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Rosa Parks #4

バス会社との戦い

 12月8日、キング牧師と黒人弁護士のフレッドは、市の役員たちとバス会社の代表者と面会し、3つの要求を提示した。

 ①バスにおける適切な応対。
 ②バスの座席は乗車順(先に来た人が先に席を確保できる)。
 ③黒人街のバスルートへの、黒人ドライヴァー採用。

 これらに対し、バス会社側は、黒人に対する差別は存在しないと主張した。
 黒人ドライバーの採用も考慮しない。
 乗車順に座席を確保する件は、人種分離法に違反するという理由で拒否だ。
 バス会社も、市の役員たちも、歩み寄る気配すら示さない。
 彼ら白人は、ボイコットを阻止するために、どんなことでもできる。

 警察はまず、10セントで代行運転をする、黒人所有のタクシー会社をターゲットにした。
 正規料金の45セントを請求しないドライヴァーは逮捕された。
 これに対抗し、MIA(モンゴメリー改善協会)は、数台のステーションワゴンを購入した。
 購入には、暮らしに余裕のある黒人と、ボイコットをサポートする白人が協力した。
 続いて、ボランティアのドライヴァーを募った。
 ローザに与えられた仕事は、送迎が必要な人から連絡があれば、指定された時間と場所にドライバーを手配することだ。
 しばらくすると、送迎はシステム化され、最終的にはピックアップと乗り換えのために、32カ所のステーションが設置された。
 そして、20台の個人の車と4台のワゴン車が、朝の5時半から夜の12時半まで、計画的に運航されるようになった。
 このシステムにより、約3万人の送迎が可能になった。
 ボイコットが長引くと、自らメイドを送迎する白人女性も現れた。
 彼女たちは、メイドなしで生活できない。
 
 警察はこれらを全力で阻止した。
 黒人ドライヴァーが、少しでも違反をしたら即逮捕だ。
 送迎をする白人夫人に対しては、人々に手紙や電話をするよう促した。

 「次にリストする白人は、ニグロのメイドを送迎している。
 我々が、このことをどのように感じているか、昼となく夜となく、彼らに電話で知らせてあげよう。
 彼らはきっとあなたからの電話に感謝するだろう」

 企業の多くは、ボイコットをサポートする黒人を解雇した。 
 ローザは、MIA宛に、全国から寄付された衣類や靴を、職を失った人や、歩いて仕事へ行く人たちに配布した。
 
 MIAは、毎週月曜日と木曜日にミーティングを開き、ボイコット継続のため、人々の士気を高め続けた。
 ボイコットはすぐに終わると考えていた白人は焦り始めた。
 1月末、市の役員は、MIAに参加していない3人の牧師と会談し、騙し討ちを試みた。

 「バスの前部座席10席を白人用、後部座席10席を黒人用に確保し、残りは乗車順とする」

 という案を提示し、3人の牧師の同意を得た。
 そして、日曜日の新聞の一面で、ボイコット終了を大々的に掲載した。
 これに対するキング牧師と、MIAメンバーの行動は迅速だった。
 翌朝までに、偽情報であることを黒人たちに伝えた。
 結果、翌月曜日も、バスは空っぽだった。

 黒人をコントロールできないことに、市長は怒り、黒人リーダーを過激派と呼んだ。
 そして、交渉もしていないのに、交渉を打ち切ると言った。
 1月末、キング牧師の家が、その2日後には、ニクソンの家が爆破された。
 ローザの家は爆破こそされなかったけれど、
 
 「お前なんか殺されろ!」

 脅しの電話が鳴り続いた。
 
 2月初旬、地方裁判所は「バスにおける差別は憲法違反」という判決を言い渡した。
 けれども、モンゴメリー市もバス会社も、ドライヴァーの差別行為を認めず控訴した。
  
 ボイコット開始から約2か月が経過した。
 バス会社は経営困難に陥り、全路線のバスの運行をストップした。
 これにより、ダウンタウンの商売にも影響が出た。

 2月中旬、白人弁護団は、バスボイコット禁止に関する古い法律を持ち出し、キング牧師たち指導者を告発した。
 キング牧師、20人の牧師、MIAのリーダー、ローザを含む数人の市民、計89人が逮捕された。
 MIAは保釈金を払い、裁判が始まるまでに全員を釈放させた。

 3月、裁判が始まった。
 まずはキング牧師だ。
 バスの中で差別を経験したことのある、多くの人が、彼のために証言をした。
 判決は、キング牧師を除く88人は無罪だった。
 有罪のキング牧師は、500ドルの罰金、もしくは1年間の厳しい肉体労働を課せられた。
 けれども、このケースも上訴が目的だ。
 キング牧師はこれらを無視し、ボイコットを継続した。
 そして、人々は歩き続けた。

歩く、歩く、歩く・・・そして判決!

