Grogiaだ~~~~!!! 

 実は、この曲のデモテープを歌っていたのは、Whitney Huston(ホイットニー・ヒューストン)のママ、Cissy Huston(シシー・ヒューストン)で、そのタイトルは、”Midnight Train to Huston"だった。

 テキサス州のHustonか、Cissyのことか、どちらかはわからないけれど、どことなくしっくりこない。
 そこでGladysたちは、自分たちの出身地、ジョージア州に変えることを思いついた。ジョージアの人たちも絶対に喜んでくれるはず!
 曲を書いたJim Weatherly(ジム・ウェザリー)とは長い付き合いだ。Gladysがタイトルの変更をお願いしに行くと、

 「ええよ~」

 と、あっさりOKが出た。

 BuddaはMotownと違い、小さなレコード会社だ。
 一軒家のガレージの奥に造られたスタジオで、この曲はレコーディングされた。Gladysはミステイクなし、たった1回で、レコーディングを終えた。

 それがこの曲、Midnight Train to Gorgiaだ!!!
 この曲を知らない人はいないっ!!!
 ナショナルソング並みに、誰もが知っているっ!!!
 もちろん、グラミーも受賞したっ!!!

 Gladysがソロになってからの映像なので、The Pipsはいませんが、観ているだけで楽し~い🎵
 観客全員が、この曲を知り、ステージのGladysと共に、ショウを楽しんでいる様子がよくわかる。 

 同じ年にリリースされた、”You're The Best Thing That Ever Happen to Me"も好きだ~💛

 「誰かが私のライフストーリーを書いたら、悲しみと喜び、挫折と栄光、アップダウンのある私の人生の、その合間合間に、あなたの存在があるでしょうね。
 あなたとの出会いは、私の人生で起こった、最高の出来事よ」

 The Pipsの笑顔もたまらん~💛

サウンドトラック

 Gladys Knight &The Pipsといえば、映画「Claudine(クローディーン)」のサウンドトラック(1974)。
 プロデューサーは、Curtis Mayfield(カーティス・メイフィールド)だ。

 この映画の主演は美しいDiahann Carroll(ダイアン・キャロル)と、名優James Earl Jones(ジェイムズ・アール・ジョーンズ)。

 生活保護を受けながら、ニューヨークで6人の子供を育てるクローディーン(Diahann Carroll)と、ゴミ収集の仕事をするルパート(James Earl Jones)は結婚を望んでいる。けれどもアメリカの福祉制度は、決して、黒人の貧困を救うようにはできていない。
 結婚により、彼らはさらなる貧困を強いられる。
 また、子供たちは、ルパープも父親同様、彼らを残していなくなると思っている。
 結婚に至るまでの、様々なトラブルをストーリーにしたこの映画を観ると、その時代のハーレムの様子や、社会のシステムが、なんとなく理解できる。

 ストーリーはもちろん、曲も素晴らしい。我が家では、50回以上は上映されている映画なのだ。 

トラブルトラブルトラブル


 彼女は1979年までに、二度の結婚と離婚をしている。
 最初の二人の子供はママが育ててくれたけれど、三人目の子供の親権は父親が持つことになった。
 結婚、離婚、親権争い、子供、ビジネス、常に正しい判断を求められ続けた彼女は、知らない間に精神が崩壊していた。
 1980年、デトロイトからラスヴェガスへ居を移した彼女は、ギャンブルにはまった。
 ギャンブルでは、テキトーな判断をしても構わない。
 バカラのテーブルで、ディーラーと他愛ない話をするのも気楽だった。
 食事をテーブルまで運んでくれることも嬉しい。
 ブラックジャック、フットボールのゲーム賭博など、賭けれるものなら、なんでも賭けた。

 Bubbaが気付いたときには、すでに手遅れだった。
 大学に通っていた娘の送迎はもちろん、学費も支払えない状態だ。
 彼女は家、貯金、すべてを失って、気が付いた。

 「・・・あかん・・・ヘルプが必要かも・・・」

 彼女はセラピストを見つけるために、受話器を取った。

復活!!!

 ギャンブル依存症から立ち直ろうとするGladysを、あたたかく見守り続けた友人が、Dionne Warwick(ディオン・ウォーウィック)だ。

 1985年、Dionneは、AIDSの慈善事業として、Dianne Wawick&Friendsで、シングルをリリースした。
 フューチャーされた友人たちは、Gladys、そしてStevie Wonder(スティーヴィー・ワンダー)とElton John(エルトン・ジョン)だ。

 「いつも笑顔でいてね。
 いつも輝き続けてね。
 どんな時も、私を頼っていいのよ。
 友達ってそういうものだからね。
 いい時も悪い時も、いつも、いつまでもあなたの味方よ」

 いい曲だ~💛

 そして1991年、今度は、すっかり立ち直ったGladysが、お友達のDionne、そしてPatti Labell(パティ・ラベル)をフューチャーする番だ。
 聞いた瞬間に、Baby Face(ベイビー・フェイス)の曲だとわかる。 

 どうだーっ!!!この並び!!!

 まさに、ソウル界のザ・スーパーウォーマンたちだ~!!!

 「私はスーパーウォーマンじゃないのよ。ちゃんと私を愛して、愛の証を示してくれなきゃ、ダメなのよ」

 という内容なので、3人の最強スーパーウォーマンとは、少しニュアンスは違う。

 ・・・あ~・・・ダメだ~・・・楽しすぎる~・・・。


最後に・・・

 Gladysがテレビに映ると、

 「お前のGirlが出てるぞ~っ!」

 とダンナが私を呼ぶ。

 私は彼女の語りかけるような歌声も、パワフルな歌声も、そして観客と対話をするパフォーマンスも、好きで好きで仕方がない。

 そして、The Pipsだ。
 1988年のツアーを最後に、The Pipsは引退したけれど、約30年間、活動を共にした。
 お兄ちゃんのBubbaは、引退後はツアーマネージャーとして、妹を守り続けた。
 ママ、兄弟、いとこ、子供たち、彼らの家族の絆はとてもタイトだ。
 ステージから、彼らの仲の良さが感じられて、とってもハッピーな気分になる。
 
 彼女のコンサートは、これまでに3、4回行ったけれど、一度も裏切られたことはない。やっぱり私のGladysだ♡

 NFL(ナショナルフットボールリーグ)のColin Kaepernick(コーリン・キャパニック)が、キャリアを捨てる覚悟で抗議運動をしていた2019年のスーパーボウルで、Gladysが国家を歌ったときは、正直、とても残念だった。
 私のGladysは、警察官による黒人に対する暴力に抗議する、キャパニックの行動を支持する人でいて欲しかった。

 今も、このことは納得できていないのだけれど、彼女の声はやっぱり大好き。

 最後にもう一曲!!
 GladysとMarvinが歌う、”I Heard It Through the Grapevine”🎵
 GladysもThe Pipsも、
 「Marvinのヴァージョンは、自分たちのヴァージョンと同じくらい大好き!Marvinも大好き!」
 と話していた。
 きっと、Marvinも彼らのことが大好きだ💛


最後まで読んでくださってありがとうございます!頂いたサポートは、社会に還元する形で使わせていただきたいと思いまーす!