 春になると、他の都市が、バス・ボイコットに興味を示し始めた。
 ローザは、教会や学校からスピーチを依頼された。
 結果、人々から寄付が集まり、ボイコットに必要な経費を賄えるようになった。

 6月、連邦地方裁判所は3対2でローザ達に勝利をもたらした。
 モンゴメリー市はこれを不服とし、最高裁判所に決定をゆだねた。
 計画通りだ。

 夏になった。
 黒人は歩き続けた。
 白人は、協会所有のステーションワゴンに対する車両保険をキャンセル、販売を中止した。
 保険なしで車両を運行することはできない。
 この妨害に対し、キング牧師は、アトランタで保険会社を経営する、黒人のアレキサンダーに連絡をした。
 アレキサンダーは、ロンドン最大の保険会社「ロイズ」の車両保険に、協会を加入させることに成功した。

 次に市長は、ワゴン車の送迎を待つ、黒人グループに目をつけた。
 彼らは送迎を待つ間、歌をうたっていた。
 その歌声が、「公共の場での迷惑行為」だと言って告訴した。
 けれども、これは最高裁判所の判決とほぼ同時期だった。
 1956年11月13日、最高裁判所が下した判決は・・・

 モンゴメリー市のバスにおける差別は違法!!! 

 そのニュースを聞いた人々は大喜びした。
 けれどもMIAは、最高裁判所から、正式な文書が届くまで、ボイコットを継続することにした。
 そして、皆がそれに従った。

 翌月1956年12月20日、最高裁判所は正式な書面で、その判決と命令をモンゴメリー市に対して発行した。
 この瞬間、モンゴメリーの黒人による、バス・ボイコットは終了した。
 1955年12月10日から380日目のことだった。 
 

ボイコット終了後

 ボイコットは終了しても、白人との戦いは終わらなかった。
 まず、スナイパーがバスを射撃し、それを理由に、モンゴメリー市は、夕方5時以降のバスの運行を中止した。
 その結果、5時に仕事が終わる人は、バスで帰宅できなくなった。

 実現しなかったけれど、白人コミュニティは、白人専用バスをつくろうとした。

 そして、牧師たちの家や教会が爆破された。
 
 白人の怒りは収まらない。
 けれども、バス内での差別が違法になったことで、黒人は、以前のようにバスへの乗車を恐れる必要がなくなった。
 彼らは法律に守られている。

 ドライヴァーのブレイクは、裁判終了後、レポーターの前に姿を現さなかった。
 彼は、黒人に対する態度を改めることなく、黒人の権利を認めることなく、生涯を終えた。
 南部には、多くのブレイクがいる。
 彼ら差別主義から黒人を守ることができるのは法律だけだ。

キング牧師と非暴力主義

 バス・ボイコット成功の鍵は、黒人全員がキング牧師を信じたこと、そして「非暴力主義」を貫いたことだ。
 「非暴力主義」は、インドのマハトマ・ガンディーの思想、戦略だ。
 暴力に対し、反撃もしなければ、逃げることもしない。
 臆病な戦略のようだけれど、実際には勇気と強さ、忍耐を必要とする。
 「非暴力主義」を貫くことにより、白人が作り上げた、黒人の「狂暴」「劣等」というイメージが覆される。
 その結果、世間の人々から理解と協力を得ることが可能になる。
 もちろん、血を流すこともある。
 時間もかかる。
 けれども、人種差別主義者に黒人が勝利できる、唯一の戦略だと考えられている。
 実は、モンゴメリーのバス・ボイコット事件まで、この戦略は知られていなかった。
 キング牧師がこの戦略を使用し、勝利に導いたことで、「非暴力主義」の成功の可能性が証明された。

 ローザ・パークスは、キング牧師なしで、彼の戦略なしで公民権運動の成功はなかったと信じている。
 その一方で、「非暴力主義を100%支持することもできない」とも言っている。
 彼女には、黒人としてプライドを持ち、果敢に白人に立ち向かうおじいさんの血が流れている。

 2005年10月24日、「公民権運動の母」ローザ・パークスは亡くなった。
 92歳だった。

 「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の発端は、”あるひとりの黒人女性が白人に席を譲らなかった”というほんの小さな事件、人種差別に疲れ果てたローザ・パークスが、たったひとりで起こした小さな抵抗からだった。
 歴史の教科書にも出てくる大きな事件だ。
 現在、その教科書を、これら歴史を失くそうとする動きがある。
 これについてはまた別の機会に書こうと思います。

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